こんな夜を
「シャーロット、シャーロット」
泥に塗れ、雨に打たれる彼女を抱き起こし、何度も名を呼び続ける。
返事はない。
抱き上げると、くったりとした彼女の横顔が力なく揺れた。
喉の奥がきつく締まる。
後悔が、波のように押し寄せていた。
シャーロット・ブラウンは転校生だった。
平民の出身で、けれど才気に溢れているとのことで、校長が直々にスカウトし、半年前、この魔法学園の一員となった。
溌剌とした挨拶に、ぴんと伸ばされた背筋、波打つ黄金の髪。猫を思わせるアーモンド型の瞳は爽やかな緑色で、愛嬌も兼ね備えた彼女は、たちまちクラスの人気者となった。
かくいう僕も、彼女には幾らか見惚れたことがあった。
授業を聞く真剣な眼差しや、友人らに向ける屈託のない笑顔、詠唱魔法が成功した時の惚けたような瞳。そのどれもが、切り取ったように美しすぎて。
断っておくけれど、僕はストーカーではない。
シャーロットが、それだけ目立つ存在だったのだ。
平民の出と言うだけでも珍しいのに、よく発言をし、教師の間違いを物おじせず指摘し、しかも成績まで優秀だったから。
そんな彼女がどうして僕なんかに話しかけるようになったのか。
答えは単純だ。僕も彼女と同じ、平民の出で、それなのにいじめられている僕を、正義感溢れる彼女は、放っておけなかったのだろう。
「気持ち悪いんだよ丸メガネ」
けらけらと笑うオスカーやジョンに、魔導書を取り上げられる。僕は必死に手を伸ばすが、クラス一背の高いオスカーには敵わなかった。指先を、魔導書の角がかすめ、ひやりとする。
「貴重な本なんだ。返して」
昼休みの中庭には、それなりに人影があった。
けれど皆見て見ぬふりをする。関わりたくないがゆえ、〝またヘンリーが揶揄われている〟と、都合のいい解釈をしてやり過ごすのだ。
距離をとったオスカーは半笑いで魔導書をめくる。
「うえ。魔物の肉片だって。気色わる」
「こんなの教室で読んでんじゃねえよ」
「禁書じゃん」
オスカーとジョンが、僕を挟んで本を投げ飛ばしだした。
「閲覧許可はもらってる。返して」
百年以上前に作られたその魔導書は、開くだけでもばらばらになりそうなのに、そんな乱暴に扱われては壊れるのは時間の問題だった。
魔法を使おうかと悩んだけれど、授業時間以外の使用は禁じられている。だから僕は懸命に宙を舞う本を追い続けた。その時だった。
「やめなさいよ」
凛とした声に、オスカーたちの動きが止まる。
三人して振り返ると、腰に片手を当てて立っているシャーロットと目があった。オスカーが舌打ちした。
「んだよくそ優等生」
「何お前、こいつのこと好きなの?」
言ったジョンを、シャーロットの怜悧な視線が引き裂いた。整った顔の女の子がそんな目をすると、まるで女王様みたいだった。
「いいから本を返しなさい」
「……はいはい」
オスカーが渋々と魔導書をシャーロットに投げた。ちょうど予鈴が鳴って、ジョンを伴い校舎の方へかけていく。もちろん罵倒も忘れずに。
その背を見送って、シャーロットが僕を向いた。
「あなたも、少しは反撃したら?」
取り返してくれた魔導書を、ぐっと突き出してくる。僕は両手で受け取り、傷んでいる箇所を確認した。
「うん。そうだね、ありがとう。助かったよ」
ホッとする。とれたページはなかったし、緩みも補強すればなんとかなりそうだった。
「授業始まっちゃうし、行こうか」
けれどシャーロットは動き出そうとしなかった。綺麗な眉間に皺を寄せたまま、どうしてだか僕を見つめ続けてくる。赤い唇が「ねえ」と緩やかに動いた。
「あなたも平民の出身なんでしょ? だからオスカーたちにいじめられてるの?」
きょとんとしてしまう。まさか、そんなことを聞かれるなんて思いもしなかったから。
僕は、魔術学校の学生であるあかし、膝裏まである紺のローブの乱れを直した。
