#1
君は、覚えているか。
嘗て自分達が互いに愛し合っていたということを。
あれだけ愛し合っていたのに、君はこちらを向いてくれなくなった。
これだけ愛しているのに、胸が張り裂けそうなくらい、君のことを思っていたのに。
もう1度、もう1度あの愛を取り戻したい。
いつまでも君の隣で笑っていたい。いつまでも君と一緒にいたい。
いつまでも、愛し合っていたい。
それが駄目なら……。
久々にこの町に戻って来た。
先日送られてきた同窓会の招待状。これまでにも何度か送られて来たが、仕事が忙しくていつも【欠席】にサインをして送り返していた。それがこの頃漸く予定が空き、初めて【出席】に丸印をつけることが出来た。
もしかしたら、皆俺の顔なんて忘れているかもしれない。約15年が経ち、俺の容姿は若干変わった。寝不足で目の下に隈は出来るし、毎日命がけの仕事を行っているため目つきは悪くなった。身長は高校に上がってからは伸びることは無く、170そこそこでストップしているが、体重はやけ食いで若干増えてしまった。端から見るとそれほど太っているようには見えないが、服を脱げば割れた腹筋ではなく弛んだ腹が垣間見える。それにこの頃、ストレスで白髪が生え始めた。そのため実際の年齢よりも老けてみられるかもしれない。
もし俺が想定している様な辛い反応が返って来たら。何、それならそれで早めに退散すればいい。
駅から歩くこと20分、やっと会場に到着。俺が青春時代を過ごした高校は去年廃校になった。少子化の影響が母校にも出て来たようだ。これまでは高校を会場にしていたらしいが、今年はそうも行かず急遽この体育館に変わったのだ。体育館なので普段はスポーツ大会等にも度々使われているらしい。
それにしても暑い。ダラダラ汗をかいてしまい、スーツの中は気持ちが悪いくらい濡れていた。もっと駅から近い場所にしてくれれば良かったのに。
エメラルドの屋根は所々薄汚れている。敷地内はかなり広く、ゲームなんかに出てくる宮殿に似ている。大きな扉を押して屋内に入ると、冷気が俺の方へ流れて来た。中は冷房がちゃんと効いている。汗をかいているから余計に涼しく感じる。
さて、会場を探そう。歩き続けて疲れた足に鞭打ち、俺は更に歩を進めた。バスケットボールでもやっているのか、廊下にドン、ドンという大きな音が響き渡っている。通路を歩き回っているのだが、なかなか会場と思しき部屋が見つからない。鞄から招待状を取り出して場所を確認してみると、
「3階かよ」
ため息をつき、今度は階段を探す。エレベーターも設置されているが使う気にはならなかった。閉所恐怖症の俺にとってあれほど恐ろしいものは無い。あの小さな箱が何らかのトラブルで動かなくなってしまったら、と考えてしまうのだ。
しかし、ここまで歩いて来たせいかすぐに疲れてしまった。まだ30代だというのにもう息が切れている。会場を発見した頃にはフラフラだった。
何年ぶりだろう、彼等に会うのは。来る途中に想像していた様な、悪夢の様な展開が待ち受けていたらどうしよう。俺の心を不安が過った。
いや、友人達ならきっと覚えていてくれる。大丈夫だ、安心しろ。深呼吸をして気を落ち着かせてから、ゆっくりと扉を押す。すると、思いのほか音が出てしまい、中にいた数人がこちらに注目した。1人は太った大男、もう1人は痩せ形で、黒縁の眼鏡をかけている。殆どは俺を見なかったことにして他の人物との会話を続けたが、2人の男性は笑いながら俺に近づいて来た。
「お前、瀬川だろ? 瀬川光明! 久しぶりだなあ!」
「ええっと、神崎?」
「そうそう、陸上部で一緒だった」
1人は部活動で仲の良かった神崎幸雄。相変わらずよく肥えている。大食感で、好物はフライドチキン。今も片手にはワイングラスではなくチキンが握られている。
学生時代、鬱屈した感情を晴らすために、俺は時たま神崎と手を組んで馬鹿なことをやっていた。校庭をバイクで疾走したり、壁に落書きをしたり。しかしどちらも度胸が無いため、バイクを走らせるのはいつも夜、落書きもスプレーではなく名前を書くための油性ペンで行っていた。厳格でいつも俺を注意していた父親に反抗するために行ったことでもあるが、それにしても小さくて馬鹿馬鹿しい反抗だった。
「おいおい、俺のことも覚えてるよな?」
