序章
忘れられない日がある。
寂れた公園の一角。
そこらじゅう掘り返した跡のある園庭の、比較的新しい土の跡の前に、三人が立っていた。
「……」
背の高い青年と、崩れ落ちそうになっている中年女性とそれを支える少年。
「なんで親父は」
「……」
青年からもれた低いうめきに、少年が面を伏せて目をそらす。
先ほど出来たばかりの土盛りから目を背けるように。
女性の嗚咽する声と、憤りを隠しきれなく、肩を怒らせる青年の震える息。そして、そこから隠れるように静かにしている少年。
目の前にしている土盛りに収められたのは、一人の少女。少年と三つ違いの妹だった。
「亜美ぃ」
嗚咽交じりの母の声に、少年は目を閉じて唇をかみ締めた。
本当ならば、ここにいるべき人が、ここにはいなかった。
「……。勇介」
静かな兄の声に勇介は顔を上げた。父に良く似た大きな背中はかすかに震えている。
「なぜ、親父はここに来ない?」
低いつぶやきに勇介は唇を引き結んで深く息をついた。
「仕事が、職務が大変だって、いけなくてすまないと」
「……すまないですむ問題じゃないだろう」
静かな口調だが、そこに込められた感情の激しさに、勇介は後じ去った。
「……すまん」
この長兄は、こういうところを心得ている。
臆病な弟と勝気な妹の面倒を良く見ていたこの人は、すぐ、勇介がおびえていると謝る。
お前に怒っているわけではないと、笑うのだった。
「職務は大変だろうけど、……でも」
彼らの父親は軍人。
そう簡単に職場を抜け出すことは出来ない。わかっているが、この場に、いや、いつも有事のときは不在で、そのたびに、この兄が取り仕切っていた。
今回もそう。有事なのだ。
「……帰ろう」
ややあって、兄はポツリとつぶやいた。辺りを見ればもう日が暮れるところだった。
「おそらく、外出自粛要請が出るはずだ。ここにいると誤解される」
ほとんど動けないでいる母を引きずるようにして、臨時の墓地としてほじくり返されることになった公園を後にする。
車に乗り込んで、兄が運転する助手席に入る。
「勇介」
「……?」
ステアリングを握り、前をにらむ兄の顔はいつになく険しい表情をしていた。
「俺は、許さない」
端的な言葉に、妹が受けた仕打ちについてだろうと判断して勇介はうつむいた。
妹は、今朝方の大規模爆破テロで、死んだ。
爆心地近くにいたらしく、木っ端微塵で、服の破片と身につけていたアクセサリーでようやく身元がわかり、先ほど手厚く葬られたのだった。
その知らせを受けて、この国の軍人、まだ下っ端軍人である二人は駆けつけてこれたが、佐官である父は来れなかったわけだ。
「……兄さん」
「なにも言わなくて良い。聞いてもらいたかっただけだよ」
ちいさな呼び声に、兄はふっと表情を緩ませて勇介の頭を片手でわしわしと撫でた。
そんな兄がいつもどおりで、少し安心するとふっと体から力が抜けた。
「帰ったら軽く食うぞ。さすがに、食欲はないが、少しでもつまんでおこう」
いざとなったら支給されている軍用食でも、という兄に首を振って何か作るといっていた。
慌てた様子の勇介に兄はふっと笑って楽しそうに目を細めた。
なんとなく、日常が戻ってきたような気がする。
でも、少しさびしい。
人気のない夕暮れの中、一台の車が道を走っていく。
そして、家に帰り、兄の予想通り、外出自粛要請を伝えにきた町内会長を出迎え、送り、食事をつまんでいると、疲れがどっと襲ってきた。
「明日も早い。そろそろ休めよ、勇介」
母さんの面倒は見ておくと言う兄の言葉に甘えて、負担をかけっぱなしだと申し訳思いながらも、早々にベッドに入った。
そして、翌日、 妹を失ったこの家に、とある重大なニュースが飛び込むことになった。
「父さん?」
朝、日の出前に起きて、駐屯地に向かおうとした勇介が見たのは、朝には見かけたことのない男、父の姿だった。
「のんきなものだな。お前は」
コーヒーをすすり座っている父の姿は異質だった。
――まるで異物。
言葉など、耳にまるで入ってなく、見ない振りをして通り過ぎてキッチンへ向かおうとした勇介の背中に、一つの言葉が投げられた。
「勇一が行方をくらませた」
短く告げらた言葉にハッと振り返った。 それが示す事態に、にらむように父を見ると、父は湯気の立つカップに視線を落としながら静かな声で説明を続けていた。
「千代が部屋に入ったら、置手紙があったそうだ。……昨日の今日で良くやってくれるよ」
皮肉げな言葉に勇介はこぶしを握っていた。椅子に座っている父の表情が見えない。
「父さんは、兄さんがどんな思いで父さんの代わりをしていたから知らないんだ」
「お前は政治犯の肩を持つか?」
厳しく口にされた言葉に勇介は口をつぐんだ。
政情が不安定になってしまったこの国は、いまや、半世紀以上前の国の姿を取り戻しつつあるという。
そして、国にたてつく姿勢をとったものは、政治犯として、全国指名手配され、とらえられ次第、裁判も何もなしに牢屋にぶち込まれるという、極端な扱いを受ける。
そして、それを擁護するような一般人も同様に扱われる。
昨日までそこに座っていたはずの兄が、そんな扱いを受ける人間になってしまった。
「ならば、おとなしくしていることだ」
コーヒーを飲み終わった父は、立ち尽くす勇介の脇を通り抜けて、キッチンにカップを置いてそのまま出て行ってしまった。
母は、父とどんな話をしたのか、昨日の憔悴振りが嘘のようにきびきびと動き回っている。
「勇介、早く食べなさい」
用意されたトーストと目玉焼きで朝食を済ませると、所属する駐屯地へ向かう。
そして、勇介が詳しい聴取と、その後上からの圧力を掛けられ、退役させられたのは、間もないことだった。