「うーん。どうだろう。その理屈だと、きみもいじめられるはずだけどそうじゃない。単純に僕が嫌いなんだと思うよ」
ズレかけたメガネも正しい位置に戻した。世界がくっきりした。
「ほら、僕がこういう本ばかり読んでるのが気持ち悪いみたい。親にも言われてたから、慣れてるけど……」
魔物の生態学。解剖図鑑。実験記録。僕が子供の頃から夢中になるのは、そういった、世間からすると一風変わった類のものだった。半壊した腕や脳、細分化された骨、そんな、グロテスクな挿絵を延々と見続ける僕は、幼い頃から奇異の視線を向けられていた。
平民学校でも授業中にそんな本ばかり読んでいたものだから、友達はいなかった。
けれど僕は気にしていなかった。友人と球蹴りをするより、魔導書を読んでいる方が面白かったから。
「変わってるのね」
「よく言われる」
歩き出した僕に、シャーロットもついてきた。
同じ教室に向かうのだから、まあそうはなるのだろうけれど。
「大丈夫? 離れた方が良くない? 僕といるときみもいじめられるかも」
「平気よ。あんな子たち、怖くないもの」
「……」
「何?」
新緑のような緑色の瞳を見つめる。白い肌に、長いまつ毛の影が落ちていた。
「きみは僕を、気持ち悪いとは思わないの」
シャーロットはちらりと僕が抱えていた本を見て、前を向いた。
「別に。あなたが何を読もうとわたしには関係ないもの」
「でも」と、シャーロットは怒ったように続けた。
「理不尽を受け入れているあなたを見るのは嫌。イライラするわ」
「難儀な性格だね」
「うるさいわね」
変な子だな、と思った。あるいはお人好し。お節介。良い人。だから少しだけ、興味が湧いた。
取り返してもらった本を、慎重に脇に抱える。
他の教科はからきしだけど、魔物生態学だけは誰よりも抜きん出た成績を残している僕。それだけしか取り柄がなく、そのためだけに入学を許可された僕。
シャーロットも似た境遇だから、僕を助けてくれたのかもしれない。
授業には、なんとか遅刻しないで間に合った。
それからだった。
シャーロットが頻繁に僕に話しかけてくるようになったのは。
クラスの皆は、シャーロットが僕に構うのを快く思っていなかった。けれど彼女は全く気にしていなかった。
「わたしはたまたまだったの。たまたまわたしがいた孤児院が魔物に襲われて、たまたまわたしは魔法を使えて、それがあんまり強力だから、入学を勧められたのよ」
でもね、とシャーロットは困ったように眉尻を下げた。
放課後の自由時間だった。図書館の奥の奥で本を読んでいた僕を見つけたシャーロットは、わたしも勉強をすると隣に座ってきた。その割に、話してばかりいた。
「わたし本当を言うと、こんなところ来たくなかったの。だって貴族ばっかりだって言うじゃない。でも、他にしたいこともないし、孤児院の子達とは、『魔法を使えるくらいでいい気ならないで』なんて言われてて、折り合いが良くなかったし。まあいいかなって入学してみたの」
「ふうん」
僕の気のない返事にも、シャーロットが気を悪くすることはない。本音を打ち明ける相手がほしかったのだろう。僕は貴族でないから、ちょうど良かったらしい。
「で、どうだった?」
聞いた途端、シャーロットは瞳を輝かせた。
「控えめに言って最高! 食事は美味しいし、クラスの子は優しいし、勉強も楽しいわ」
そのきらきらとした、花というやら星というやら。とにかく爽やかで華々しい笑顔に、自然と僕の口元もほころんでいた。
こういうところが、彼女の一番の魅力なのだろうと思った。
「それはよかったね」
「ええ! でもね、オスカーみたいな意地悪は嫌いよ。あんな酷いことばかり言っておいて、付き合えなんて言ってきたのよ? 信じられる?」
「告白でもされたの?」
「ええ、もう七回も」
うんざりした様子のシャーロットに、僕は思わず吹き出してしまった。だからオスカーがこの頃特に絡んでくるのだと、こそばゆい気持ちになる。どうやら、嫉妬されていたらしい。