と、もう1人の眼鏡をかけた男が言った。すぐには思い出せず、顔をじっと見つめた。すると次第にある人物の顔が脳裏に蘇った。
「……笹井?」
「おぉ、正解」
笹井はクラスで一緒だった。俺や神崎とは違ってスポーツは苦手だったが、生物に関する知識は誰よりも豊富だった。テスト前なんかにはよく教えてもらっていたっけ。神崎とは俺を介して知り合いになった。ばか騒ぎしていた俺達とは違って笹井は真面目だった。正義感があって、俺と神崎が喧嘩をすると仲裁してくれた。
他にも何人か友達がいたが、この2人が最高の友だったかもしれない。ここに入るまで抱いていた不安は一気に晴れた。
「神崎は今何を?」
「高校の体育教師だ。最近のガキは本当に人の言うこと聞かなくてな。毎日頭を抱えてるよ」
あの、やんちゃでいつも先生に怒鳴られていた神崎が高校の教師に。人生とは本当にわからないものだ。ヤツのいたずらを見ている俺は、コイツの愚痴を聞くとつい笑ってしまった。お前が言えた口か、と。
「へぇ。笹井は?」
「製薬企業で働いてる」
「おお、学者じゃないのか」
笹井は元々生物学者を目指していた。いつかは新種の昆虫を発見して、自分の名前を付けると言っていた。
「まあ、やりたかった仕事とは少し違うけど、こっちはこっちで人助けが出来るからね。やりがいのある仕事だよ」
「そうか」
「そういう瀬川は?」
笹井が聞いてきた。神崎も興味津々だ。
「俺は……」
ちょうどそのとき、会場のドアが再び開き、ある人物が入ってきた。禿げ上がった頭に、僅かに残存する白髪。あの頃の若々しい顔には皺ができ、目尻も垂れ下がっている。体型も丸みが増している。それでも、グレーのスーツを着こなす男の姿はまさに紳士だった。
「すまんなみんな、遅くなってしまった!」
「おおっ、主役の登場だ!」
近くの同窓生達が口々に歓声をあげた。紳士はそれに向かって手を振ってみせた。その姿に女性達も大盛り上がりだ。
衣笠昭夫。クラスの担任だ。本の知識が豊富で、今声を上げている“元”文学少女達の憧れの的だった。しかもマナーもしっかりしていて、どの生徒にも平等に優しかった。怒ることもそうなかったのではないか?
既に先生の周りには人だかりが出来ている。殆どが女性だった。
「うわあ、まるで芸能人だな」
「ははは、そうだな」
と、そのとき、背後から鋭い視線を感じた。
振り返ると、目つきの悪い男が壁に寄りかかって俺のことを睨んでいた。同窓生の1人だろうか。眉のあたりまでのびた黒髪、色白の肌。ほっそりとした身体。俺達と同じ歳にしては若く見える。モデルだと言っても誰も疑わないだろう。
あいつは誰だろう? 同じクラスの人間だったら先程のようになんとか思い出せるのだが、彼だけはなかなか思い出せなかった。ソイツは暫く俺を観察していたが、それに飽きたのか、今度は衣笠のことを観察し始めた。他の同窓生はグループを作って談話しているというのに、彼はどの集団にも混ざろうとせず、1人赤く透き通った液体……ワインではなさそうだ……を飲みながら他人を睨みつけている。
「よし、じゃあ皆さん注目!」
同窓生の1人、木村英明がカメラを上にあげて全員に呼びかけた。あの男は確か、八方美人のセコい学生だった。
「衣笠先生も来たことだし、とりあえず集合写真を撮りまーす!」
ああ、集合写真か。そういえば卒業後は1枚も撮っていない。記念に撮影してもらおう。
手に持っていたグラスや小皿をテーブルに置き、同窓生達が木村の方へ向かう。あの女生徒達も衣笠と一緒にこちらへ向かってくる。まるでイワシだ。いや、1人は先生だし、良く言ってスイミーといったところか。
途中でその魚群に遭遇した。先生は俺の顔を見ると笑顔になり、俺に握手を求めてきた。
「君は、瀬川君だったね」
「覚えていてくださったんですか」
「当たり前だろう、私は教え子のことは全員覚えているよ」
「ありがとうございます」
「先生、はやく!」
「ああ、すまん! じゃあまた後で」
衣笠と女生徒達は俺を追い抜いていった。
緊張した。俺が先生と話している最中、あの女生徒達は皆不機嫌そうな顔をしていた。話しちゃ悪いのかと言ってやりたかったが、言ったら総攻撃を食らうところだったろう。もう30代だろうに、いつまで小学生のようなことをしているのだ。
