わたくしの夜会で婚約破棄をなさるのは、今季四人目です。夜明けの決闘はお断りしますので、招待状をお返しいただけますか
婚約破棄の決闘は、いつもわたくしの庭で行われます。
今季は、もう三度になりました。
楽団は、今夜も止まっていません。
セラーノ伯爵家の夜会では、八年、一度も楽団が止まったことがないのです。誰かが杯を割っても、誰かが泣き出しても、王妃様の首飾りの留め金が外れて真珠が床じゅうに散った晩でさえ、ギターと提琴は鳴りつづけました。止めないことが、この館の女主人の務めだと、わたくしは亡き夫に教わりました。
夫は、ほかにもたくさんのことを教えてくれました。いちばん守りたい客は、女主人の右の席に座らせる。灯りは足りないくらいがちょうどいい。それから、招待状のこと。
「招待状は、おまえの名で出すのだよ、アマリア。客は皆、この館にいるあいだ、おまえの名の下にいる。だから、返してもらうこともできる」
そう言って、夫は笑いました。
「使わずに済むことを、祈るがね」
広間の端から、扇の先を少しだけ傾けます。家令のトリビオが目で応え、南の窓辺の燭台に灯りを一つ足させました。踊り疲れた方々が、あそこで休みはじめていたからです。席を外す方には侍女を、料理の冷めた卓には温めなおした皿を。目の届く限りのことを、わたくしは扇一本で動かします。
王都エステラの社交期で、いちばん人が集まる夜会。それがセラーノ家の夜会だと、皆さまはおっしゃいます。
この春、王太子殿下が舞踏会でご婚約を破られるらしい、という噂が流れました。
噂は噂のまま、殿下のご婚約はまだ続いています。けれど若い方々の間では、それが流行りになりました。大勢の前で、声を張って、婚約を破る。この国では、人前で婚約を破られた家の男の親族は、決闘を申し込めます。そして決闘は、破棄が告げられた館の庭で、その夜明けに行う習わしです。
三度とも、わたくしの夜会でした。
三度とも、夜明けに立会人がいらして、王の名で決闘を見届け、帳面に勝った方の言い分を書いて帰られました。
わたくしは三度とも、二階の窓から見ていました。決闘が済み、皆さまが引き上げたあと、立会人の殿方は一人で庭に残ります。物置から熊手を出してきて、踏み荒らされた砂利をならすのです。濡れて黒ずんだところを、白い砂利で丁寧に覆って。朝の光が庭に届くころには、何もなかったような庭が残っています。
この館の庭は、ならしておかなければならない場所だと思っておいでなのでしょう。わたくしは窓を閉めて、朝食の献立に目を戻すことにしていました。
「奥様」
トリビオが、いつのまにか後ろにいました。六十四になる家令は、夫が生きていたころから楽団と灯りを預かっています。
「壇のそばを」
見なくても分かりました。それでも見ました。
ベルムデス伯爵家のフリアン様が、ご友人たちと壇の脇に集まっておいでです。四人、五人。笑い声が少し大きい。誰も踊らない。そして、その後ろに一人、黒い上着の背の高い殿方が、壁際で腕も組まずに立っていらっしゃる。
エスピノサ伯爵ロドリゴ様。決闘で一度も負けたことのない方です。
三度見た形でした。
フリアン様の婚約者、アルカサル子爵家のロシオ様は、広間の反対側で、兄君のルベン様と並んで果実水を飲んでいらっしゃいます。淡い黄色の衣装。刺繍の上手な、物静かなお嬢様です。
わたくしは扇を閉じ、ゆっくりと歩き出しました。走れば、気づかれます。女主人が走る夜会に、人は二度と来ません。踊りの輪を回りこみ、給仕の盆をよけ、ロシオ様のそばへ。
あと十歩というところで、楽の音の隙間に、張った声が通りました。
「皆さま、お聞きいただきたい」
フリアン様でした。
「わたしはここに、ロシオ・アルカサル嬢との婚約を破棄します」
踊りの輪が崩れます。けれど楽団は止まりません。わたくしが止めない限り、止まらないのです。ギターの和音の上で、声は続きました。
「理由は申し上げましょう。ひと月前、この館の夜会の晩、彼女は付き添い婦人もつけずに、庭で男と会っていた。わたしの友人が見ています」
この館の、夜会の晩。
広間じゅうの目が、一瞬、わたくしのほうを撫でました。
ロシオ様の手から杯が落ちかけて、ルベン様がそれを受けとめます。ルベン様の顔から、血の気が引いていくのが見えました。二十歳の、剣は人並みの若者です。そしてフリアン様の後ろで、ロドリゴ様が、一歩だけ前へ出られました。