「僕なんか相手にする必要ないのに」
ぽそりと言う。シャーロットが「何か言った?」と聞いてきたので、「何も」と、嘘をついた。
貴族が出資しているその学園では、年に一度、盛大なパーティーが催された。
その年の成績優秀者を表彰し、卒業者の功績を発表し、新魔法を披露して魔術の発展を寿ぐのが目的だった。
けれど何度参加しても、僕はこの場所が苦手だった。
七歳から十六歳に至るまでの毎年。パーティーの日が近づくにつれ、僕はどうにか病気にならないかと願っていた。しかし今年も体調は崩れず、僕は仕方なしにひっそりと参加した。
悪目立ちしない程度に髪を整え、学園に用意された燕尾服に腕を通す。
そうして姿見で見た自分は、まるで自分じゃないみたいだった。
「ああ、ここにいたのかヘンリー! アスタロト様がきみに会いたいそうだよ」
気配を消していたはずなのに、三十半ばの男性教師はワイングラスを片手に近づいてきた。強い力で腕を掴まれ、パーティー会場の中央に連れ出される。
一際人の集まっている人の森に、無理やり押し込まれた。
「ああ、きみが噂の天才少年だね」
森の中心になっていた中年男性が振り返り、両手を広げて僕を迎え入れる。
学園を支援している大貴族の一人、アスタロト様その人だった。身分が高いにも関わらず、気さくで大らかな人で、「自分は魔法を使えないが」と、何度も肩を叩かれた。そうしてだからこそ、魔法に憧れ、その一端に関わっていたいのだとも。
その年、僕は魔物生態学の論文を提出し、高く評価されていた。それでアスタロト様は興味を持ってくださったらしい。
「しかし十六でその落ち着きよう。いいねえ」
でっぷりとしたお腹を揺らし、アスタロト様が豪快に笑う。そうして言った。
「時にきみ、留学に興味はない? 異国の魔物に触れ合えるよ。もちろん、危険も伴うけれど」
「行きます」
思ってもない申し出に、僕は考えるよりも先に返事をしていた。
アスタロト様は一瞬きょとんとして、次の瞬間、また豪快に笑う。
「いや、本当にいいねえきみ。気に入ったよ。じゃあ早速手続きを進めよう」
費用は全て負担すると言ったアスタロト様に、僕は感謝を隠しきれなかった。
図鑑でしか見たことのなかった魔物を、この目で見ることができる。触れることもできるかもしれない。想像するだけで興奮した。どんな声で鳴くのか、色は?鱗は?匂いはあるのか?紙切れの上でしか会ったことのない彼らに会える。それが、とても嬉しかった。
だからシャーロットの瞳がかげる意味が、僕にはわからなかった。どうして僕なんかをダンスに誘ってきたのかも。
「踊れるんじゃない」
「必須科目だからね」
貴族ばかりが入学するこの学園では、礼儀作法やマナー、振る舞い方も叩き込まれていた。平民出の僕は、必死に覚えたけれど、シャーロットは入学して半年足らずでマスターしていた。生まれ持った気質と容姿のせいか、まるで生粋のお嬢様みたいだった。
シャーロットが、僕の腕の中でくるりと回る。香水の匂いにめまいがした。
「ねえ」
「うん?」
「外国に行くの?」
「聞いてたの?」
「みんな噂してるわ。アスタロト様は動物がお好きで有名だし」
その真相を聞きたくて、シャーロットはわざわざ僕を探し、ダンス会場へ引っ張ってきたのだろうか。
平民出の仲間がいなくなるのが、寂しいのかもしれない。
僕より少しだけ背の低いシャーロットと、視線がかち合う。いつ見ても宝石のように澄んでいて、吸い込まれそうに透明な緑色。化粧をしていると気づいたのは、ダンスの終わりかけだった。白い肌に、煌めく水色のドレスが映えていた。グローブは同じ色の絹。ほっそりとした指先に触れていると、おかしな気分になりそうだった。
「わたしね」
彼女の腰をそっと支える。ダンスホールのあちこちから狙うような視線を感じていた。
