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慣れと諦めと喜びと

「よろしくお願いします、っと」


 キーボードの打鍵音に合わせて口に出し、タンとエンターキーを押す。

 送信するファイルとメール内容に間違いがないかザッと見直し、もう一度タンとエンターキーを押す。

 よし、お仕事終了。


「ふぁ……もう朝か」


 イヤホンを外し、大きく伸びをする。

 カーテンの隙間から朝日が漏れ、名前を知らない鳥が甲高くホーホーと朝を告げている。

 日が変わる前からモニターとずっとにらめっこしていたせいで、身体のあちこちからバキバキと音が鳴る。

 ここ数日サボっていたからだろうか、長時間座っていることが少し苦痛で集中できずにこんな時間になってしまった。

 普段は徹夜などせず、もう少し余裕を持って作業しているのだが、最近起きたイレギュラーのせいで突貫作業になってしまった。

 なんもかんも、春のせいだ。

 どこまで口出しするべきか分からず、距離感を掴めずにいるのだが、あっちはお構いなしなのだ。


『芥お兄さんに服選んでほしいな』

『自分が着る服なんだから自分で選べよ』

『私、何が良くて悪いか分からないから。制服はダメなんでしょ?』 

『……あとから文句言うなよ』


 男がレディースの場所にいることがあそこまで苦痛とは知らなかった。

 客も店員も温かい目で見てきやがって。

 見世物じゃねぇ、って叫びたい気分だった。

 最悪だったのは、春にろくに下着の概念がないことだった。


『ねぇ、芥お兄さん。ブラジャーってなに?』

『……お前、つけてないの?』

『だって、買ってもらったことないよ』


 人生で一番人に殺意を抱いたかもしれない。

 春に対する教育放棄よりも、なぜ自分がこんなことしなきゃならんのだという怒りだ。

 知識なんてあるわけもなく、適当に目測で春に合うサイズのブラジャーを買う羽目になった。

 マジマジと選ぶ気にはならなかったから、一番近くにあったスポブラを選んだ。

 パンツも女物のボクサーパンツを買ってやった。

 色気がない? うるせぇ、さっさと売り場から離れたかったんだよ。

 安物の店だが、上下数点と下着も買うとなると、そこそこな出費になった。

 おかげで財布が軽い。

 ただでさえ収入が不安定なのに、予定外の出費は懐事情的にだいぶ厳しいものになった。

 ……あれ、なんで俺が金出してんだ??


「何してるの、芥お兄さん」

「……おい、勝手に入ってくるなって言ったよな?」

「インターホンもノックもしたよ?」

「それでも返事がない時は入っちゃいけないんだよ」

「……芥お兄さんがいない時、私はどこに行けばいいの?」

「知らねぇよ」


 イヤホンをしていた時に来たのだろうか、不意に真後ろから声がするとビビるからやめてほしい。

 椅子を回転させ、春の方に向き合う。

 キョトンと首をかしげる少女はいつもの制服姿ではなく、買ってあげたばかりの服装だ。

 夏でも冬でも着回せるように買ったジーンズに、厚手の紺色のパーカー。

 自分で買っておいて言うのも変だが、なんとまぁ洒落っ気のないセンスだこと。

 しょうがない、ファッション誌とか見ないし、試着とかさせなかったし。

 俺の視線に気がついたのか、ブカブカの裾を握ってパーカーをアピールしてくる。


「もう制服じゃないよ」

「それが?」

「これなら、触ってくれる?」

「触るわけないだろ、捕まりたくないんだわ」

「人前じゃないよ?」

「人前じゃなくてもダメなものはダメなんだ。悪いことはお天道様が見てるからな」

「お天道様ってなに? 私に触ることって悪いことなの?」

「太陽、悪い」

「そうなんだ」


 徹夜明けの頭がボンヤリとし始める。

 春のなぜなぜ攻撃にマトモな対応をしようという気があまり湧かず雑な返答になる。

 寝ようかな、流石に今日も出かけるのは無理だ。

 社会不適合者にも二種類。

 バイタリティがある奴と、ない奴。

 俺は後者だ。

 一度出かけたら一週間ぐらいは遠出したくない。

 出不精で怠け者でぼっち気質なのだ。

 春には悪いが一人で時間を潰してもらおう。

 ……悪いか? 勝手に部屋に上がるほうが悪いよな?


「ブラもつけてきたのに? ほら」

「やめろバカ! 脱ぐな脱ぐな!」


 こいつに羞恥心がないことを忘れていた。

 パーカーを脱ごうと胸元までまくった腕を掴んで止める。

 病的な白い肌には肋骨が浮き出ていて痛々しい。

 チラリと見えたグレーのスポブラには、何の感情も湧かない。

 普通ならテンションが上がるシチュエーションでも、春相手だと全く上がらん。


「あ、触ってくれた」

「お前……次脱ごうとしたら外に放り出すからな?」

「芥お兄さんが買ってくれたものを見せるだけだよ?」

「下着は普通人には見せないんだよガキが」

「そうなんだ」

「服を脱ぐな、俺に触るな、勝手に部屋に入るな、帰る時に掃除してけ、今言ったことを守らないなら二度と家に入れん」

「それは、普通の人ならみんなやってることなの?」

「普通なんか知らん。俺の家のルールだ」

「えぇ……」

「普通が適用される場所と、特殊も適用される場所があるって事だ。脱ぐなと入るなは一般的なマナー、触るなと掃除しろは特殊なマナーだ」

「……生きるのって難しいね、芥お兄さん」

「生きてりゃ慣れる、てか教わる」

「芥お兄さんは、私に教えてくれる?」

「お前が俺の言う事を聞くならな」

「分かったよ」


 はぁとため息をつく。

 出会って数日しか経っていないというのに、ずいぶんと好かれたものだ。

 良くはない。

 良くはないのだが、もっとうまい対応の仕方が思い浮かばない。

 寝不足の頭でなければ思いついただろうか?