わたくしは知っています。
ひと月前の夜会の晩、ロシオ様は庭になどいませんでした。フリアン様に一晩じゅう素知らぬ顔をされて、廊下の隅で涙をこらえていたのを、わたくしが見つけて、化粧部屋へお連れしたのです。目もとを冷やす布を絞って、扇を一本お貸しして、ロシオ様が泣きやむまで、わたくしは隣に座っていました。
わたくしが一緒だったのです。
わたくしは扇を開き、楽団のほうへ軽く振りました。
続けて、という合図です。
それから、いつもの顔をつくって、フリアン様に微笑みかけました。
「大切なお話のようですわね。それでしたら、皆さまの前ではなく、奥の小広間で。どうぞ、あちらへ」
これが、この館の収め方です。三度とも、そうして収めてきました。夜明けの庭のことは、収めたうちに入れずに。
◇
小広間の扉を閉めると、楽の音は壁一枚ぶん遠くなりました。
フリアン様と、そのご友人がお一人。ロドリゴ様。ロシオ様とルベン様。わたくしとトリビオ。燭台の火が、七人分の影を壁に伸ばしています。
「フリアン様」
わたくしは椅子を勧めず、立ったまま申し上げました。
「ひと月前の夜会の晩、ロシオ様は庭にはいらっしゃいませんでした。わたくしの化粧部屋においででした。わたくしが、ずっとご一緒でしたの」
ロシオ様が、顔を上げました。
言わずに済ませる術なら、わたくしはいくらでも知っています。けれど、これは言わなければならないことでした。
フリアン様は、笑いました。楽しそうに。
「それは、女主人どのとしては、そうおっしゃるしかないでしょう。ご自分の館で、未婚の令嬢を見失っていたとは、言えませんものね」
「見失ってなどおりません」
「では、わたしの友人が嘘をついていると?」
ご友人が、目をそらしたまま顎を引きました。
「セラーノ夫人」
低い声でした。壁際で、ロドリゴ様が口を開かれました。
「女主人の証言は、剣の前では重さを持ちません」
責める口調ではありませんでした。天気の話でもするように、決まりを述べるだけの声です。
「公の場で名指しされた落ち度は、男の親族が夜明けまでに名誉を守らなければ、認めたものとされます。ルベンどのが申し込まれるなら、私がフリアンどのの代理に立つ。それだけのことです」
「それだけ、ではございませんわ」
「では、何でしょう」
わたくしは答えに詰まりました。
決闘で決まったことは、二度と蒸し返せません。勝った方の言い分が、名誉の上では正しいことになる。ロドリゴ様が勝てば、ロシオ様は「庭で男と会っていた娘」になります。死ぬまで。そしてこの館は、「未婚の娘から目を離した館」になる。
ロドリゴ様は、少しだけ眉を寄せて、わたくしを見ました。
「バルデス嬢……」
言いかけて、口をつぐまれました。
「失礼。セラーノ夫人」
あの方にその名で呼ばれたのは、十年前の夜明け以来でした。
ルベン様が、一歩前に出ました。
「申し込みます」
声が裏返っていました。
「ルベン様、お待ちになって」
「待てば、夜が明けます」
ルベン様はわたくしを見ました。二十歳の、まだ頬の丸い顔で。
「妹の名を、黙って渡せとおっしゃるのですか」
わたくしは何も言えませんでした。
同じ顔を、見たことがあるのです。
十年前、わたくしは十八でした。
別の館の夜会で、婚約者だった方が、わたくしとの婚約を破ると言いました。理由は、わたくしが庭で男と会っていたから。会ってなどいませんでした。
兄のガスパルが、決闘を申し込みました。相手の代理に立ったのは、まだ二十五の、名の知られはじめたばかりの剣士でした。
夜明けの庭で、兄は右手を斬られました。命は取られませんでした。けれど兄の右手は、それきり指が開かなくなりました。兄はギターの上手な人でした。いまは領地で、左手で帳簿をつけています。
立会人の帳面には、「バルデス嬢の落ち度」と記されました。
庭を貸した館の奥様は、それきり、わたくしを一度も招きませんでした。
「申し込みは、受けた」
ロドリゴ様が、ルベン様に軽く頭を下げました。
「立会人を」
トリビオが、わたくしを見ました。わたくしは、うなずきました。決まりだからです。
王宮の立会人は、夜会の館の近くに詰めているものです。四半刻もしないうちに、その方は来られました。