「あなたが勉強している横顔がとても好きだったわ。最初は『何この子』『どうして反抗しないの』って思ってたけど、違うのね。あなたはただ、自分に大切なものに夢中だっただけ。オスカーも誰も相手にしない、楽しそうで、狂ったところが好きだった。見られなくなるのがたまらなく残念」
「変わってるね」と言った僕に、シャーロットが「あなたほどでは」と返してくる。
音楽が終わり、向かい合ってお辞儀をする。顔を上げたシャーロットが言った。
「あなたが帰って来る頃には、わたし、もっと魅力的な女になる。誓うわ。だからその時は、わたしも見てね」
僕は迷い、迷い、答える。
「きみは才能があるし、魅力的だ。だからもう僕には関わらないほうがいい。きみを正しく愛してくれる男はきっとほかにいる」
シャーロットは泣かなかった。僕を見つめたまま、赤い唇を微かにふるわせ、やがて「ままならない」とだけ呟いた。
ままならない。本当にそうだ。この世はままならない。
両親は僕を受け入れてくれなかったし、平民学校でも魔法学校でも気の合う友人は出来なかった。
僕は彼らにとって、理解し難い、どこか得体の知れない存在だったのだろう。
それでも、うまく折り合いをつけて、自分を隠して、迎合することができれば良かったのだろうけれど、僕にはどうしてもそれが出来なかった。
倒れているシャーロットを見つけたのは、その翌朝のことだった。
最初、自分が何を目にしているのか、僕は理解することが出来なかった。
「……シャーロット?」
雨が降っていた。
シャーロットはきつく目を瞑っていた。全身を雨でぐっしょりと濡らし、横向きに丸まるように倒れている。
ざあざあと叩きつけるような大粒の雨が、学園中を襲うように覆っていた。
「シャーロット」
声が掠れた。芝生の上に両膝をつく。震える手で彼女の土で汚れた頬に触れる。冷たかった。柔らかくなり過ぎた芝生から、じわじわと水が染み込んでくるのがわかった。水滴をまとわすメガネが邪魔だった。
その朝、僕はいつもの通り、起床の鐘と共に起き、寮から出て、朝食を取りにこうと食堂に向かっていた。
そこでふと誰かに呼ばれたような気がした。
僕を呼ぶ人間なんて、この世界に、教師の他に、彼女しか知らない。
嫌な予感にゆっくりと中庭へ向かった。食堂へ向かう他の学生が、列から外れた僕を気に掛けることはない。
中庭は広かった。
けれど、僕はすぐに彼女を見つけることができた。
大きな木の下。シャーロットが、制服姿のまま倒れていた。彼女もまた、朝食をとりに行こうとしていたのだろう。
どうしたの。何があったの。
勝気な彼女のことだ。
また不要な正義感を出して、厄介ごとに首を突っ込んでしまったのかもしれない。けれど、そう思うには、犯人に心当たりがありすぎていた。
彼女を抱き抱え、急いで医務室へと運ぶ。
寝起きの校医は驚き、慌てふためき使いものにならなかったので、僕は自分で医療魔術をかけた。授業以外での生徒の魔法使用は御法度。わかっていた。それでも、止められなかった。
シャーロットの右頬は赤く腫れ上がり、口からは吐瀉物がこぼれていた。
女性校医がシャーロットの服を着替えさせ、身体に清拭魔術をかける。
まだシャーロットの意識は戻らなかった。
僕は拳を握りしめる。
昨夜、彼女は僕と踊った。
そして「彼」とは踊らなかった。
どころか、「彼」の誘いを公衆の面前で跳ね除けていた。
屈辱に顔を赤くした「彼」の憎悪は、どうしてか僕ではなく彼女に向けられていた。
小物。卑怯者。矮小。屑野郎。
薄暗い感情が揺らぎたつ。
校医に彼女をくれぐれもと任せると、僕はその足でオスカーの元へ向かった。
「どうしてシャーロットを殴ったの?」
僕の一言に、がやがやとしていた食堂が一気に静まり返った。
取り巻きたちと食事をしていたオスカーが、座ったまま僕を見上げてきた。こんな状況で、よく肉なんて食べられるなと嫌悪が募った。
「ああ? なんのことだ?」
