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人生のOSを名乗る男、ラブホ前で警備員に敗北する

作者: 柊ナツキ
掲載日:2026/06/22

 夜の駅前。

 ネオンが雨上がりのアスファルトにべったり張りついて、街全体が安っぽい熱帯魚の水槽みたいな色をしていた。


 (たちばな)めるは、改札前のガラスに自分の顔を映して状態を確認した。

 目元のラメはまだ生きている。アイラインも滲んでいない。前髪も許容範囲。


 スマホのインカメを開いて角度を変え、ピンクベージュの髪を軽く整える。

 ついでに通知欄をざっと見て、どうでもいい男からのメッセージを二件、未読のまま捨てた。


 別に今日が特別な日なわけではない。


 講義はだるかったし、駅前カフェの季節限定フラッペはまあ普通だった。甘いものを飲んだせいで、今は逆に塩気のある肉が欲しい。

 帰って一人で動画を見るのも退屈だ。

 だから、なんとなく遊ぶ。それだけだ。


 隣に立っている男も、そういう『なんとなく』の産物だった。さっき少し話して、顔がそこそこで、空気も軽かったから拾っただけ。

 向こうも同じで、顔に「今日はラッキー」と景気よく書いてある。


 橘はストローでフラッペを吸いながら、だるそうにラブホテル街を見やった。


「ここでいい?」


「めるちゃんがいいならいいよー。あ、ここなんか良さげじゃない? 照明暗めで」


「暗めって評価軸あるんだ」


「あるくない? なんか雰囲気出るし」


「へー」


 ホテルの入口付近には記者インタビュー風のボードが置かれ、『本日の意気込みは!? 攻めと守りどちらが得意ですか!?』などと余計なことが書かれている。

 男の話に適当に相槌を打ちながら、橘はラブホテルの自動ドアに歩みを進めた。


 その瞬間。


「……める」


 背後から、空気の湿度だけ急に三倍になったみたいな声が飛んできた。


「はいはい来た。出た出た」


 振り返らなくても分かる。

 この湿度。

 この密度。

 この「今じゃないだろ」感。


 黒瀬(くろせ)じぇにだ。

 もはや気配というより局地的な天候異常に近い。


 振り返ると、案の定、黒瀬が完璧な立ち位置で立っていた。


 顔だけ見れば、深夜のホテル街より、洒落たバーの窓際で文庫本でも読んでいてほしい男だった。

 無駄に整った顔。無駄に様になる立ち姿。

 大学の女子が遠目に見て「優しそう」と言い出すタイプ。

 中身は完全に終わっているが。


 隣の男が、黒瀬を見て小声で聞いた。


「え、元カレ?」


「違う。事故物件。一回泊まっただけで、勝手に内装変えてくるタイプ」


 黒瀬が眉を寄せた。


「内装じゃない。関係の更新だよ」


「ほらね。こういうこと言う」


 橘はストローを噛みながら、だるそうに黒瀬を指さした。


「一晩だけノリで寝たら、こいつの中で天地創造が始まった。あれ以来、偶然を装って出てくるし、GPS付きブレスレットで茶トラ猫を追跡するし、方向性だけ最悪に進化してる」