ナランホ男爵家のハビエル様。三度の夜明けに、熊手を持っていた方です。
夜明けにしか来なかった方が、初めてこの館の広間を通ってきました。黒い上着の裾に、夜露の湿り。長靴の縁に、砂利の白い粉。踊りの輪の脇を抜けるとき、その方は一度だけ、楽団のほうへ目を向けました。それから小広間に入り、扉を閉め、帳面を開きました。
「申し込みを、承ります」
決まりの言葉で、決まりのことだけを。
ルベン様が名を名乗り、ロドリゴ様が代理を名乗り、フリアン様が言い分を繰り返しました。ハビエル様はそれを、一字ずつ帳面に書きとめていきます。ペン先の音だけが、楽の音の下で小さく続きました。
書き終えると、ハビエル様はわたくしのほうを向きました。
「セラーノ夫人」
いつもの問いです。
「夜明けに、この館の庭をお貸しいただけますか」
三度、同じ問いを受けました。三度、同じ答えをしました。
断れば、この館は「名誉を拒む家」と呼ばれます。決闘は王宮の砂場へ移るだけで、何も止まりません。
わたくしの口は、わたくしより先に動いていました。
「どうぞ」
◇
夜会は続いていました。
楽団は鳴りつづけ、客の方々は、さっきよりも楽しそうでした。夜明けまで帰らずにいれば、決闘が見られるからです。
わたくしは広間をトリビオに預け、庭へ出ました。
夜明けの前に、灯りと砂利を自分の目で確かめる。三度とも、そうしてきました。客の方が足を取られないように、石畳の縁に角灯を並べさせ、決闘の場になる砂利が平らかどうかを見るのです。
自分の庭で人が斬られる支度を、自分の手でしているのです。
庭の奥に、灯りが一つありました。
ハビエル様でした。角灯を砂利の上に置き、熊手を手にして、もう砂利の具合を見ておいででした。
「お早いのですね」
「務めですので」
熊手の柄は、使いこまれて黒くなっていました。うちの物置の熊手です。三度の夜明けのたびに、この方が使ってきたものです。
わたくしは、ずっと訊きたかったことを訊きました。
「ハビエル様。なぜ毎回、砂利をならしてからお帰りになるのです。この館の庭は、ならしておかなければならない庭ですか」
ハビエル様は熊手を止めました。
答えはすぐには来ませんでした。夜風が、植え込みの橙の葉を鳴らしました。
「十年前」
ハビエル様は、砂利に目を落としたまま言いました。
「バルデス嬢の頁を書いたのは、私です」
わたくしは、息をするのを忘れました。
「まだ見習いでした。立会人の後ろで、帳面を持たされていました。勝った側の言い分を書くのが、務めです。私はそれを書きました。『バルデス嬢の落ち度』と」
「……そう」
「いまも、同じことを書いています。三度とも、書きました」
声は平らでした。けれど熊手の柄を握る指の節が、角灯の火の下で白くなっていました。
「では、なぜ」
わたくしはもう一度、訊きました。
「なぜ、ならしていかれるの」
ハビエル様は、ようやく顔を上げました。
「朝、あなたが窓を開けたとき」
少し、言葉を探して。
「血の跡を、見ないように」
わたくしは何も言えませんでした。
三度の夜明け、わたくしは窓からこの方を見ていました。この館を嫌っておいでなのだと思っていました。窓を閉めて、献立に目を戻していました。
そのとき、夫の声がよみがえりました。
――招待状は、おまえの名で出すのだよ。だから、返してもらうこともできる。
夫は笑って、使わずに済むことを祈ると言いました。返してもらったら、どうなるのか。夫はそこまでは話しませんでした。わたくしも、訊きませんでした。使う日が来るなどと、思わなかったからです。
「ハビエル様」
わたくしは一歩、近づきました。
「招待状を返させたら、どうなるのです」
ハビエル様の顔から、表情が消えました。もとからあまりない方ですけれど。
立会人は、決闘の当事者に助言をしてはならない。それくらいは、わたくしも知っています。そしてわたくしは、庭を貸す館の女主人です。当事者の一人です。
長い沈黙でした。
ハビエル様は熊手を砂利に立て、柄から、ゆっくりと手を離しました。熊手は少し傾いで、それでも倒れずにそこに立っていました。
「女主人が客に招待状を返させると」
決まりを読むときと同じ声でした。