「きみの服は濡れすぎてる。きみが殴ったんだろう。魔法で動けなくして、お腹も。ああ、お腹は蹴ったのかな」
「は、知らねえって。てか、濡れすぎだってんならお前のほうこそだろ」
オスカーが薄ら笑う。見えた歯の隙間に、肉片が詰まっていた。肉食動物みたいだと思った。彼の目からは、僕が草食動物に見えているのかもしれない。牙などないと、思われているのかもしれない。
「シャーロットに謝って」
「はあ? 調子に乗ってんじゃねえぞ」
わざとだろう。大きな音を立ててオスカーが立ち上がる。僕はたちまち見下ろされる形になった。静かな食堂で、微かにざわめきが溢れだす。
「今なら許してやるよ、退学するってんならな。ああいや、お前どのみち外国に行くんだよな。良かったな、貴族様に目をかけてもらえて」
アスタロト様からの勧誘話は、もうあちこちで知れ渡っているみたいだった。
「留学の話は関係ないだろ」
「じゃあシャーロットが誰に殴られようが、倒れてようが、お前にも関係ねえだろ」
そうだ。本当にそうだった。
けれど僕の蓋を、必死に塞いでいた感情の蓋を、無理やり押し開けたのは紛れもなくオスカーだった。だからこいつには責任がある。
「関係ないわけないだろ」
僕は深く深く、シャーロットを愛しているのだから。
真っ直ぐにオスカーを見上げる。初めてまともに見た気がした。淡い金髪、青い瞳、高い鼻の上に、そばかすが散っている。今まではぼんやりと、幕を張ったようにしか見えなかったクラスメイト。それが今ははっきりと見えた。こんな顔をしていたのか。
それまで、僕が認識できるのは魔物生態学の話や、その進展についてだけだった。
そんな、欠陥品だった僕を、校長先生は「今は辛抱だ」と学園に迎え入れてくれ、僕はそうして少しだけ世界と繋がりを持つことが出来た。ゆくゆくは研究者か教師になって、魔獣研究を行いたいと思っていた。
それだけでよかったのだ。
なのに、シャーロットは僕の意識に無理やり入り込んできた。
僕の名を呼んで、隣に座って、好き勝手に喋って。
嬉しかった。
初めて友達が出来たようで。
けれど友達と呼んでいいのかわからなくて、そっけない態度をとってしまった。本当に僕は、普通が出来ない、ダメな人間だ。
他の人たちが出来るなんてないことが、僕には出来ない。
それなのに、シャーロットへの好意は日に日に増してしまった。勉強中も、魔物生態学の論文を書いている時でさえ、ふと、彼女は今何をしているのだろうなんて考えてしまって、そんな自分に、愕然とした。
僕は普通ではないから、彼女を好きになれば、きっと執着してしまう。
魔物に向けるそれと同じほど。異常なほどに。
ふと、幼い頃向けられた視線が蘇った。
冷えた、あるいは怯えたような目。
いつか、彼女にまでそんな目で見られてしまったら?
無理だ。――耐えられない。
僕はひっそりと、情けなく涙をこぼし、生まれた想いに蓋をした。二度と蓋が開かないように、心の深いところに葬り去った。なのに。
オスカーが蓋を開けてしまった。
「シャーロットは大切な人だ。彼女を傷つけたきみを、僕は絶対許さない」
言った僕に、オスカーが息を呑んだ。
人前で、こんなに感情を露わにしたことはなかったかもしれない。オスカーになんて、小指の先ほども興味がなかったから。
「ああ。上等だよクソメガネ」
オスカーが拳を振り上げる。こんなに大きくてごつごつした拳でシャーロットは殴られたのだと思うと怒りは頂点に達した。
魔術を詠唱する。途端、オスカーは動けなくなる。焦り、目を泳がせた彼に僕は召喚させた魔狼をけしかけた。囂々と唸る狼は容赦無くオスカーの肩にかぶりつく。鋭い牙が服と皮膚を突き破り、骨が砕ける音がした。血飛沫が飛び、オスカーが悲鳴を上げる。女生徒は口元に手を当ててかたまっていた。魔狼が顎を動かすたび、オスカーの身体は揺れ動く。やがて彼は、泡を吹いて気絶した。瞬間、血飛沫も、魔狼の姿も掻き消える。