「ごめん。情報量多すぎて一個も整理できない」


「私もできてない」


 黒瀬は橘だけを見ていた。


「帰ろう、める。そいつ、いらない」


「いらないって、家具みたいに言うなよ。人間だよこいつ。粗大ゴミじゃないんだから」


「いらない。めるの視界にノイズはいらない」


「意味わかんない。ラブホ入るけど」


「入らないで」


「入る」


「める」


「名前呼んでも普通に入るよ」


 会話が一ミリも進展しないまま、黒瀬が橘の手首に触れた。掴むと言うより、世界から一時停止をかけるみたいな触れ方だった。


 指先が異常に冷たい。冷え性と執着は両立するんだな、とどうでもいい知見だけが増える。


「帰ろう、める」


「離せよ。……あんたさ、いい加減にしなよ。一回寝ただけで重すぎんの。ストーカーのテンプレかよ。あと情緒が火事なのに手、冷たすぎて草。ホッカイロでも貼っときな」


 黒瀬の肩がぴくりと震えた。

 一瞬だけ、顔が崩れる。脳のCPUが焼き切れる顔だ。大学生のくせに情緒だけ古いノートPCみたいな不具合を起こすのは本当にやめてほしい。


「……なんで」


 ぽつり。


「なんで、そっち行くの」


 完全に子供みたいな声だった。

 ──あ、来たな。崩壊フェーズ。


「暇だからだよ」


「なんで僕じゃないの」


 少しだけ踏み込んだ声。

 いつもの理屈ではない、そのままの疑問だった。

 橘はストローをくわえたまま、数秒だけ考えた。


「あんたって整いすぎてて人間味ないから抜けない。今日はあんたみたいなイケメンより、どこにでも居そうな普通のやつがいい気分なんだよね」


 隣の男が固まった。


「イケメンじゃ抜けないって何!? 普通のやつがいいの!?」


「そこ気にすんの?」


「気にするだろ普通!?」


 黒瀬は、完全に止まっていた。

 さっきまで回っていた思考が、物理的に止まったみたいに。


「……人間味」


 小さく呟く。


「僕に人間味ない?」


「ない」


「抜けない」


「それ復唱すんな」


 数秒。

 そのまま黒瀬は、ゆっくり息を吐いた。


「……おかしいだろ」


 今度の声は、さっきまでより低かった。


「めるの方がずっとおかしい。普通って何。平均って何。めるはそんな、適当に置いてある既製品みたいな男で満足できる顔も脳もしてないだろ」


「急に情緒の階段飛ばすな」


「僕は、めるが退屈しないように壊れてるのに」


 その一言だけまっすぐだった。


「めるが見たことない顔、聞いたことない声、考えたこともない執着で、毎回ちゃんと飽きさせないように動いてるのに、なんで『普通』なんだよ」


「知らんがな。お客様センターにメールでもしろ」


「僕の方が、絶対に退屈させない」


 そこだけは確信に満ちていた。

 橘は一瞬だけ黙り込んだ。


(……あ。今のちょっと、悔しいけど分からんでもない)


 黒瀬が、そのまま橘をじっと見た。


「もう、普通に言うけど」


 声がふっと静かになる。


「今日は、僕といろよ」


 ほんの数秒、空気が止まる。


「そっちじゃなくていい。僕のところに来い」


「……」


 一瞬だけちゃんと刺さる。いつもの意味不明な理屈を捨てた、余計な熱のない言い方だった。

 橘の心臓が、ほんのわずかに変な動きをする。


(……待って。今のは普通にずるくね?)


 だが、次の瞬間。


「昨日、めるが飲んだカフェオレは砂糖二つだった。疲労が蓄積してる状態で、こんな低質なホテルに入るのは判断精度が落ちてる証拠だよ。僕ならカフェインレスのハーブティーを淹れて睡眠効率を──」


