お口にあわなければ、結構です!
侯爵令嬢――そう名乗るのも、今や虚しい。
私、クラリッサ・フォンテーヌは、古くから続く由緒正しい侯爵家の令嬢でありながら
『借金まみれの貧乏令嬢』
と社交界で噂の的だ。
名前を名乗ると「ああ、貴方が」と好奇な目で見られることにも慣れてしまった。
そもそもご招待いただいたお茶会や舞踏会の場に合う煌びやかなドレスがないので、母のお古を繕って着ていくのだけれど、時代遅れのデザインは随分と人の眼を引いてしまう。
自己紹介する前から自ら『貧乏令嬢』ですと宣言しているようなものだった。
「貧乏令嬢が、よくもこの場に出てこれたものね」
「仕方ないわよ、侯爵家なんですから」
「でもね、そろそろお取り潰しなんて噂も……」
背後から耳に届く囁きがうるさくて堪らない。
私だって、時間とお金の無駄になるような舞踏会は、欠席で押し通したかった。
でも今夜の舞踏会は王宮主催なのだから、お断りするわけにもいかない。
手にしていたグラスに口をつけて、騒がしい胸の内に液体を沈めるように、食前酒を喉に通した。
(大丈夫よ、大丈夫)
自分に言い聞かせる。
私には『誇るもの』があった。
目を閉じて、それを瞼の裏に思い浮かべる。
銅鍋と木べら。
季節の果実。
甘いカスタードに、ふんわり柔らかなスポンジ生地。
小さなオーブンから生まれる魔法。
貧乏だ、もはや庶民だ、と嘲笑されてもいい。
だって、私は知ってるの。
一口で人の顔を綻ばせる魔法があること。
(早く帰って、お菓子を焼きたいなあ)
もはや現実逃避なのかもしれないけれど、仕方ないわよね。
小さくはない溜息を吐いた――その時。
「クラリッサ!」
名前を呼ばれて振り返ると、豪奢な衣服をまとった男がこちらを睨むように険しい表情で仁王立ちしていた。
「エドワード様」
エドワード・バスフォード。
バスフォード男爵家嫡男であり、私の婚約者でもある。
「どうして俺の傍にいないんだ!」
「……すみません、女性に囲まれていらっしゃっておいそがしそうだったので」
本来であれば、男爵家より侯爵家の方が身分は上なのだから、婚約者であれど叱責される筋合いはないし、むしろ婚約者がいながら他の女に囲まれていることだったり、侯爵家に対しての失礼な態度をこちらが注意する立場なのだけれど……フォンテーヌ家は、私とエドワード様との婚約をきっかけに、バスフォード家からの多額援助の約束を得たものだから、とにかく婚約者様の機嫌を損ねるな、というのが両親から何度も何度も言い聞かされた約束。
そんな微妙な関係とパワーバランスを、エドワード様が理解しているから、調子に乗る。
「まったく、これだから『貧乏令嬢』は嫌なんだ!」
大きな声での叱責に、騒めく場。
私としては慣れたものだけれど、陥れられていい気分になる人間はいない。
それでも張り付けた笑顔の仮面。
(……またか)
なんて思っていたら、驚くべきことが起こった。
「いま、ここにいる皆の前で宣言する!」
ポマードをたっぷりとつけて整えた髪の毛を撫でつけながら、まるで舞台俳優のような大袈裟な身振り手振りの婚約者様。
次に耳に届くであろう言葉を予想は出来たけれど、まさか本当に言うつもりじゃないでしょうね。
僅かながら眉間に皺が寄る。
普段の豪遊ぶりは(いくら家の商売が順調とはいえ)不測の事態への用心が足りないし、「今が楽しければそれでいい」というのが信条のエドワード様の頭の中には将来の見通しなんてものはないって知っていたけど……
「エドワード・バスフォードはクラリッサ・ド・フォンテーヌとの婚約を破棄する!」
――この男は、本当に馬鹿である。
シン、と静まり返ったホール。
音楽を奏でていた楽団の演奏も、止まる。
「理由は簡単だ!」
エドワード様は勝ち誇った顔で続けた。
「クラリッサ、君の家は貧乏だ。いくら侯爵家とはいえ我がバスフォード家が慈悲の手を差し伸べる理由はない!それに――趣味が菓子作り!卑しい!貴族の妻にふさわしくない!」
その言葉に、吐息交じりの笑い声が、漣のように広がる。
嘲笑が私を取り囲んだ。
そんな私を、エドワード様はニヤニヤとした下品な表情で見つめていたのだけれど、
「……承知いたしました」
「ハッ!?」
私が重い溜息と共に呟いた言葉に、驚いたご様子。
ご自身が言い出したことでは?
