最低限度の生活
『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』
いつ習ったかは忘れたが、そんな憲法の一文が頭をよぎる。
健康ってどうなったら健康っていうんだ?
文化的な生き方ってなんだ?
最低限度ってどこがラインなんだ?
中学の先生は意味を深くまで教えることはしなかったし、俺も考えたことはない。
普通の学生にとって、それは単なる授業の一単語でしかないから。
憲法25条が生存権、それだけ覚えていれば意味なんか気にしなくていい。
当時の自分はそう思っていた。
いや、今も思っているか。
授業で習ったことなんて、テストの点を取るためのものでしかない。
その考え方に変わりはない。
必要だから覚えて、必要が無くなったものは忘れていく。
忘れていたその単語をたまたま思い出したのは、感傷からだろうか。
机の上に置いた、暖色のデスクライトで照らされた部屋を見る。
壁際に設置されたベッドの上には、静かに眠る春の姿がある。
背中をピッタリと壁につけ、身を隠すように毛布で体を覆い隠して寝ている。
わずかに毛布が上下していなければ、死んでいると勘違いするほど静かだ。
『年越しを、してみたい』
そんなことを言っておいて、眠気に耐えられそうになかったので布団にぶち込んでやった。
年越しをしてみたいってなんだよ。
普通に生きてたら年越すんだよ。
単純に行事を体験してみたいという話なのだろうが、言葉足らず過ぎる。
意味もなく眺めていたSNSには、人が騒いでいるだけの動画が次々に流れてくる。
あけおめだのことよろだの、年が明ける瞬間にジャンプする動画だの、もはや定型化されたネットの日常だ。
(こういうのが、やりたかったんだろうな)
一年に一回しか使わない挨拶だとか、たき火で照らされた神社だとか、その瞬間にしか味わえないものを体験したいのだろう。
スマートフォンを机に放り投げてデスクライトを消す。
バカらしい。
春の考えに、そう思ったわけではない。
14歳にもなって、そういうことを経験したことのない事実にそう思っただけだ。
世界には注目を集めるためだけに、しょうもない投稿をしている奴だっているのに。
世の中、理不尽と不平等ばかりだ。
慣れつつあるゲーミングチェアの硬さを背中に感じながら、何も見えない天井を見つめる。
(まぁ、下と比べたら春ですらマシなほうなんだろうなぁ)
家があって、学校に通えて、お金ももらえる。
それだけ聞くと、最低限度の生活を送っているように聞こえてくるな。
健康で文化的かどうかは、甚だ疑問ではあるが。
耳を澄ます。
静寂の中、弱々しい呼吸音がかすかに聞こえる。
希薄な存在感は、生まれ持ったものか、環境に合わせて身に着けたものか。
バカらしい。
今度は、自分にそう言い放って思考を放棄する。
俺が考えたところでなにか変わるわけでもあるまいし、過去を気にするだけ無駄だ。
『楽しいね』
春のほほ笑みが脳裏によぎって、意識は闇に飲み込まれていった。
——————
「あけましておめでとうございます」
「あけまして、おめでとうございます」
「......学校では年末年始の挨拶、どうしてたんだ?」
「私、学校であんまり話しかけられないから」
「あぁ、そう」
硬い椅子では熟睡などできず、早々に起きてパソコンで作業をしていると春が起きてくる。
買ってやったパーカーがよれていて、あまり新年らしくない雰囲気である。
流石に靴下は履いていないが、外行きの服装でベッドに入られるのはストレスである。
毎回毎回布団を干していたらキリがないし、パジャマでも買い与えようか。
それならば、体をキレイにした状態のほうがいいし、春用の風呂用品も買うべきか。
……いかん、完全に春を泊める前提で考えていた。
家族の生活音すらストレスであったのに、毎日泊まられるなど冗談ではない。
大きくため息をつく。
「芥お兄さんは、いつもため息をついてるね」
「誰のせいだと思ってるんだよ、ガキ」
「私のせい?」
「......半ばそう」
「もう半分は?」
「お前の親」
「えーと、ごめんなさい?」
「お前のせいだけど、お前の責任ではないから謝るな」
「日本語って難しいね......」