「その者は、その夜のはじめから、招かれざる者になります。招かれざる者がその館で言ったことは、名誉の上では、言われなかったことになる」
「言われなかった……」
「破棄の言葉も、落ち度の言い立ても。決闘は、立ちません」
胸の奥で、何かが鳴りました。
「私がこれを答えたと知れれば」
ハビエル様は続けました。
「私は務めを外されます」
「それなのに」
「それなのに、です」
けれど、ハビエル様の話には続きがありました。
「代わりに、女主人は全ての客の前で、理由を述べなければなりません。この者は館の平和を破った、と。それは、この館が客を守れなかったと、自分で認めることです」
わたくしは扇を握りしめました。
「この八十年、使った館はありません。使った館には、人が来なくなるからです」
八年かけて、ここまで来ました。十年前に招かれなくなった娘が、王都でいちばん人の集まる夜会の女主人になりました。夫の名を借りて。夫が亡くなってからは、ひとりで。
「それから」
ハビエル様は、言いにくそうに、けれど目をそらさずに言いました。
「この決まりは、今季の三度のときも、使えました」
角灯の火が、揺れました。
三度とも。
頬に傷を負って帰った若い方。肩を斬られた兄君。叔父様が負けて、修道院へ送られたお嬢様。三度とも、わたくしは止められたのです。止めずに、「どうぞ」と言って、庭を貸して、窓を閉めて、献立を見ていたのです。
館の名を守るために。
◇
広間へ戻ると、人が増えていました。
帰った方は一人もいません。それどころか、噂を聞いた方々が、ほかの館の夜会を早めに切り上げて、こちらへ回ってきておいでです。トリビオが給仕を走らせ、葡萄酒の樽をもう一つ開けさせていました。
「セラーノ夫人」
年配の侯爵夫人が、扇を鳴らしてわたくしを呼び止めました。上機嫌のお顔でした。
「今夜も、夜明けが楽しみですわ。セラーノ家の夜会は、これがあるから外せませんの」
わたくしは、女主人の顔で微笑みました。
「お楽しみいただけて、何よりですわ」
言ってから、自分の口が何を言ったのか分かりました。
侯爵夫人は満足そうにうなずいて、踊りの輪のほうへ戻っていかれました。わたくしの扇の骨が一本、手の中で小さく軋みました。
これがあるから。
王都でいちばん人が集まる夜会。わたくしが八年かけて取り戻した名。その名は、この春から、夜明けの決闘で支えられていたのです。わたくしの兄の右手を奪ったのと同じものが、わたくしの館に人を呼んでいたのです。
わたくしは、自分を壊したものの番を、八年していたのです。
「奥様」
袖を、小さく引かれました。
ロシオ様でした。いつのまにか兄君のそばを離れて、わたくしの後ろに立っていらっしゃいました。
「お話が、あります」
ロシオ様の手は冷たくて、少し湿っていました。
「わたくし、認めます。庭で、男の方と会っていたと」
「ロシオ様」
「そうすれば、兄は斬られません」
声は小さいのに、言葉ははっきりしていました。ここへ来るまでに、何度も胸の中で言い直したのでしょう。
「それに、奥様が、わたくしのために嘘つき呼ばわりされずに済みます。わたくしが付き添いの目を盗んで、ひとりで庭に出たことにすれば、奥様の館に傷はつきません。奥様は、あの晩、わたくしを泣かせてくださったのに」
泣かせてくださった、と、ロシオ様は言いました。泣きやませてくださった、ではなく。
「ご恩を、仇でお返ししたくないのです」
わたくしはロシオ様の顔を見ました。
十八の娘が、自分の名を差し出して、兄と、たった一晩泣く場所を貸しただけの女の館を守ろうとしていました。
十年前のわたくしには、その道は思いつきませんでした。思いついていたら、選んでいたかもしれません。兄の右手と引きかえに。
「少しだけ、待っていてくださいね」
わたくしはロシオ様の手を、両手で包みました。
「まだ、夜は明けていませんから」
ロシオ様を兄君のところへ帰して、わたくしは広間の端に立ちました。
トリビオが、招待客の名簿を持ってきてくれました。いつも、夜会の半ばに一度、目を通すのです。誰が来て、誰がまだで、誰と誰の席を離しておくべきか。
名簿をめくる指が、フリアン・ベルムデスの名の上で止まりました。わたくしの字で、招待状を出した方です。
選べる道は、三つでした。