どうやら彼の中で思い描いていた結末ではないらしい。
「正式な手続きはご両親を通じて、よろしくお願い致します」
泣き崩れるわけでもなく、縋りつくでもなく、ただ冷静に受け止めた私の姿に、エドワード様の眉間には深い皺が寄ることも、場が凍り付いているのも、私にとっては些細なことだった。
「……何故……!?」
どうして婚約破棄の宣言をした方が、憮然とした表情になるのか……私には理解できないけれど。
それでも、婚約者様に何故と理由を問われたのであれば、答えなければならない。
真一文字に結んでいた唇をゆっくりと開こうとした――その時だった。
「砂糖は貴族を飢えから救わない――そう言ったのは誰だったか」
シンと静まった場に、穏やかに広がるバリトン。
声の主は――ホールの二階部分から一階部分のフロアへと降る階段をゆっくりと降りてくる。
皆が顔を上げて、『彼』を見た。
「だが、それは違うと今ここで証言しよう。少なくともこの国の王族は、彼女の菓子に何度も救われている」
バリトンの声の主である――正装に身を包んだセシル王太子が、私とエドワード様を見下ろしている。
周囲の人間は、息を呑む。
だって王太子様が、巷で噂の貧乏令嬢(しかも先ほど婚約破棄されたばかりの!)の肩を持つ発言をしたんだから、当然だ。
「……ふふっ」
思わず漏れる笑み。
私のそんな態度に対して、エドワード様がキッとこちらを睨んだ気配がしたけれど、もうそんなことどうでも良かった。
「先日の隣国の大使を招いての茶会、特に好評だったタルト菓子は――フォンテーヌ嬢の作だと料理長から聞いたが、間違いないか?」
「はい、殿下」
「素晴らしい!」
セシル殿下の賞賛に、会場が響めく。
エドワード様は必死に叫んだ。
「たかが焼き菓子で何を! そもそも何故クラリッサが王宮で料理を?!貴族の務めは――」
「貴族の務めは国の笑顔を守ることだ」
セシル様は、エドワード様の言葉を一刀両断して――そして彼の言葉を借りるように貴族の矜持を紡いだ。
「砂糖は飢えを救わぬ。だが、飢えた心を救う。兵士の士気も、外交の場の氷も、甘味ひとつで変わる」
空気は完全に逆転した。
この流れ――完璧だ。
私は微笑み、エドワード様に視線を向ける。
「エドワード様。婚約破棄の件、ありがとうございます」
「な、何を……!」
「あなたが私を“ふさわしくない”と切り捨ててくださったおかげで、私のふさわしい場所が見つかりました。ですから――」
さあ、ここが一番の山場でしょうね。
菓子作りでいうところの、トッピング。
「お口にあわなければ、結構です!」
私の高々とした宣言に、騒めきが爆発し、会場のどこからか小さな拍手が湧き起こった。
こんな結末はきっとエドワード様の頭の中の筋書きにはなかったのだろう。
だからだろうか。
その顔は真っ青に染まり、ワナワナと震えている。
セシル殿下は、そんなエドワード様の様子なんて興味がないらしい。
ただ――
「クラリッサ」
殿下は甘い響きで、私の名前を呼んだ。
「セシル殿下」
私もそれに応えるように、口を開く。
そして、彼の元へと歩み寄って差し出された手を取ったのだった。
♢♢♢
殿下に連れられてやって来たのは、人気のない奥庭だった。セシル殿下の金髪が月明かりに照らされて、とても美しく光っている。
