信頼と信用を勝ち取る私
学校生活でいえば、部活も同様だ。
数ある中から興味を持てたから選んだ部活だ。練習は苦にならない。
私が選んだブラスバンド部は意外と体育会系だが、むしろ上下も横も、人間関係を構築するのは楽しい。
そりゃあ思春期の人間同士、集まれば諍いのひとつやふたつ、何なら十も二十もあるだろうけど、それも含めて人間関係を解きほぐし、バランスを取り、構築するのは楽しかった。
みんな、やるからには成果が出た方が良いし、仲が良い方が良いし、怒っているより笑っている方が楽しいのは当たり前。
その感覚さえ持ち合わせているなら、みんなが同じ方向を向く、または向かせることは、さほど難しくは無い。
この辺りの技術が私は高いのか、自ずと部活の部長のほか、クラスの級長、学校の生徒会長などに選ばれるようになっていく。
そういう看板が好きな母はこれまた喜び、私を褒め称え、母の持つコミュニティで自慢して回る。
認められた私は悪い気はしない、もっとがんばろうと良い循環は回転を増すのだ。
母が私を認めることで得られるベネフィットがもうひとつある。
母の価値観から外れるような動きを取らない限り、認められている私はかなり早い段階から、ある意味での自由を手に入れていた。
やることなすこと母の希望に沿い、何なら超えているのだから、母としては余計なことを言う必要が無い。管理する必要が無い。すべてに於いて信用されていた。
信用するという行為は、思考を放棄しているとも言える。多少放任の気のある父も大同小異だ。
私の為すことならなんでも、手離しで認めてくれる。楽なものだった。
勿論私自身、母が厭うような行為を好んでいるわけではないから、ここでもやはり無理はせずとも得られた信用と自由だった。