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灯りを置いて、母は眠った

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/04

人は近すぎる相手ほど、言葉を失う。


「ありがとう」も、

「ごめんね」も、

「大好き」も。


いつでも伝えられると思っているうちに、気づけば時間だけが過ぎていく。


この物語は、そんな“言えなかった言葉”を抱えた親子の話です。


誰かを大切に思うことは、きっと特別なことじゃない。

でも、その気持ちを伝えることは、とても難しい。


もし今、あなたの隣に大切な人がいるなら。

読み終えたあと、少しだけ優しくなれますように。

二月の風は冷たかった。


 結衣は制服のポケットに両手を突っ込みながら、夜道を歩いていた。街灯に照らされた白い息が、ゆっくり空へ溶けていく。


 午後九時を過ぎた商店街は静かだった。閉店した店のシャッターが並び、遠くで自転車のベルが一度鳴る。


 家に帰れば、母がいる。


 けれど結衣は、その「いる」ということを、当たり前みたいに思っていた。


「ただいま」


 古いアパートの扉を開けると、カレーの匂いがした。


「おかえり。ご飯温める?」


 キッチンから聞こえる母の声。


「……あとでいい」


 短く返事をして、自室へ向かう。


「結衣、ちゃんと食べなさいよ」


「わかってるって」


 少し強い口調になった。


 まただ、と結衣は思う。


 母と話すと、いつもこうなる。


 本当は怒りたいわけじゃない。

 でも優しくされるたび、胸が苦しくなる。


 自分はちゃんと応えられていないのに、母だけがずっと頑張っている気がした。


 部屋へ入り、ベッドへ倒れ込む。


 スマホを見ると、蒼からメッセージが来ていた。


『また居残り?』


『バイト』


『そっか。無理すんなよ』


 それだけの短い言葉なのに、少しだけ肩の力が抜けた。


 結衣は返信を打とうとして、やめた。


 疲れていた。


 なにも考えたくなかった。


 そのとき、リビングから大きな音がした。


 ガシャン。


 何かが落ちる音。


「……母さん?」


 部屋を飛び出した瞬間、結衣の呼吸が止まった。


 母が床に倒れていた。


「母さん!!」


 駆け寄る。


 真奈美は苦しそうに胸を押さえ、呼吸を乱していた。


「だ、大丈夫……だから……」


「大丈夫じゃないでしょ!」


 震える指で救急車を呼ぶ。


 母の手は、驚くほど冷たかった。


 病院の待合室は静かだった。


 時計の秒針だけがやけに響く。


 結衣はずっと俯いたまま、膝の上で拳を握っていた。


 どうして気づかなかったんだろう。


 最近、母はよく咳をしていた。

 疲れた顔をしていた。

 それなのに、自分は何も聞かなかった。


 聞こうとしなかった。


「水城さんのご家族ですか?」


 看護師に呼ばれ、結衣は立ち上がる。


「お母様は心不全です。以前から症状があったようですね」


「……え?」


「かなり無理をされていたみたいです」


 頭が真っ白になった。


 知らなかった。


 本当に、なにも知らなかった。


 病室へ入ると、母は眠っていた。


 酸素マスクをつけた姿は、小さく見えた。


 こんなに小さい人だったんだ。


 結衣はベッド脇の椅子へ座る。


 そこで、一冊のノートを見つけた。


 淡い花柄の古いノート。


 開いていいのか迷って、けれど手が止まらなかった。


『2008年4月12日』


『今日、結衣が生まれた』


『小さくて、泣き虫で、でも世界で一番可愛い』


 ページをめくる。


『熱を出した。夜中ずっと抱っこした』


『初めて“お母さん”って呼んでくれた』


『結衣は優しい子になると思う』


 文字が滲んで見えなくなる。


 涙だった。


『最近、反抗期みたい』


『でも元気ならそれでいい』


『嫌われてもいいから、生きていてほしい』


 結衣は声を殺して泣いた。


 母は知っていた。


 自分が冷たい態度を取っていたことも。

 傷ついていたことも。


 それでもずっと、自分を愛していた。


「……なんで言ってくれなかったの」


 震える声で呟く。


「病気のこと……」


 返事はない。


 静かな機械音だけが響く。


 結衣は母の手を握った。


 今度は、少しだけ温かかった。


 翌朝、蒼が病院へ来た。


「大丈夫か」


 結衣は首を横に振った。


「全然、大丈夫じゃない……」


 涙が溢れる。


「私、最低なんだよ」


「そんなことないだろ」


「あるよ……母さん、ずっと苦しかったのに……私、なにも知らなくて……」


 蒼は少し黙ってから言った。


「家族ってさ、近すぎるから気づけないんだと思う」


「……」


「でも、今気づけたなら、まだ遅くない」


 その言葉が胸に残った。


 数日後。


 真奈美は目を覚ました。


「……結衣?」


「母さん……!」


 結衣は泣きながら笑った。


「そんな顔しないでよ」


 弱々しく笑う母を見て、胸が痛む。


「ごめん……」


「なんで結衣が謝るの?」


「だって私……」


 言葉が詰まる。


 でも、今なら言える気がした。


「ちゃんと、ありがとうって言えてなかった」


 真奈美は驚いたように目を見開いた。


「毎日ご飯作ってくれて……働いてくれて……私、ずっと当たり前だと思ってた」


 涙が止まらない。


「でも違った……母さん、ずっと一人で頑張ってたのに……」


 真奈美はゆっくり手を伸ばし、結衣の頭を撫でた。


 子どもの頃みたいに。


「結衣が生きててくれるだけで、お母さんは幸せだよ」


 その言葉で、結衣は声を上げて泣いた。


 窓の外では雪が降っていた。


 静かで、優しい雪だった。


 春になった頃。


 真奈美は退院した。


 前みたいには働けなくなったけれど、その代わり家で過ごす時間が増えた。


「今日、カレー作ってみた」


 エプロン姿の結衣に、真奈美が目を丸くする。


「え、なにこれ怖い」


「ひどくない!?」


 二人で笑う。


 そんな普通の時間が、前よりずっと大切に思えた。


 食卓の灯りは温かかった。


 結衣は思う。


 幸せって、きっとこういうことだ。


 特別じゃない。


 誰かが「おかえり」と言ってくれること。


 隣で笑ってくれること。


 ちゃんと生きていてくれること。


 それだけで、人は救われるのだと。

親子という関係は、不思議です。


近すぎるからこそ傷つけてしまう。

近すぎるからこそ、素直になれない。


でも本当は、言葉にできないほど大切に思っている。


この物語を書きながら、「愛情は伝えなければ届かない」という当たり前のことを、改めて感じました。


忙しい毎日の中で、つい後回しにしてしまう言葉があります。


「ありがとう」

「ごめんね」

「大好き」


もし今、大切な人の顔が浮かんだなら。

どうか、その気持ちを伝えてみてください。


きっと、それだけで救われる心があります。

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