庭を貸す。館の名は残ります。夜明けにルベン様はロドリゴ様と向き合い、ロシオ様の名は、帳面の上で死にます。
ロシオ様に認めさせる。誰も斬られません。嘘がそのまま真実になり、ロシオ様は修道院へ行かれるでしょう。この館の名は残ります。
招待状を、返させる。決闘は立ちません。ロシオ様の名は残ります。代わりに、わたくしはこの館の名と、八年の夜会と、三度見過ごしたことを、ここにいる全員の前に差し出すことになります。
広間を見渡しました。
燭台の灯り。磨いた床。夫が選んだ壁掛け。わたくしが一つずつ選びなおした楽団の顔ぶれ。席の並べ方ひとつで人の縁が動くこの場所を、十年前に招かれなくなった娘が、ここまで建てなおしたのです。
ここを失えば、わたくしは何者でもなくなります。
壇の脇で、フリアン様が友人たちと笑っておいででした。勝ちの決まった方の笑い方でした。その後ろで、ロドリゴ様は一度も杯に口をつけず、壁際に立っています。広間の反対側で、ルベン様が、剣の柄に置いた手を開いたり握ったりしていました。ロシオ様は兄君の袖をつかんで、床を見ていました。
十年前、わたくしのために楽団を止めてくれた人は、いませんでした。
わたくしは、名簿を閉じました。
それから扇を閉じて、楽団のほうへ、まっすぐに上げました。
◇
ギターが、和音の途中で止まりました。
提琴が一小節遅れて、細く鳴りやみました。
八年で、初めてのことでした。
広間じゅうの話し声が、一つずつ消えていきました。踊りの輪の真ん中で、誰かの靴の踵が床を打つ音だけが、ひどく大きく響きました。皆さまが、楽団を見て、それからわたくしを見ました。庭に面した扉のところに、角灯を提げたままのハビエル様が立っておいでなのが見えました。止まった楽の音を聞いて、庭から戻ってこられたのでしょう。
わたくしは、まずロシオ様のところへ行きました。
「こちらへ」
手を取って、壇の前の、女主人の席の右へお連れしました。いちばん守りたい客の座る場所です。ロシオ様は何も分からないまま、そこに腰を下ろしました。
それから、フリアン様の前へ歩いていきました。
今度は、急ぎませんでした。急ぐ必要が、もうなかったからです。
「フリアン様」
声は、自分でも驚くほど平らでした。
「わたくしの夜会で婚約破棄をなさるのは、今季四人目です。夜明けの決闘はお断りしますので、招待状をお返しいただけますか」
フリアン様は、しばらくわたくしの顔を見ていました。それから、笑いました。ご友人たちも、少し遅れて笑いました。
「何をおっしゃっているのか、分かりかねますね、夫人。招待状を返せ? わたしは客ですよ」
「ええ。わたくしがお招きしました」
「お断りします」
「そうですか」
わたくしは振り返りました。
「立会人どの」
ハビエル様が、角灯をトリビオに預けて、広間の中ほどまで進み出られました。
「この館の決まりを、王の名でお確かめください」
これは助言を求めているのではありません。立会人の務めは、決闘にかかわる決まりを、問われれば王の名で述べることです。
ハビエル様は帳面を開きました。ページを繰る指は、少しも震えていませんでした。
「王の名において、申し上げます」
広間に、決まりの声が通りました。
「夜会の招待状は、女主人の名で出される。女主人が客に招待状を返させるとき、その者は、その夜のはじめから招かれざる者となる。招かれざる者がその館で言ったことは、名誉の上では言われなかったものとなる。客が返すのを拒んでも、女主人が理由を述べれば、招待状は効き目を失う」
帳面を閉じる音。
「この館で告げられた婚約破棄と、落ち度の言い立てについて、決闘は立ちません」
ざわめきが、波のように広間を渡っていきました。
フリアン様の顔から、笑いが消えていました。
「理由を、述べなければならないのでしたね」
わたくしは、広間を見渡しました。侯爵夫人のお顔も、ご友人方のお顔も、給仕たちのお顔も、全部見えました。
「この方は、わたくしの館の平和を破りました」
そこで終えれば、それで済みました。けれど、わたくしは続けました。
「そして、わたくしは今季三度、同じことを見過ごしました。この春、この館で三度婚約が破られ、三度、夜明けに庭で人が斬られました。わたくしは三度とも、止められたのに、止めずに庭をお貸ししました」
広間が、しんとしました。
