水素パイ前日譚
NIT CIA。
間抜けな中央情報局である。
……と言うのは勿論嘘で現在、この俺、高木凛太郎が所属する日本工業大学コミックイラスト研究部という大学サークルのことである。
その歴史は古く、部室を漁れば余裕で数十年前の同人誌が出てくるようなある意味由緒正しきサークルでもあるのだ。
そんな、伝統あるサークルの部室に今日も暇を持て余した部員たちが集まっていく。
部室の扉を開くとそこには既に一人の先客がいた。
「お疲れ様です」
「おー、高木くんお疲れ」
パソコンに向かったままの状態で先輩がこちらを見ずに挨拶を返す。
「部長、少しは片付けません?」
それは、俺は足の踏み場が狭くなり始めた部室を見て何となくそう提案してみた。
「おー、じゃあ代わりにやっといて」
「いや俺もそうしよう思ったんですけど下手に物を移動させると部長、怒るじゃないですか」
荷物をロフトの下に放り込みながらそう言うと、
「いや、確かに備品の位置を変えられたら何処にあるのか分からなくなるからやめて欲しいよ?けど、各自が持ってきたゴミや使い終わった備品を片付ける分には何も言わねえから」
と、部長を使って言い訳をしようとする俺に対してそう反論する。
「じゃあ、聞きますけどその冷蔵庫に入ってる物の何割が部長の私物ですか?」
俺は扉のすぐ隣にある冷蔵庫を指差していった。
「……まぁ、五割は超えてない。」
「逆に言えば五割近くあるって事じゃ無いですか」
俺が呆れて言うと、
「分かったよ、やるやる」
そう言いながら部長は冷蔵庫を整理しはじめた。
「とまぁ、冷蔵庫の中身は取り敢えず全部出したけど、処分するかどうかは取り敢えず賞味期限が切れてるからどうかで決めるか」
そんな感じで取り敢えずの方針を決めたのだが、
「何でこんな古いやつがまだあるんですか?」
それは未開封だが賞味期限の数字が三年前の日付が記されているペットボトルだった。
「まぁ、当時の部員が仕舞うだけ仕舞って処分するのを忘れたんだろうな」
「リスじゃないんですから……」
呆れながらも二人は作業を続行し、終わる頃には冷蔵庫の中はだいぶスッキリしていた。
「さて、次は賞味期限切れのやつでも使えそうなものと即ゴミ箱行きのものを選別しましょうか」
これは割と有名な話だが賞味期限切れと言うのはあくまで美味しく食べられる事を保証する期間のことであり、過ぎれば食べられなくなると言う訳では無い。例えば卵の賞味期限は大抵一週間前後とされているが、実際には一ヶ月程度かつ、しっかりと火を通せば問題なく食べる事ができる。
「とはいえ、大半がゴミ箱行きだろうけどな」
そう言いながらも作業を始めて数分後
「これは……小麦粉?」
「あぁ、去年の夏祭りで使わずに残ったやつだな」
言われてみてみると賞味期限は約3ヶ月前の日付が記されていた。
「賞味期限は………微妙ですね。」
「けどまぁ、あくまで賞味期限だしな、幸いな事に未開封だし、さっさと何かで使っちまおう」
そう言って部長は手に持っていた小麦粉を脇に置き直した。
その置かれた小麦粉を見て俺はとあることを思いつく。
「ねぇ部長、パイ投げやりたくありません?」
そのふとした思い付きを俺は部長に提案してみることにした。
「唐突だな。で、パイ投げ?って言うとあのバラエティ番組とかの?」
「そうです。丁度材料はこの小麦粉がありますし資料用も兼ねてやってみたいなって」
「あー、まぁ面白そうだし良いんじゃない?もし、撮影するんならそれを良い感じに編集して発表するってのも面白そうだし」
「あー、良いですね」
だいぶ突然な提案に部長はノリノリで賛同してくる。
「で、今パッと思いついたのがあって、パイ投げに合わせて水素の音を流すのはどうよ?」
水素の音と言うとネットで有名なあの動画の事だろう。
「所謂、音MADってやつですか?」
「そうそう、簡単に想像図を描くなら……」
そう言いながらコピー用紙に鉛筆でイラストを描いていく。そして、書き始めてから数分後には白黒のラフではあるものの、誰が見てもパイ投げをしているとわかるようなイラストが完成していた。
こういうところを見ていると腐ってもイラスト研部長なのだと思わされる。
「こんな感じでどうよ?」
そのラフには文字や矢印を使って色々と説明が付けられており、完成形がある程度分かるようになっていた。
「成程、『せーのっ』て掛け声のすぐ後にパイを投げて、水素の『プシュッ』って音と同時に顔面にぶつけるって感じですか……」
「そんな感じ。で、その後に水素の音〜って続くのをイメージしてる」
「でもこれなら、ぶつけられる側は女の方が良くないですか?」
『せーのっ』ってセリフを受ける側が言うのは変な気がするし、なら、逆説的に『うん見たーい』何かのセリフは受けて側が言うことになる。
無論、男でやってもいいのだが、どうせやるなら本気でやって本気で拘りたい。それ俺と部長の出した総意であった。
「あーまぁ、そうね……こういうのを引き受けてくれそうな女子……あっ!一人心当たりあるわ」
「本当ですか?」
「ああ、交渉する上でもいくつか考えがあるしな。任せとけ」
こうして、役者探し&交渉は部長に委ねられることになった。
■■■
「……と言う訳でシノっち、「やってくれませんか!?」」
「お前ら阿保なの?あと、シノっちって呼ぶな」
呆れ顔でこちらを見ながらそう言うシノっちこと篠原さんは現在二年生であり、部長の一個下、俺の一個上の先輩である。そして今、俺たちは彼女に協力してくれるようお願いしていた。
