ざまぁが好きで何が悪いの?
サメ映画界隈に詳しくないがあれらの作品群を見て、海洋生物の危険性、人間という種の傲慢さ、自然との共存を本気で考える人は少ないと思う。
自分にとっては、『ざまぁ』もそんな類のものだ。
だからざまぁ作品に対して「罪と罰とは」「過剰制裁は許されるのか」「死刑制度の是非について」や安易な残酷描写と世の中の不寛容を嘆く勢には、どうかと思ってしまう。
「あれ、今ってそんな話してたっけ?」と感じる。
むしろドキュメンタリー作品や日々のニュースの方が、よほど残酷で無慈悲で理解不能ではないだろうか。
かといって実際にざまぁを書こうとすると、なかなか難しい。
サメだって本気でやらにゃあならん。
B級映画より予算も手間もかかってない素人作品だって、ガチで書いてるんだよ。陳腐でもチープでも何でもいい。ガチで書きたいんだ。
『こうあってしかるべき』という科学的な正しさや政治的な正しさ、法解釈的な正しさはある程度スルーしていいが、ご都合主義を追求するからって、婚約破棄王子やヒドインがあまりにバカ過ぎてはお話しにならん。
特定の感想が絶対とは思わないが、この辺のバランスがあまりに読者とすれ離れないようにもしたい。
いっそすれ違うのならば、有無を言わせない独善的な説得力を叩きつけるような描写力が欲しい。
物語を上手く畳むのは本当に難しいが、羊頭狗肉では読者も途中離脱してしまうし、自分でもやりきれなかったモヤモヤで悔しい思いをしたくない。
主人公である悪役令嬢が善良な正義である方が共感はされやすいが、全部全部を救済イケメン任せの無垢で無邪気な存在にしてしまうのも危険だ。
核の発射ボタンで、大統領のカワイイペットのお猿が遊んでいるような気分になってしまう。
ビーチに直ちに影響はないタイプの御都合主義の核を落としては、凶悪サメを倒すの繰り返す世界って、何というか救いようがないよね……。
恋のスパイス程度の、勧善懲悪や正論論破、スカッとざまぁでも、この愛は確実に世界を混沌の渦に叩き落す系だね。
こまけぇことはいいから、面白いもんが読みたいし書きたい。