苛々している場合ではなかった。もたもたしていたら木村やあの女生徒達に文句を言われかねない。やや駆け足で向かうと、途中女性とぶつかってしまった。謝ると向こうも頭を下げてきた。
「すいません!」
「いいえ、こちらこそ……あれ? 瀬川君?」
名前を呼ばれ、驚いて顔を上げると、そこには見覚えのある顔が。長い髪は茶色く染まっているが、透き通った目や美しい顔質、華奢な体系もあまり変わっていない。
間違いない。宇崎朱里、俺の初恋の相手だ。学生時代に告白したことがあったが、悉くフラレてしまった。その後の学校生活がまぁ気まずいこと気まずいこと。彼女も何だか申し訳なさそうだった。
「久しぶりだね。同窓会に来るのって、今回が初めて?」
「ああ、そうだね」
「ふふふ、いつも探してるのに見つからなかったから」
これには驚いた。まだ俺のことを覚えていたとは。俺も覚えてはいたが、それは彼女の顔を見たから思い出しただけだ。
朱里の言葉を最後に2人とも黙ってしまった。何か話題を探さなければ。仕事の話題でもふってみるかと現在の状況を尋ねてみようとすると、朱里は突然手を握って、小さな声で
「助けて」
とだけ言ってすぐに走り去ってしまった。
いったい何だったのだろう。前を見ると衣笠がニコッとこちらに向かって微笑んでいる。勘違いされてしまったか。俺はなるべく衣笠と顔をあわさないようにして適当な場所についた。前方で木村がカメラのセッティングを行っている。久々の写真だし、何かポーズでもとってみようか。いや、そのままでいいな。そんなことを考えながらふと後ろに目をやると、そこにヤツが立っていた。俺を、そして衣笠達を睨んでいた男だ。また俺のことを睨んできた。もともと目つきの悪い奴なのかもしれない。
「何だ?」
男の方から話しかけてきた。
「いや、何でも。君、名前なんだっけ?」
「瀬川光明」
「それは俺の」
はっと息をのんだ。男は俺の名前を知っていた。ということは、どこかで面識があるということだ。まずい、あんな質問をしてしまったら、俺が彼の名を忘れていることがわかってしまう。
「はい、撮りますよー!」
セルフタイマーのカウントダウンが始まった。男はもう前を向いている。俺も同じように前を向いた。10秒ほど経った頃、フラッシュが焚かれて撮影が完了した。すぐさま木村が撮れ具合を確認するが、どうも気に入らなかったようで、
「そこ! もっと笑ってよ!」
と俺を注意してきた。きっとコイツは俺のことを全く覚えていない。今も“そこ”と言うだけで俺の名前は呼ばなかったし、学生時代は自分の利益に繫がりそうな人間とばかりつるんで来た男だ。特に才能も優れた点も無かった俺を覚えている筈が無い。
思い出すと苛々してくるが、また何か文句を言われそうだったので、無理矢理笑みを作って前方を見た。
「はい、じゃあもう1回いきます!」
再度セルフタイマーが作動し、その隙に木村が列に入った。先程と同じくらいのタイミングでフラッシュが焚かれ、2度目の撮影が終わった。今回は木村の気に入るものになったようで、嬉しそうにニコッと笑みを浮かべてOKサインを出した。
全員が散り散りに去ってゆく。そて元居た場所に移動し、ワインを飲み始めた。
俺は朱里をずっと探していた。先程彼女が言った「助けて」という言葉が引っかかったのだ。
会場内を見回すと、遠くの方に誰かと話をしている彼女の姿が見えた。場所を移すフリをしてこっそり近づいた。相手は痩せ形で猫背気味の男性。名前は確か、近藤祐介。特に目立った生徒ではなかったし、別に仲も良くはなかった。ただ知っているだけだ。
「宇崎さん」
近藤が朱里に言った。その目は何だかギラギラしている。
「僕、まだ諦めてないから」
それだけ言い残して近藤は立ち去った。俯く朱里。俺はすぐさま彼女に話しかけた。
「だ、大丈夫か?」
「瀬川君」
朱里が笑みを見せるが、作り笑いだということはすぐにわかった。何かに怯えている様な印象を受けた。
彼女は何か大きな不安を抱えている。俺が、俺が彼女を励まさなければ。彼女を助けなければ。
「何かあったらすぐに言って。俺が力に……なる、から」
言葉が詰まった。
朱里の左手薬指に輝く白銀の輪。所謂婚約指輪というものか。これを見た途端、俺の勢いは一気に冷めてしまった。少しでも希望を持った俺が馬鹿だった。いやいや、やはり私情を挟むのはまずい。無理矢理自分の精神を奮い立たせた。お前の仕事は何だ、と。