 いや、思いつかないな。

 最善は児童相談所に通報することなのだ。

 それをしない以上、ズルズルと面倒を見る以外に選択肢はないだろう。

 頭を抱える俺の考えを知らずに、春は相も変わらず生気のない目で俺に話しかけてくる。


「芥お兄さんの部屋ってパソコンと本しかないよね。パソコンで何してたの?」

「仕事」

「何のお仕事なの?」

「作家」

「小説家なの?」

「いや、小説はもう書いてない」

「もうってことは、昔は書いてたんだね」


 おっと、口が滑ってしまった。

 あんまり仕事の話をしたくはない。

 作家、あえて抽象的な職業名にしているのは、ちゃんとした職に就いていないからだ。

 文章は書くしストーリーも考えるし、ちゃんとそれで稼いでいるのだから職としては成り立っているのだけれども。

 主な収入源は二つ。

 一つは原稿を書くこと、簡単に言ってしまえばウェブライターだ。

 匿名で文章書いたり、ブログの代筆したり、動画のシナリオを考えたり、手広くやっている。

 さっきまで徹夜で作業していたのはこれだ。

 やればやるだけ稼げるのだが、やらなかったら一文も入ってこないので毎日コツコツやる必要がある。

 もう一つは……まぁ今はいいか。

 春の前で考えることではない。

 とりあえず今は、眠たいのだ。


「とりあえず、俺は徹夜して仕事をしていた。今から寝る。分かったか?」

「うん」

「本棚の本は、ちゃんと戻すならいくらでも見ていい。それ以外はイジるな、分かったか?」

「うん」

「よし、寝る」

「おやすみなさい?」

「なんで疑問形なんだよ……おやすみ」


 ベッドに潜った途端、意識が遠のいていくのを感じる。

 すぐ近くに春がいるから眠くなるのに時間がかかると思ったが、そうでもないらしい。

 ……俺も、なんだかんだコイツに気を許しているのかもしれない。

 もっと人嫌いのはずなんだがなぁ、俺。

 そんな事を考えていると、すぐさま思考は暗闇に溶けていった。


 ——————


 芥お兄さんは寝てしまった。

 普段から背を丸めて歩くお兄さんは、寝る時も丸まって寝るようだ。

 人が寝ている姿を見ることはいつもないから、なんだか心がワクワクしている。

 触るなと何回も言われたけれど、見るなとは言われてないから見るのはいいと思った。

 ベッドに座って、丸まって眠る芥お兄さんを見つめる。

 おでこにしわが寄っておっかない表情も、寝ている今は優しい顔に見える。

 いつもおっかない表情なのは、私が怒らせちゃってるのかなぁ。

 そう思ったとたん、心のワクワクは悲しいものに変わってしまった。

 それは、いやだなぁ。

 芥お兄さんと出会うまでは、毎日が灰色の生活だった。

 決まった時間に、決まったことをするだけの生活。

 何が正しくて、間違っているか分からないから、学校の皆の真似をして過ごすだけ。

 制服しか持っていなかったのも、制服姿の子たちしか知らないから。

 人の家の上り方を知らないのは、誰も教えてくれる人がいなかったから。

 パパとママとはずいぶん会っていない。

 顔もぼやぼやとしか思い出せないし、どんな声だったかもう分からない。

 毎日が、ぼやけた灰色の世界だった。

 多分、そのうち私もどこかに消えていくんだろうなって思ってた。


『ガキィ! ベタベタと売り物に触るんじゃねぇ!』

『ガキ! お前乗車券どこしまった!』

『春、また明日だ。挨拶は覚えとけ』


 そんな私を、芥お兄さんはしっかりと見てくれる。

 ちゃんと叱ってくれるし、ちゃんと喋ってくれる。

 嬉しいなぁ。

 でも、そんな芥お兄さんに迷惑をかけるのはいやだなぁ。

 今までなかった、心のザワザワのおさめ方は私には分からない。

 芥お兄さんなら、分かるだろうか。

 起きないように、ゆっくりと毛布に手を突っ込み服の端っこを掴む。

 これなら、直接芥お兄さんに触れていないから怒られない、と思う。

 一番最初に出会った日も、服を掴んでいても何も言わずにいてくれたから、今日も許してくれるだろう。

 早く、起きないかなぁ。

 叱ってくれるかな、呆れちゃうかな。

 それでも目を見て話せる相手がいることが、嬉しいのだと知ったから、体が勝手に動いてしまう。

 じっと芥お兄さんの寝顔を見つめる。

 それ以外何もしない時間であったが、雪の日にベンチで座り続けるよりも、ずっとずっと楽しかった。


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