「この館が守れなかったのは、ロシオ様ではありません。わたくしがお貸しした庭で斬られた方々です」
手の中の扇が、ずっと細かく震えていたのに、そこで止まりました。
わたくしは、席の背に、一度だけ手をつきました。
最初に動いたのは、ロドリゴ様でした。
壁際から、静かに歩いてきて、わたくしの前で足を止めました。
「立たない決闘に、代理は要りません」
決まりの言葉でした。それから、ロドリゴ様は、深く頭を下げました。十年前にも、この春の三度の夜明けにも、一度も下げなかった頭でした。
ロドリゴ様は、ルベン様のほうを向きました。
「剣を抜かずに済んだのは、恥ではない」
そう言って、ロドリゴ様は広間を出ていかれました。
しんとした広間で、椅子の脚が床をこする音がしました。
ロシオ様が、女主人の右の席から立ち上がっていました。
「ひと月前の晩」
声が震えていました。けれど、止まりませんでした。
「わたくしは庭になど出ておりません。フリアン様に、一晩じゅう知らない人のように扱われて、廊下で泣いていたところを、奥様が見つけてくださって。奥様のお部屋で、泣いておりました」
最後まで言って、ロシオ様は座りました。
剣の前では重さを持たなかった言葉が、剣のない広間では、誰の耳にもまっすぐ届いていました。フリアン様のご友人が、そっと一歩、フリアン様から離れました。
「トリビオ」
「はい、奥様」
「フリアン様が、お帰りです」
トリビオが進み出て、一礼しました。そして客のための正面の扉ではなく、広間の脇の、給仕が出入りする小さな戸を開けました。招かれざる方は、正面からはお通しできないのです。
フリアン様は何か言いかけて、口を閉じ、その戸から出ていかれました。見送る方は、一人もいませんでした。
しばらくして、リオセコ伯爵家の方々が、誰にも挨拶をなさらずに、早めにお帰りになりました。
わたくしは楽団のほうを向いて、扇を軽く振りました。続けて、という合図です。
ギターが、和音の続きから鳴りはじめました。
◇
翌週、次の夜会のお返事は、半分がご辞退でした。
わたくしは、それでいいと思いました。招待状を返させる館に、人は来なくなる。そういう決まりです。
けれど、その翌週から、別のお手紙が届くようになりました。娘を持つ奥様方からでした。婚約したばかりの娘を、どこの夜会に出すのも怖い。けれど、この館でなら出せます、と。
ロシオ様のご婚約は、婚約証書のとおり法院で解かれることになりました。決闘で落ち度が決まらなかったので、破った側のベルムデス家が違約金を払うそうです。リオセコ家との縁談の話は、それきり聞きません。
領地の兄から、手紙が一通届きました。左手の、まだ慣れない字で、一行だけ。
――楽団が止まったと聞いた。おまえの館で。
わたくしは、その手紙を化粧部屋の引き出しにしまいました。
社交期の最後の夜会は、小さな夜会でした。
婚約は、一つも破られませんでした。
明け方、わたくしは庭へ出ました。習いになってしまったのです。
砂利の上に、角灯が一つありました。熊手を持った方が、立っていました。
「ハビエル様」
ハビエル様は、あの晩庭で答えたことを、翌日ご自分から上役に申し出たそうです。次の社交期まで、務めを外されました。それから、十年前の帳面の頁の余白に、一行書き添えたとも聞きました。消すことは許されていない。けれど、書き添えることは禁じられていない。
――立会人ハビエル・ナランホは、この記録を真実と信じない。
「務めは、お休みでしょう」
「ええ」
ハビエル様は、熊手を見下ろしました。
「今朝は、ならす跡がありませんね」
「ございませんわ」
「では、なぜいらしたの」
わたくしが訊くと、ハビエル様は、少し言葉を探しました。
「招待状がないので、夜には来られませんでした」
わたくしは、笑ってしまいました。八年で、たぶんいちばん、女主人らしくない笑い方で。
袖から、封筒を一通出しました。セラーノ家の封蝋。宛名は、わたくしの字です。来季の、最初の夜会の招待状でした。
ハビエル様が受け取るのを見届けてから、わたくしは扇をゆっくりと開きました。
この国の扇の言葉では、待っている、という意味です。
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