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ストレス

「うぎぎぎぎぎぎぎぎ」


 ストレス、耐え難いほどのストレスに唸り声がもれる。

 八畳一間の自分のアパートに、春と名乗るガキを連れてきてしまった。

 雪で冷えたのか、震える姿を見て思わず風呂場にぶち込んでやった。

 ゲーミングチェアに貧乏ゆすりをしながら座る。

 未成年の異性をアパートに連れ込んだこと?

 無責任に他人に親切を施したこと?

 そんなことは今はどうだっていい。

 無音の部屋に、シャワーの音だけが響いている。


「うぐぐぐぐぐぐぐぐ」


 久しく忘れていた感覚に唸り声が止まらない。

 どうして自分が一人暮らしなのか、高校を中退してまで家を出たのかを思い出す。

 他人の生活音が、気になって仕方ないのだ。

 扉が開く音、水が流れる音、食器がぶつかり合う音、誰かが動く足音や気配。

 家族であっても、第三者が近くにいるということにいちいち気が散ってしまう。

 どうして自分のプライベートゾーンに、第三者が入り込んでいるんだ?

 これが店だとか温泉だとか公共施設ならあまり気にはならない。

 自分も他人も、等しく異物であるからだ。

 その場に俺が邪魔する立場だし、他の客もそうだからストレスはない。

 ただ、自分の家だとそうはいかないのだ。

 排水溝に人の髪が引っかかっているのがイヤだ。

 誰かが自分のタオルを勝手に使うのはイヤだ。

 寝ようとした時に、自分の部屋の前を誰かが通るのはイヤだ。

 中学校の時、親に直訴したことがあるがまともに取り合ってはもらえなかった。

 少し神経質になっているだけなのだと言って流されてしまった。

 違うんだよなぁ、性格の話なんだよなぁ。

 他人が何にストレスを感じるかは、真に理解することはできないのだと、俺はその時に初めて知った。

 シャワーの音が止まり、浴室の扉が開く音がする。

 ぺたりぺたりと濡れた足が床を叩く音がする。

 音が気になる。

 近くに人がいるのだと、自分のプライバシーが侵害されているのだと、そう思ってしまう。

 ん?

 なんで浴室から出てすぐに、こっちに向かって足音がするんだ?

 ガチャリ、と居室に繋がる扉が開く。

 びしょびしょに髪を濡らした、一糸まとわぬ姿の少女が立っていた。

 慌てて目を逸らす。

 やばい、本当に一切の言い訳ができない犯罪者になってきたかも。


「芥お兄さん、タオルって借りていいの?」

「だぁぁぁぁガキが! 隠せ隠せ!」

「?」

「戻れ! とりあえずもう一回風呂に戻れ!」

「分かった」


 羞恥心がないのだろうか?