頭を捻っている春を、改めて見る。
青白い肌に、寝起きでボサボサの髪は首辺りでうねっている。
あまりにも美容とはかけ離れた生活スタイルに、少しばかり疑問を持つ。
本人がオシャレに興味がなく、見た目にこだわらない道を歩くなら特に口出しはしない。
が、選んだ道と、それしか知らない道では話が変わってくるだろう。
必要最低限の知識と選択肢は教えてあげるべきと、心の良心が告げている。
……もういっそ、きっぱりと全部決めてしまおう。
「新年にちなんで、我が家の使用ルールを決めます」
「ルール?」
「自分のことは自分ですること、清潔に保つこと、以上」
「......結局、私はどうすればいいの?」
「道具とか全部買ってやるから、全部自分でやれ。使ったものは片づける、汚したものはキレイにする、泊まるときは体をキレイにする。分かるな?」
話しながら、スマートフォンでネットバンクの口座を開く。
無駄遣いできるほどの余裕はないが、心の平穏を保つためならまぁ許せるぐらいの貯蓄はある。
生活用品やらパジャマやら下着やら自分用の寝袋やら、グルグルと計算をする。
レシート持たせたら両親が金出してくんねぇかな。
......いや、流石に関わりたくないな。
金出すほうがまだいいわ。
頭の中で一人で喋りながら、買うものをリストアップしていく。
「......で?」
「あ?」
「なんで?」
「なんでって、なにが?」
「なんで、芥お兄さんは私に優しくしてくれるの? 私、なんにもお礼できないよ?」
『お礼、できないから、もらえない』
『お兄さんだけだったから、声かけてくれたの』
昔の春の言葉を思い出す。
雪に降られていたあの日より多少は血色がよくなった顔は、変わらず暗い表情であった。
声色はあの時よりもか細いかもしれない。
捨てられることへの恐怖だろうか?
買ってやると言っているのだから、素直に厚意に甘えればいいものを。
……いや、甘え方を知らないのか。
自分の頭をガシガシと掻いてから、硬く握りこまれているであろう春の手を服の上から触る。
あまり自分から触りたくはないが、言葉だけよりも温もりもあった方が伝わるであろう。
「責任と、権利だからだ」
「責任? 権利?」
「俺の責任と、子どもの権利だ。義務教育受けてるガキは面倒見てもらうのが普通なんだよ」
「芥お兄さんに、なんで責任があるの?」
「……まぁ、それはいいよどうでも」
野良に餌をあげた責任、なんて言っても理解はできないだろう。
そもそも、児童虐待には通報の義務があるのだから責任以前の問題なのだが、それは考えないことにする。
一度うちで面倒を見た以上、無責任にリリースはできない。
一晩泊めただけで済んだのなら、そこまで責任を負う必要はない。
ただもう、その段階は過ぎてしまった。
来てもいいと言ってしまったのだ。
発言と行動に、責任が伴うのは当然のことだ。
社会不適合者にも二種類。
責任を見て見ぬ振りできる奴とできない奴。
俺は後者だ。
今さら春を見捨てても、寝覚めが悪い。
「なんだ、俺といるのつまらなくなってきたか?」
「そんなことないよ!」
「じゃあいいだろ。年取るとつまらないことばっかり増えるからな、今のうちに楽しんどけ」
少しだけ見つめあう。
春の目に写る自分は、ちゃんとした大人に見えているだろうか。
もぞもぞと服がうごめいて、袖の中から春の手がそっと出てくる。
同年代と比べても、細く小さい手が俺の手を握る。
あまり温かいとは言えない手だ、血行が悪いのだろう。
こわばっていた表情が、だんだんと明るくなっていく。
「……温かいね、芥お兄さんは」
「あまりベタベタ触るな」
「芥お兄さんから触ってくれたのに?」
「お前がしけたツラするからだろうが」
「しけたツラしてたら、触ってくれるの?」
「触らん、次はない」
「えへへ、そっか」
次はないと言っているのに、どうして笑っているのだろうか。
無邪気なその顔は、笑っているといつもより幼く見える。
本来は、こんな明るい顔をする子どもになるはずだったんだろうなぁ。
いつまでも握られている手を振りほどくことはせず、ただただ春を眺めていた。
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