「じゃあ、シノっちさん。お願いします!やらせてください!」
「嫌だよ。あと私のことは普通に呼べ……つか、異性に向かって『やらせて』なんて言うのもどうなんだ?」
「分かった、この手はなるべく使いたくなかったんだけどな、最終手段だ……いくら払えばヤらせて貰える?」
「寄せてくんな寄せてくんな」
「別にいいだろ?減るもんじゃねぇんだしさぁ」
「そろそろマジでキレるぞ?最悪セクハラで訴える」
「許してもらえませんか!?」
割とガチトーンで言われ、瞬時に頭を下げ謝罪をする部長。モラル意識万歳。
しかし、部長が先輩を愛称呼びしてた事といい、先輩が部長からのセクハラを難なくあしらっていた事といい、ひょっとして二人は元々………いや、どうでもいいな。俺には関係のない事であるのに加え、何よりもこれは下衆の勘繰りに他ならない。何も聞かないのが正解だろう。
「はぁ……ってか何で私な訳?」
「いや、まぁ、真面目な話をするとあの余った材料たちを処分し忘れたのはお前な訳じゃん?だから、尻拭い的な事もふくめて引き受けてくれねぇかなーって」
「いや……普通に嫌なんですけど。ってか普通に処分しろよ。何でそんなトリッキーな処分方法出してくんだよ。私にメリットないだろ!」
「いやぁ……それは……」
篠原先輩に本気で面倒臭そうな顔をされ部長が若干たじろぐ。今回の交渉については基本的にノータッチで部長に任せようと考えていたのだが仕方ない。どうやら一か八かで助け舟を出す他ないらしい。まぁ、勝率はあまり期待できないだろうが、やらずに後悔するよりかはマシだろう。
「否!ありますありますありますとも。あっ、ここからは部長に変わりまして、今回の件の言い出しっぺであるこの高木が説明いたしましょう。」
俺は少し胡散臭いセールスマンのような口調と声のトーンで話し始めた……まぁ、意味があるのかは知らないが、まぁ何か効果はあるんだろうプロが使ってるくらいだし。まぁ、仮になくてもプラシーボ効果くらいは期待できるだろう。
「何その喋り方?」
彼女はいきなり変な口調で話し始めた俺に戸惑い半分疑問半分といった感じだ
「まぁまぁ、取り敢えず聞いてください。篠原先輩。まず質問させて貰いますが何故、人はバンジージャンプをするのか、何故人は最高峰に登りたがるのか、考えた事はありますか?」
「え?あー……そこに山があったから?」
篠原先輩は半分興味なさげに答えるが、俺は構わず早口のまま捲し立てる。
「その通り、しかし、正確にはそこに山があり、かつ、今後その山に登る行為というのが希少な体験であろう事が予想できるからと言うのが正しいでしょう。今の世は評価経済社会。この時代、希少な体験と言うのは物に変える前のお金に相当する価値があると言われている。その点から見れば、現在、小麦粉を筆頭に食料価格が上がり続け昆虫食すら検討されており、数年後にはパイ投げなんて言語道断と言われるようになるかもしれない。また、数年後学生でなくなればパイ投げなんて悪ふざけもできなくなってしまうことは想像に難くありません。以上の事を鑑みるにパイ投げが希少な体験である事は理解してもらえたと思います。さらにさらにメリットをあげますと、今やっておけば、今後社会に出たときに学生時代の思い出話の種になるかもしれない。テレビか何かでパイ投げが行われていたら「これやった事あるんだ」と自慢げに話す事だって可能になる。何なら私がやってもいいが、残念!今回のこれは資料集めも兼ねているため撮影者でなければなりません。しかし篠原先輩なら、なんと今ならそんな経験をタダで得ることが出来るんですよ!如何ですか?………」
■■■
「………はぁ、なんか高木君って価値のない物をさも価値があるかの様に話すの得意だよな」
まあ、十中八九リップサービスだろうが素直に受け取っておくとしよう。
「俺の事は名誉ユダヤ人と呼んでください」
「うん、ユダヤ人に札束で殴られて死ね」
「意味わかんねーし、難易度高くね?」
我慢しきれなかったらしく、部長が思わずそう突っ込む。
「まぁ、いいや。その熱意に免じて今回は引き受けてあげる」
「チョッロいなー」
「なんかいった?」
部長がボソッといった言葉に耳聡く反応する。
「いーや、頼んでも基本断らない優しい人だなぁっていっただけだよ」
「文字数からしてだいぶ違う気がするんだけど……」
俺もぶっちゃけ似たような意味だろとは思ったがそれを口に出すと俺まで睨まれそうなので黙っておく」
「まぁ、お前はそんな性格なんだし、安い男に引っかからないよう気を付けろよ」
「お前…どの口が……」
篠原先輩は呆れも通り越した諦めの表情でそう言った。
しかし、先ほどの会話からして俺の〝勘ぐり〟はそう外れていなかったらしい。
ならば、最初の予定通り止めを刺すのは部長の方が良さそうだな。そう考え、俺は以降、黙っておくことにした。
「……え?で、本当に引き受けてくれんの?」
「……まぁ、私が材料の処分を忘れてたのも事実だし、ね。」
部長のそんな問に対して篠原先輩は若干困った顔をしながらもそういった。
こうして計画は立てられ、今度の土曜日に決行する事が決定したのだった。
前日譚としては、ここで終わりです。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
↓アニメURL
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