 目を逸らしているから少女の様子を見ることはできないが、慌てふためく自分とは違って少女の声に変化は見られない。

 浴室の扉が開く音がしたのを確認して、椅子から立ち上がる。

 さっきまでのストレスとはまた違う、別のストレスがギリギリと頭を締め付ける。

 あぁ、胃が痛くなってきた。


 ——————


「説教だ、ガキ」

「なに? 芥お兄さん」


 少女を自分の前に正座の姿勢で座らせる。

 制服が雪で濡れていたので、今は自分のジャージを着させているが、丈が合っていない。

 あまりに余りまくった袖は、少女の肉付きの悪さをとても感じさせるものだった。

 ジャージの隙間から見える鎖骨は、セクシーさよりも哀愁を誘うものである。


「いいか、人前に裸で来るな。俺が死ぬ」

「どうして私が裸だと、芥お兄さんが死ぬの?」

「社会的な話をしてるんだ。ただでさえ中学生をアパートに連れ込んだ時点でマズいのに、それ以上をしてみろ。刑務所行きだ」

「そうなんだ」

「ちゃんと分かってないだろ」


 濡れた髪、湯上り、自分の服を着た異性。

 シチュエーションだけ見たら、男性の欲望てんこ盛りみたいな感じなのになぁ。

 曇天の下で見た少女は陰気な少女であったが、蛍光灯の明かりで照らされた今の姿は薄幸といった様相だ。

 気分が盛り上がる要素がない。

 単純に、可哀そうだとしか思えない。


「俺が狼だったらどうするんだ?」

「芥お兄さんは人間でしょ?」

「……俺に裸見られて恥ずかしくないのか?」

「なんで?」

「なんでって、普通は隠すもんなんだよ。胸とか股はな」

「そうなんだ、次からは気を付けるね」

「おう気を付けろ。俺とお前の間に次はないけどな」

「次はないの?」

「ないね。あ、もう足崩していいぞ」


 淡々と話す少女の表情に変化はない。

 もっとさぁ、年相応の明るさとか恥じらいとかあってほしいんだけどなぁ。

 社会的常識とかもなさそうだし、生きていくのに苦労しそうだ。

 足を崩していいと言ったのに、正座から変わらない姿勢でこちらを見上げている少女の将来を案じる。

 何をすればいいのか分からないのだろうか。

 お世辞にも、輝いているとはいえない瞳が俺を見つめている。

 俺は組んでいた足を崩して、ゲーミングチェアの上にあぐらをかいてため息をつく。

 面倒な野良を拾ってしまったものだ。

 はぁ、いつもよりだいぶ早いが、飯食って寝るか。

 寝られるかどうかは分からないが、この少女に突拍子もない行動をされるよりはいい。

 慣れない疲労のせいか、普段は静かな腹の虫が珍しく存在を主張している。

 それは少女も変わらないようだ。

 ぐぅと小さくなった音に、また大きくため息をついてしまう。


「飯は?」

「え?」

「いるか、いらないか。まぁカップラーメンしかないが」

「......いいの?」

「腹鳴ってるガキの前で、自分だけ食う気にはならねぇよ」

「でも──」

「いるか、いらないか」

「……いる」

「最初からそう言え。ガキが気を遣うな」


 世間から見たら自分も相当なガキではあるが、まぁ今は二人しかいないからいいだろう。

 カップラーメンにお湯を入れて、少女の前に置く。

 カップラーメンを食べたことがないのか、見たことがないのかは知らないが、蓋から漏れ出る匂いに鼻をぴくぴくさせながら色々な角度から眺めている。

 普段何食べてるんだこいつ。

 そう思っていると、蓋を剥がそうと少女が手を伸ばす。


「おい、三分待つんだよ」

「そうなんだ」


 とっさに止めようと握った少女の手首は、あまりに細く、あまりに抵抗がなかった。

 大きくはない自分の手のひらにすっぽりと包めるその腕に、言いようのない気持ちが湧いてくる。

 あー、触るんじゃなかった。

 見た目だけで細いと思っているのと、実感があるのとでは入れ込み方が変わってくる。

 入れ込んだところで、別れの後味が悪くなるだけなのだから知らないままの方が良かった。

 面倒はしきれない。

 野良猫の世話ですら大変なのだ。

 それが人であるならば、責任を取ることは自分には到底できない。

 通報をするだけの善性も、見捨てるだけの冷徹さもない中途半端な自分に嫌気がさす。


「……もういいぞ」

「わかった」


