それぞれの覚悟
フェスまで、残り一ヶ月。
スタジオのカレンダーに赤ペンで書かれた日付が、少しずつ近づいてくる。
4人の練習は順調だったが、心の奥ではそれぞれ違う“迷い”が芽生えていた。
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■麻耶 ―― 母であること、歌うこと
夕食後、子ども達を寝かしつけた寝室。
麻耶は小さな寝息を確かめてから、リビングに戻った。
テーブルの上には、フェス当日のタイムテーブルのコピー。
「この時間…ちょうど運動会の準備と重なるかも…」
胸が、きゅっと縮む。
歌いたい。
でも、母親としての役割から逃げたくはない。
そこへ、夫が静かに声をかけた。
「麻耶、最近楽しそうだよね」
「え…?」
「歌のこと。無理してる顔じゃない」
麻耶は少し迷ってから、正直に言った。
「もし…フェスの日、子ども達を置いて行ってもいいかな」
夫は少し驚いた顔をしたあと、笑った。
「いいに決まってるだろ。
だって俺、麻耶が歌ってる姿、好きなんだから」
その言葉に、麻耶の目から涙が溢れた。
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■響 ―― 社長という現実
会議室。
来期の重要案件を前に、響は厳しい判断を迫られていた。
「その日は、どうしても社長に同席していただきたいんですが」
日程表を見ると、フェスの前日。
―― 休めない。
頭をよぎるのは「バンド」と「会社」。
どちらも、自分が背負っている。
夜、誰もいないオフィスでギターケースを開く。
「俺、何やってんだろうな…」
ふと、昔の文化祭の写真が目に入った。
汗だくで、無邪気に笑っている自分。
「……逃げたくない」
翌朝、響は決断する。
「前日の商談、俺抜きで進めてくれ。
責任は俺が取る」
部下が驚く中、彼の声は揺れていなかった。
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■慎司 ―― 理論家の不安
研究室の机に向かいながら、慎司はふと考える。
「人前で演奏するの、何年ぶりだ?」
学会発表とは違う。
評価ではなく、感情がさらされる場所。
指が震え、弦をミュートする。
「失敗したら…皆の足を引っ張るかもしれない」
そんな彼に、学生が言った。
「先生、ベース弾いてる時、めっちゃ楽しそうですよ」
その一言で、肩の力が抜けた。
「…失敗してもいいか」
音楽は、完璧じゃなくていい。
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■大地 ―― 守る場所
喫茶店「カモメ堂」。
フェス当日、店は定休日にする予定だった。
「もったいないねぇ」と常連に言われ、大地は笑う。
「いいんすよ。
この店は、オレの帰る場所だから」
夜、1人でドラムセットを叩く。
「叩ける場所がある。
帰ってくる場所がある」
それだけで十分だった。
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■スタジオ ―
4人が集まった夜。
誰からともなく、ぽつりぽつりと話し始める。
麻耶は家族のこと。
響は会社のこと。
慎司は不安を。
大地は店のことを。
沈黙のあと、麻耶が言った。
「私ね…フェス、逃げたくなかった」
響が頷く。
「俺もだ。
中途半端にはやりたくない」
慎司が微笑み、大地が力強く言う。
「じゃあさ、全力でやろうぜ。
10年分、まとめて」
その言葉に、4人の視線が重なる。
アンプのスイッチが入り、カウントが刻まれる。
“メモリーズ”は、少しだけ大きな音になった。
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フェスまで、あと一ヶ月。
それぞれの覚悟が、ひとつの音に重なり始めていた。