そして、私たちの手は繋がれたまま。
思い出すのは、幼い日々。
「まさか本当に……殿下の仰った通り、エドワード様が婚約破棄の宣言をするなんて思ってもいませんでした」
「だから言っただろう、あの男は愚かだと」
「……ええ、薄々感じてはいましたけど。それでも最後の希望というか……信じていたかった部分もあるんです。……婚約者でしたから」
感じる解放感と、それとは正反対に胸を焦がす感情。
それは、いつか改心してくれるのだと信じていた幻想が、見事に打ち砕かれたから感じる寂しさと無念なのだろうか。
どうやらエドワード様が私との婚約破棄を目論んでいる――という話が私の耳に届いたのは、数週間前のことだった。
しかもその噂を持ってきたのは目の前にいらっしゃるセシル殿下に他ならない。
昔から、お忍びで街へ出かけられる等、宮廷にとどまっておけない殿下は、厨房にこもりっきりの私とは正反対で、実に情報通だ。
エドワード様が色街で派手に遊んでいるらしい。
どうやら懇意にしている情婦がいるらしい。
自分の婚約者は『借金まみれの貧乏令嬢』でほとほと嫌になる、と酒場で管を巻いているらしい。
王宮主催の舞踏会で婚約破棄の宣言をするらしい、と。
そんな話を、殿下が私に伝えてくださったのは、私たちが所謂『幼馴染』と形容できる間柄であり、ひとえに私の行く末を不安に思ったからだろう。
そもそもフォンテーヌ侯爵家は古くから続く由緒正しい侯爵家でありながら、なぜ貧乏なのか。
それは金銭的なことに関心が薄い『学者気質ばかり』の一族であるからだ。
没頭するものはそれぞれ違えど、フォンテーヌ家の人間は古くから各分野で王宮の文化顧問的な役割を担ってきた。
――そう、勿論、私も。
それが、エドワード様に「貴族の妻には相応しくない卑しい趣味」と言われた『お菓子作り』だ。
「クラリッサ」
「はい」
「……私たちの出会いを覚えているか?」
「ええ、覚えています」
忘れるわけがない。
「厨房に忍び込む王子様なんて、殿下以外に居ませんから」
セシル殿下は昔から、本当に、自由だ。
「お陰で君と出会えた」
「懐かしいですね」
王宮で振る舞われる料理の顧問――先代は、私の祖母。
そんな彼女に連れられて、幼い頃から私の居場所は王宮の厨房だった。
セシル殿下との出会いの場でも、ある。
「クラリッサ」
繋がれた手の温もりから、思い出す日々、幼き頃。
……というか、殿下はいつまでこうしているつもりなんだろうか。
いくら『幼馴染』とはいえ、これは一線を越えている気がする。
だけど殿下は大して気にしていないらしい。
穏やかな視線が私を見つめている。
そして、開かれた口が紡いだ言葉は――
「私の口には、君の菓子が一番合う」
「……は、い」
――『お口にあわなければ、結構です!』
つい先ほど、大衆の面前での私の宣言をなぞるような言葉。
ぶわりと指先から熱が発生して、頬がカッと熱くなる。
「砂糖は甘いが、……君はもっと甘いんだろうな」
夜空の星々が瞬き、その光の粒が誰かの眠りに溶け込んでいる間に――殿下が耳元で囁いた言葉は、私の明日を少しだけ、甘くしたのだった。
はじめての投稿になります。
精進します。