 割り箸を汚く割り、握りこぶしの形で箸をつかんで麺をすすっている。

 初めて食べるカップラーメンの味には満足したのか、目を見開いて一心不乱にかきこんでいる。

 ……箸の持ち方も教わっていないのか。

 ネグレクトを題材に何かを書いたことはないし、身の回りにもそういった被害にあった子どもはいなかった。

 だから、この少女がどういった境遇で育ってきたかは俺には分からない。

 理解するつもりもない。

 一晩、宿を貸すだけの関係だけだからだ。

 だから、この一晩ぐらいは向き合ってあげてもいいだろう。


「ガキ、しっかり箸を持て。学校でなんか言われないのか?」

「学校、話してくれる人あんまりいない。ミィちゃんとリンちゃんぐらい」

「おぉ、あだ名で呼び合える奴いるのか」

「周りがみんなそう呼んでるから、そう呼んだほうがいいのかなって」

「……学校の話は止めだ、深掘りするのが怖くなってきた。とりあえず、箸の持ち方教えてやるから、ちゃんと真似しろ」


 横に座り、正しい箸の持ち方の手本を見せる。

 ピンと来ていない様子なので、少女の手を取って正しい形を作らせてあげる。 

 そのまま少し練習すれば、拙いながらも二本の棒が連動してカチカチと動くようになってきた。


「次からこの形で食べろ」

「でも、食べにくいよ」

「慣れたら気にならん」

「どうして、この食べ方じゃないといけないの?」

「マナー、一般常識だからだ。人はある程度不文律に従って生きている。食事のマナー、人間関係のマナー、周りの空気、そういったものにはある程度従う必要があるんだ」

「覚えられないと、どうなるの?」

「社会から居場所がなくなる。下品なやつ、無教養のやつ、何か問題を抱えてる奴って決めつけられてな」

「それは、問題なの?」

「大問題だ。現代社会において人と関わらないで生きていくことは不可能だからな。人に馴染みやすく、好かれやすい人間であったほうが楽でいい」

「芥お兄さんも好かれようと思って生きてるの?」

「そんな真っ当な思考する人間が14歳のガキを拾って家に上げるかよ。俺は社会不適合者だ」

「じゃあ、私も社会不適合者?」

「社会不適合者をなめるなよガキ。お前の場合は環境が過酷すぎるだけだ。お前の問題じゃない」

「うーん、違いが分からないよ」

「今は分かんなくていい。大きくなったら分かる……麺伸びるからさっさと食え。あ、箸の持ち方は教えたとおりにな」 


 社会不適合者にも二種類。

 環境に問題がなかった奴と、問題があった奴。

 俺は、前者だ。

 人生において、身の回りの人間関係において困ったことはない。

 普通の両親がいて、普通の友人がいた。

 そいつらに問題はなかった。

 交友関係には恵まれている側だったと思う。

 問題があったのは、俺の方だ。

 人の生活音が、人間関係に対する気遣いが、集団に属するという気苦労が、絶え間なくストレスとして降り注いでいた。

 もちろん、そんなものはみんな持っていて、順応するように頑張って生きている。

 俺はそれに順応できなかった、我慢ができなかった。

 だから俺は、社会不適合者なのだ。

 ただ、このガキは違う。

 社会に順応するしないの前に、一番身近な社会、家庭から追い出されてしまっている。

 それは、この少女の問題ではないだろう。

 だからお前は社会不適合者ではないのだ。

 ちびちびと麺をすする少女に心の中でマウンティングする。

 お前は正常で、異常なのは俺の方だ。


「ちゃんと動かすと、指、痛いね」

「おおげさな。カップラーメンでそれなら、次郎系とか食べたら死ぬんじゃないか」

「次郎系?」

「あぁ、そりゃ知らねぇわな。今食べたカップラーメンの大きさぐらい、もやしが乗っかってるラーメンだよ」

「食べ切れるの?」

「みんな元気に完食してるよ」

「すごいね、食べてみたいな」

「今、カップラーメン食べてどれだけ腹膨れた?」 

「お腹いっぱいだよ、芥お兄さん」

「じゃあ、お前には当分無理だな」

「そうなの?」

「3倍は量あるからな」

「世の中にはすごい食べ物があるんだね」

「すごい……まぁ、すごいか……世に出てきた時、受け入れられてなかったけどなぁ……」


 少女の純粋な感想に少し口ごもる。

 次郎系ってすごい食べ物なんだろうか?

