Vou fostejar (LINK:primeira desejo 125)
一曲目が終わると、弦楽器は演奏を継続したまま二曲目のVou fostejarに入る。
Samba De Arerêが迫力ある曲の構成と、鬼気迫る煽るような歌声で観客を急き立て惹き付けるものだとすると、Vou fostejarは歌い出しは迫力を感じるが、以降はカラッとした歌声とスピード感で観客をノセる曲だ。
ルカは既に完全にHIPHOPのダンスを踊っているし、しいはロックフェスのようなノリ方をしている。みやは楽器をでたらめに叩いていて、音量は騒音レベルにまで至りそうだ。
三人はだれもサンバをやっていない。それでも、周りのブラジレイラたちは、一緒になって踊ってくれたり、歌い楽器を鳴らしたりしてくれている。そこには、「サンバとは」とか、「サンバはこうあるべき」と言った観念のない、自由な楽しみ方を許容するこのお祭りの在り方が見て取れた。
サンバの様式を守り、サンバの神髄を繋いでいく文化の継承も大事だが、自由に楽しめる環境をつくり、興味を持つひと、場に参加する人を増やす裾野を広げるというやりかたも重要だと思った。
「Eu vou festejar! O teu sofrer! O teu penar!」
カントーラが一語一語を区切って強調するように歌う。
弦楽器の奏者が「ヘイ! ヘイ!」と煽ると、観客も一緒になって、同じタイミングで手を打ったり、「ヘイ!」と叫んだりしている。
Vou fostejarはパゴーヂで歌われる曲としても代表的な楽曲だ。
歌いやすく、踊りやすく、盛り上がりやすい。
サビあたりは明るく歌い上げ、楽しい雰囲気になる曲だが、「お祝いしよう」といった意味のタイトルとは裏腹に、実はその歌詞は感情的な恨み節とも言える内容だ。
サンバは明るい曲、格好良い曲、ムーディーに聴かせる曲が多い一方、その歌詞は暗かったり後ろ向きだったりするものも多い。
抑圧された奴隷や労働者によって起こった文化だ。
施政者や体制に対する怒り、生活に対する不満が歌になりやすいのはわかる。
それでも、ロックのような攻撃的な怒り。J-POPのような辛い状況にあっても立ち上がれるような前向きなメッセージや、後ろ向きでも内省的な歌詞。など他ジャンルと較べると、なんと言えば良いのだろう、カラッとした陽気なものとは逆な、陰湿で器の小ささがそのまま出てしまっているような歌詞が散見する。
国民性の違い、文化の違い、価値観の違いかもしれない。
ある意味等身大で、綺麗事ではない歌詞は、カリスマや代弁者が言っていたら幻滅するかもしれない。でも、立派な偉人などではない、何者でもない庶民としては、愚痴のような、恨み節のような歌を、肩肘張らずに歌いたいのだろうと思った。
憧れの誰かが歌う正しい歌を聴きたい、のではなく。
どこかの自分と同じような一市民の歌を、同じく一市民である自分も歌いたい歌、なのではないだろうか。
大声で、叫ぶように歌っている観客たち。
歌詞もわからないだろうに、がんちゃんの同級生たち三人もなにか絶叫している。
「私はあなたの苦しみや悩みを祝う」
理由もなく「私」と争ったあなた。あなたは裏切りで報いたのだから、自業自得なのだ。と言った内容の歌詞を、みんなが笑顔で軽やかに歌い上げているのだ。
たった二曲だが、演者側よりも疲労困憊で魂が抜けたようながんちゃんの同級生三人を見ていると、演奏は成功したのだと思えた。
少なくとも、二曲で体力を使い切るくらい盛り上がってくれたのだということだ。
もちろん、身内の応援と言う側面もあろうから自惚れるわけにはいかないが、初披露としてはまずまずの成果ではないだろうか。