 ぶふっ。

 橘は飲んでいたフラッペを盛大に吹いた。


「台無しだよ!」


 咳き込みながら叫ぶ。


「私のフラッペ返せ! せっかく今ちょっとだけ、おっ、てなったのに、なんで最後に家電レビューみたいなこと言うんだよ!」


「家電レビューじゃない。比較優位の提示で」


「なおさら終わってんだよ! 空気返せ! フラッペも返せ!」


 隣の男もドン引きしていた。


「え、なんか今ちょっとかっこよかったのに、急に何? 仕様バグ?」


「イケメンの試用版らしい。すぐダメになるんだよこいつ。数秒しかいい感じでいられないの」


「失礼だね。僕は真面目に言ってるのに」


「いや事実だろ。賞味期限短すぎ。独占欲だけで真面目に人の予定潰そうとしてるから終わってんだよな」


 黒瀬は気づいていない。

 せっかく一瞬だけ普通にいい男に見えたのに、自分で即座に台無しにしたことに。


「違う。これは独占じゃない。最適化なんだ」


 出た。再構築モード。理屈装甲で言い訳を始める時間だ。


「食事、睡眠、移動経路、人間関係。そこに混ざるノイズを削れば、めるはもっと効率よく幸せになれる」


「怖」


 男が素で言った。


「だから僕が、めるの人生のOSになる」


「初期不良すぎるだろ、そのバグOS。出荷停止しろ。一生箱に詰められてろ」


 橘はとうとう面倒になってきた。


「じゃ、そろそろ入るわ。あんたは家帰って一人で再起動でもして、一生バグ報告だけしてな」


「待って」


「まだなんかある?」


 黒瀬がホテルの入り口横を指さした。


「僕が、ここで見てる」


「は?」


「朝まで全部、記録する。めるが何分で退屈して、何分で僕の方がマシだったと気づくか」


「耐久テストすんな。修行僧かよ」


「めるの選択が、僕のデータになる」


「それもう恋愛じゃなくて観察対象なんだよ」


「違うよ。愛だよ」


「余計に悪いわ。愛の定義がホラー映画」


 そして黒瀬は、本当にホテルの植え込みの前に仁王立ちした。

 姿勢だけは無駄にいい。無駄にいいせいで余計に変だ。

 ラブホ前で何を守護しているんだこの人は。本人の中では「僕以外からめるを守る最後の砦」みたいな顔をしているが、外から見たら完全に通報対象である。


 隣の男もわりと本気で心配そうな顔になった。


「……お前マジ? 寒くないの?」


「平気。めるの温度で補完する」


「きも」


 橘は肩をすくめ、男を促してホテルの中へ入った。

 自動ドアが閉まる。


 橘たちは受付を済ませ、適当に選んだ部屋へ上がった。

 照明はやけに暗く、壁紙は変に主張が強い。普通ならそこで何かしら雰囲気が始まるところだが、橘の意識は窓の外に半分持っていかれていた。


 黒瀬は、まだ植え込みの前に立ちながら微動だにしない。


 一分。

 五分。

 十分。

 その時だった。


「……あの、お客様」


 ホテルの警備員が、怪訝な顔で声をかけた。

 黒瀬は動かない。


「宿泊されるんですか?」


「僕は観測者です」


「……はい?」


「彼女が今夜どのような選択をとり、どのような経路を辿るのか、ログを取る必要があります」


「帰ってください」


「君には関係ない」


「あります。営業妨害です」


「営業妨害ではない。愛情です」


「もっと帰ってください」


 ついに警備員は、黒瀬の前にすっと立った。


 触れない。

 掴まない。

 ただ、一歩前へ出る。


 黒瀬が一歩下がる。


 もう一歩。

 また下がる。


 黒瀬は抵抗しない。ただ、理屈だけは最後まで抵抗していた。


「待って、まだめるのライフログが」


「お帰りください」


 完璧な管理計画が、警備員という名の現場力に秒で粉砕される。

 強い。

 ラブホの現場で鍛えられた大人は、異常理論を受信しない。


 ホテルの部屋の窓からその様子を見て、橘は吹き出した。


「え、あいつ警備員に押し戻されてんじゃん。ガチでウケる」


「いや笑い事じゃないだろ……こいつらマジで怖いわ」


「いやでも、ここまで来ると逆にすごくない? 他全部0点なのに執着の方向だけ100点なんだよな」


「評価するとこ、そこ……?」


 窓の外では、黒瀬と警備員がまだ何かを話している。

 橘は耐えきれず、ガラッと窓を開けた。


「じぇに! ウケるー!」


 黒瀬が即座に顔を上げた。


「める! 今それどころじゃない!」


「いや大ありだわ! 今日一おもろい! 管理者が警備員に管理されてんじゃん!」


「管理じゃない。敷地外への遷移を強制されているだけだ」


「いや笑うって! 弱いラスボスみたいでマジおもろい。その状態で『観測』続けてんの才能あるよ!」


「僕を観察するな!」


「そっちが先にしてきたんだろ!」


「今すぐそこから降りてきて!」


「やだよ! 今あんた外の展示物だから」


「展示物じゃない。待機中の保護者だよ」


「最悪な自己紹介来たな」


 橘は腹を抱えて笑った。

 黒瀬は徐々に距離を取っていきながらも、視線だけは外さない。


「……待ってて」


 ぽつり。

 今度は、さっきと違う。

 変に静かで、ちゃんと温度がある。


「次は、警備員の導線も計算に入れる」


「あんたが一番計算外なんだよ!」


 黒瀬が遠ざかったのを見届けて、橘は涙目で笑いながら窓を閉める。


「……あいつ、絶対また来るな」


「来ない方がいいと思うけど……」


「いや来る来る。次はたぶん裏口か非常階段。もしくは先回り」


「予測すんなよ怖いわ」


「いや、パターンあるから」


 橘はさっきの黒瀬の様子を思い出してまた笑った。


 だが、男はベッド脇で、完全に帰る顔をしていた。


「……ごめん、めるちゃん。俺、今日ちょっと無理かも」


「え、何で」


「あいつ外にいると思うと普通に怖い。あと、警備員に押し返されながら目だけこっち見てるの無理。あれが記憶に残ってたら楽しめる気しない」


「まあ分かる」


「分かるんだ……。あとさ、めるちゃん、あいつ見てるときが今日一笑ってたし。俺、勝てる場所そこじゃないわ」


 男は苦笑いしながらスマホをしまった。


「また今度、普通の場所で飲も。今日は帰るわ」


「はいはい。おつー」


 ロビーまで下りると、男は最後まで軽い足取りでホテルを出ていった。

 その背中を見送ったあと、橘は自動ドアの外へ視線を向ける。


 男が帰ったあと、ホテル前にはまだ黒瀬がいた。

 警備員に管理されながら。


 橘が外に出ると、黒瀬は警備員から解放された直後とは思えないほど真剣な顔でこちらを見た。


「……める。僕を選んだんだね」


「違う。あいつが帰っただけ」


「でも君は、ここに残った」


「腹減ったからね」


「……腹?」


 黒瀬が一瞬だけ止まる。

 空腹時の橘にとって、大事なのは肉だった。今は肉の方が話が早い。


「牛タン奢れ。あんたのせいで、今日のなんとなくが全部台無しになったんだから」


「……僕が、君の今夜を埋め合わせる」


「飯代をだよ。人生みたいに言うな」


「厚切りがいい?」


「分かってんじゃん」


 黒瀬の顔が、ほんのわずかに明るくなる。


「店は僕が選んでいい?」


「失敗したら置いてく」


「失敗しない」


「その自信、恋愛じゃなくて飯だけに使え」


 最悪な男だ。

 ただ、牛タンの厚切りを即座に出せるあたりだけは、少しだけ見直した。


 結局その夜、橘は誰とも寝なかった。代わりに、黒瀬の奢りで牛タンを食べることになった。


 黒瀬はそれを勝利だと思っている。

 橘はそれを晩飯だと思っている。


 どちらも、ある意味では間違っていない。


 牛タン屋に向かう途中、黒瀬は一度だけ振り返った。

 ホテルの警備員は、建物前に立ったまま、まだこちらを見ていた。


「……彼は強かった」


「恋敵みたいに言うな」



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