 今はもう市民権を獲得してるから何とも思わないが、出てきた時はゲテモノ扱いだったような。

 最高に中毒性のある豚の餌みたいなひどい言われようだった気がする。

 ラーメン変遷史みたいなのも仕事のネタにはなるかもなぁ。

 いや、もうあるか。

 ラーメンのようなジャンキーが多い料理はもう先駆者がいるだろう。

 カップラーメンの汁をすすりながら、仕事のネタを考える。

 まぁ、気が向いたらまとめてみよう。

 コンと机の上に空になった容器を置いて手を合わせる。


「ふぅ、ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

「なんだ、挨拶は分かるのか」

「給食の時に、皆が言うから真似してるの。使い方、合ってる?」

「……使う意味、分かってるか?」

「分かんない。皆言ってるから、言えばいいかなって」

「食材とか、生産者に対する感謝の気持ちで言うんだよ」

「でも、感謝しても本人に伝わらなければ意味はないと思うけど」

「まぁ、そりゃそうだが。伝わらなきゃ感謝しちゃいけないなんて決まりもないからな。ポーズだけでもするのがマナーってもんだ」

「うーん、私には難しいよ芥お兄さん」

「世の中にはな、意味が分からなくても形だけでもすることがたくさんあるんだ」


 天井を仰ぎ、今日何度目か分からないため息をつく。

 情操教育、食育、道徳、何もかもが同年代と比較して欠如しているだろう。

 教えるべき両親は子育てを放棄し、学校生活も順風満帆では無さそうだ。

 誰がこいつに、ちゃんとした教育をしてあげられるのだろうか。

 そもそも、学校側は気付くべきだと思うけどなぁ。

 担任は何やってんだか。

 まぁ、俺が担任なら見て見ぬふりを決め込むかも知れないから、責めはしないが。

 痩せている以外の身体的特徴があるわけではないし、口出ししにくいのだろう。

 教育現場の将来が心配だなぁ。

 と、自分にはどうしようもない問題は考えないことにして、だ。

 食事も終わった今、緊急に対処しなければならない問題が一つだけある。

 ……こいつ、どこで寝かせよう。

 空腹が紛れて満足しているのか、どこか気の抜けた表情をしている少女を見つめる。

 ベッドは一つしかない。

 来客用の毛布なんてあるわけがないし、他に変わりそうなものもない。

 カーペットの上で寝てもらおうか?

 自分だけベッドで寝ておいて、4つも年下の中学生を床に寝かせるのは抵抗がある。

 となると、ゲーミングチェアをリクライニングさせて寝るしかない。

 体はこるが、寝られなくもないといった寝心地だ。

 ベッドで寝ないと調子が狂うのだが、今日だけは仕方ないだろう。


「ガキ、布団使っていいから早く寝ろよ」

「芥お兄さんはどこで寝るの」

「椅子で寝る」

「……私なんかの為に、いいの?」

「床で寝たいってなら止めないが?」

「私はそれでも、いいよ? だっていつもそうだもん」

「……うるせぇ、黙ってベッドで寝ろ。これは家主命令だ」


 少女と話すたび、知りたくもない事実が顔をのぞかせてくる。

 同情や哀れみがムクムクと胸から湧いてくるが、表には出さずに押し留める。

 可哀想だとは思う。

 被害者であるんだろうなとも思う。

 ただ、それでも俺にとっては無関係な話だ。

 介入できる権力があるわけでもなければ、解決できるだけの金銭もない。

 今日した行動が、自分にできる最大限の行動だ。

 これ以上はもう、何もできはしないし、するつもりもない。

 少女をベッドに押し込んで、自分は椅子をリクライニングさせもたれかかる。

 電気を消す。

 真っ暗な部屋、物音一つ立たない静かな静寂が訪れた。

 これで寝て、朝になったら叩き出して終わりかな。

 あー、通報されてませんように。

 そう願っていると、ベッドで横たわっている少女のか細い声が聞こえた。


「芥お兄さん」

「んだ、ガキ」

「ありがとう。人にここまで親切にしてもらったの、初めてだから」

「大したことはしてねぇから気にするな。さっさと寝ろ」

「分かった」

「……寝る前の挨拶は分かるか?」

「え?」

「おやすみなさい、だ」

「……おやすみなさい」


 そう言ってからすぐ、スースーと小さな寝息が聞こえてきた。

 カップラーメンとココアを渡しただけで、人生で一番の親切ね。

 ずいぶんとまぁ、ハードな人生だことで。

 ま、もう俺には関係ないからな。

 明日からは、頑張って生きてくれ。

 きっと誰かが、通報するなり問題提起して助けてくれるだろうさ。

 そう思って寝転がる。


『誰も助けてやらないから、今のこのガキがいるんだろ?』


 黙れよ。

 なんの理由があって、俺がその誰かにならなきゃいけないんだ?

 心に浮かんだ、自分の声を否定する。

 今にも折れそうな手首の感触と、少しだけ怯えたように俺を見る陰気な瞳が、やけに脳裏に引っ掛かって寝つきはすこぶる悪かった。

 そんな俺の様子を気にすることなく、穏やかな寝息をたてている少女に小さく、心の中で舌打ちする。

 やっぱり、人の生活音は嫌いだ。

 

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