残ったのは仰向けに倒れた無傷のオスカーひとりだった。
「え? え? まぼ、ろし……?」
誰かが言った。僕は振り返らず食堂を後にする。
誰も、僕を引き留めはしなかった。
退学を言い渡されたのはその日の放課後だった。
無断での魔法使用に傷害未遂。ただでは済まないと思っていたけれど、まさか学園を追われるとは思わなかった。社会は意外と厳しいらしい。
それでも、後悔はしていなかった。
その日のうちに荷物をまとめ、長く世話になった寮を出た。不思議と、寂しさがないのが虚しかった。
学園の門扉の外側で、黒い外套の前をかき合わせる。陽はとうに暮れ落ち、ひっそりとした街並みを魔法ランプの灯りがぽつぽつと照らしていた。
メガネ越しに、ぽっかりと浮かんだ満月を見上げる。なんだか美味しそうな色をしていた。
「バカじゃないの」
囁くような、けれどくっきりとした声に振り返る。臙脂色の外套を着込んだシャーロットが、旅行鞄を手に立ちすくんでいた。
頬はまだ薄ら赤い。
僕はほうっと息を吐いた。
「きみも出るの?」
「ちょうど良かったのよ。最近、息苦しかったし」
隣に並ばれて、目を細める。
「変わってるね」
「あなたほどでは」
目が合い、ふたりして微笑みを分け合う。
僕の歩調に合わせて、彼女も歩き出した。ガタガタした石畳を、彼女は焦茶色のブーツで踏みしめる。
「オスカーに幻術をかけたんですって? すごいじゃない。泡を吹いてたって、見たかったわ」
「まだまだだよ。きみの傷も、完璧に癒せてない」
「いいの。おかげで吹っ切れたから」
シャーロットが前を向いて月を仰いだ。
綺麗な横顔に、僕はやっぱり見惚れてしまう。
「ねえ、信じられる? オスカーったら『ヘンリーがいなくなるから俺と付き合えよ』って言ってきたのよ。『慰めてやる』、なんて」
「どこまでも自信家だね」
「ええ。だからわたしつい『この世に人間があなた一人になったとしても、絶対、死んでも、あなたとだけは付き合わない!』って言っちゃって、そしたら殴られたの。最低でしょ?」
「うん。最低だ。最悪だ、殺したいくらいだった」
「あなたも結構物騒ね」
「本気なのに」
こつこつと、石畳を歩くふたり分の足音が続く。
「ねえ、これからあなたはどうするの?」
「魔物の研究を続けるよ。ありがたいことに、アスタロト様がパトロンになってくれるらしくて。だから、きみもおいで」
「え」
シャーロットが瞬きをする。歩調がゆっくりになる。
「……いいの?」
「手伝ってくれると嬉しい」
「……わたしのせいで、学園にいられなくなったのに?」
「僕が勝手にしたことだよ。僕が勝手に怒って、僕が勝手に復讐した。きみのおせっかいと同じさ。放ってなんておけなかった」
シャーロットの顔が、泣き出す寸前の子供のように歪められた。
深い場所に彼女をつれていくと決心をしたのは、その時だった。
「ねえシャーロット」
立ち止まり、シャーロットを呼び止める。
「きみも知ってのとおり、僕は夢中になると、そのことしか考えられなくなる。きみのことも手放せなくなる。けど」
それでもよければ、と片手を差し出す。
シャーロットは微笑んだ。花のように、星のように。
「ええ、喜んで」
温かな手の感触に、僕もゆっくりと微笑みを返した。
掴んだ手をそのまま引き寄せ、腕の中に閉じ込める。
赤くなりかけた小さな耳に唇を寄せ「大好きだよ」と、想いを伝える。
彼女がこそばゆそうに身じろいだ。
「わたしも大好き。でも、ねぇ、とりあえず食事にしない? 月があんまり美味しそうで」
「ああ、僕も思った」
腕の力を緩め、照れ笑いをするシャーロットの額に額をあわせる。
申し訳ないと思いつつ、ひとりではないことに、とても、とても安堵していた。
こんな夜を、人は幸せと呼ぶのかも知れなかった。
読んでくださってありがとうございました☺︎