「あの、私」
朱里が何か言おうとしたとき、衣笠が旅行先の土産を配りにやって来た。彼のことを邪魔だと感じたのは今回が初めてかもしれない。京都に行ったらしく、色々な味の八つ橋を持って来ていた。
「さあさあ、食べてくれ。京都で買って来たんだ」
箱詰めされていたものをビニール製の袋に入れ替えたらしい。どの味が来るのかわからないということだ。
俺達が学生だった頃も、先生はこういうことが大好きだった。体育祭の応援団、クラスの係、そういったものを決める際はこのようにくじ引きで選んでいた。そのときによく言っていたのが、「運命」という言葉だった。
「いいですか? どんな結果になろうと、どんな役割を与えられようと、それは運命なのです。必ず何処かに、あなた方を救う希望があるはずなのです」
あの言葉、何だかんだ当たっていた。やる気の無かった仕事を今も続けているのだから。この仕事に就いたのは父親の影響。当初はすぐに辞めて別の仕事を始めるんだろうなと想像していた。そんなときに浮かんだのがあの言葉だった。それでもう少し辛抱してみようと思ったのだ。
衣笠が袋の中を見ずに八つ橋の入ったパックを取り出した。俺が渡されたのは抹茶味、朱里はチョコレート。今はこんな味もあるのか。最近は旅行に行っていないので各地の名産品についてあまり詳しくない。
「じゃ、じゃあ、そういうことで」
俺は友人達がいるテーブルへと戻っていった。帰ると、神崎と笹井がニヤニヤしながら俺のことを見つめていた。
「お前、まだ諦めてないのか」
「は?」
「とぼけんなよ。告白したの知ってるんだからよ」
最悪だ。これでまた暫く、俺は宇崎朱里のネタでこの2人からいじられることになる。学生時代もそうだった。いつまでもいつまでも、2人は同じ話題で盛り上がっていた。
「残念だったな。宇崎、もう結婚してんだよ」
「知ってるよ、さっき指輪を見た」
「相手は知らないだろ」
「え?」
もうきっぱり忘れようとしていたが、どうしてもその相手のことが気になってしまう。朱里はいったいどんな奴がタイプだったのだろう、と。
「アイツの旦那は……」
笹井が相手の名前を言おうとした、まさにそのとき。
会場内に甲高い悲鳴が響き渡った。そちらを見ると、1人の男性が首をおさえてもだえている。何か押さえようとしてテーブルに引かれたマットのふちを掴み、そのまま床に倒れてしまい、男性の体にワイングラスや料理、そして食器が降りかかった。外部の痛みに依るものか、内部で発生した異変に依るものか、数秒のたうち回った後、電池が切れた玩具のようにピタリと動きを止めた。
すぐさまそちらへ向かおうとすると、今度は別の場所で悲鳴が。誰かが倒れたのだ。友人であろうか、女生徒が呼びかけている。
「アカリ! アカリ!」
アカリ?
まさか。女生徒等が群れている方へ向かうと、つい今し方まで会話をしていた宇崎朱里が、口から血の含んだ泡を吹き出して倒れているのが見えた。もともと色白だったが、今は更に白く染まっている。
いったい何が起きた? 食中毒? いや、それならもっと多くの生徒が同じ様な症状に陥る筈。だとするとこれは、意図的に引き起こされたことなのか?
後ろで誰かが走る音がする。俺はすぐさま叫んだ。
「動かないで!」
かなり大きな声だったと記憶している。神崎も笹井も、木村も先生も、そしてあの元文学少女達も俺の方を向いていた。
扉に手をかけていた男性を指差し、俺は続ける。
「事件かもしれない。この会場から、絶対に出ないでくれ」
男は自分のことだと気づいたらしく、ゆっくり手を離して振り返った。近藤祐介だった。
「朱里?」
倒れた男性を介抱していた同窓生が、男を友人に任せてこちらに向かって来た。
「朱里! おい朱里!」
クラスメートの西野秀雄。あの様子から察するに、2人は深い関係にあったのだろう。今日のためにセットしてきたであろう髪が乱れている。
そして、もう1人。
「朱里君! しっかりするんだ!」
先生だ。1度朱里に呼びかけ、続いてもう1人の男性にも同じように呼びかけた。残念ながらどちらも反応は無い。
「どうしたんだ!」
「先生、それから西野。悪いが彼女から離れてくれ」
「何?」
西野が俺を睨んだ。
神田が言う。
「お、おい、何だよ瀬川? 刑事みたいなこと言って」
「刑事だよ」
「え?」
「俺は、刑事なんだ」