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先生あのね  作者: 速水詩穂
39/43

36、3月31日(水)志堂槙

 




 見つけた。背を向けたその肩を捕まえる。

 驚いて首をすくめた真梨は、反射的に身体を引こうとするが、それには及ばなかった。

 そのまま外に連れ出す。

 関西国際空港第二ターミナル出口。

 何とか突っ込んだ駐車場に向かいながら、車を解錠すると、女性を助手席に押し込む。

「やめて」

 腰を下ろした状態でばたつかせる足。それをムリヤリ押し込んで閉める。窓越しに歯を食いしばって見上げる目と目が合った。

貴女あなたにまだ確認しなければならない事があります」

「あたしにはない」

 その足が容赦なく戸を内側から蹴る。

「随分冷たいことをおっしゃる」

 志堂は外側から押さえたまま、窓に顔を近づけた。

「父に会いました。その事だけでも聞いていただけませんか?」

 その目が見開かれる。固まった表情に、良い類いの感情は読み取れない。けれども。

 ピタリと戸を蹴る足の動きが止まる。再び動き出す様子がないのを確認すると、運転席に乗り込む。

 その後、車を発進させると、真梨は冷たい窓に側頭部をつけたまま、ボウッと一点を見つめていた。観念したようだった。


「先に逃げ道を塞いでおきましょう」

 ウインカーを出して右折、コの字型に迂回すると、空港連絡橋を走る。

 綱渡り。君はどれだけの孤独な道を歩んできたのだろう。

〈『・・・・・・。・・・・・・二度と戻って来ないで』そう言われたことがあります〉

 ちょっとした手違い一つで、危うい均衡一つ崩れるだけで、たやすく踏み外せる道。

「これで終わったと、解放されると思わないで下さい」

 返事はない。ただ昏い目で一点を見つめているのみ。元々乏しい表情が、今はもう蝋人形そのもの。

「これでもう死んでも赦されるだなんて、絶対に思わないで下さい。それは」

 僕が赦さない。そう言うと、初めて真梨の目が運転席を向いた。

「何を・・・・・・」

「生きるに値しないと思ったら、その時僕がぶち殺してあげます。だからそれまでは何があっても生きること。いいですね」

 そう言うと、志堂は水辺の道を北上する。時刻は十六時四十分。

 ここから大学まで一時間以上かかる。話をするには丁度良かった。


「ナツと話しました。父に会ったその晩に」

 その肩がピクリと強張る。真梨は志堂の横顔から目を外さない。

 それは警戒。自分にとって脅威と感じた相手の一挙一動を監視する行為。

「貴女はナツを知っていましたね。当然ナツも貴女の事を知っているかと思ったが、そうではなかった。知らなかったが、分かった。珍しい名字。多須真梨。貴女は」

 多須梨沙さんのお姉さんですね?

 多須真梨の母親違いの妹、多須梨沙。当時高校生だった梨沙は、優秀な姉、真梨への劣等感をこじらせて、その時付き合っていた男との間に子をなした。その相手は「とある大学病院のてっぺんの人を親に持つ」一人息子で、結果的に金銭で全てを解決した。元々多須家は生活に困窮していた訳ではなかったが、突如真梨が姿を消したことによって、捜索にかける出費が長い年月をかけて家計を圧迫していた。その末、双方の両親が決めたことだった。

 志堂の問いかけた先、既に真梨は震えていた。その歯の根がかみ合わない。かすれた声で「あ」とだけ言うと、あとはヒューヒュー息を漏らすだけ。

「直接ナツは関係ない。でもナツは大事にしてる。多須梨沙さんは『大切な人(ゆうじん)が大切にしている人』だから」

「お願い言わないで!」

 自分(いのち)を守るために呼吸活動に終始していたその身体が覚醒する。金切り声。真梨は度を失っていた。

「お願い。梨沙は私がまだ生きているのを知らない。知らなくていいの。アスカくんは・・・・・・」

「ナツは言わないよ。君がこうして自ら接触(こんたくと)を望まない以上、この事は鮫島くんにも辿り着かない」

 鼓膜を突き破るような騒音の後、訪れた静寂は灰色。

 降り続く雨は既に惰性。一定の間隔を開けて動く水切りだけが、安定した音を供給し続ける。

 雨の日の夜は早い。対向車の明かりが目を突く。それは身体を起こして訴えた真梨の頬も照らした。赤い目元、感情が激しく揺れ動いた跡。

「・・・・・・楽にして下さい。到着までまだ一時間以上ある。僕が話したいと言ったのは、何も君の過去の事じゃあない。久しぶりに会った父の事です」

 真梨は少しの間固まっていたが、その後崩れ落ちるように背もたれに身体を沈めた。放心状態だった。

 構わない。彼女にとって大事なのは「僕が父に会った」という事実であって、それ以上は聞こうが聞かまいが。ただ、僕自身が言語化を望んだだけ。そんな自己満足。それでも。

 願わくは君のどこかに残るよう。


「・・・・・・。・・・・・・ずっと怖かったんです。今さら車椅子になった所で、障害者であることに変わりはない。けれども、僕は父の背中が好きだった。背が高くて、足の代わりに肩を使うものだから、競泳の選手みたいな体型をしていて。だからそんな父を見下ろさなければいけないことが、どうしても受け入れられなかった。

『誰かの介助を受けるのを前提とした、把手がついた椅子』がなければ生活できない事を、そんな現実をどうしても。僕は」

 父を尊敬している。誰よりも。そう言う声がかすれた。

 記憶の中で錆び付いた、古い宝箱の鍵を開けた気がした。

 しまい込んでいた物を掘り起こしただけで、鍵なんてあってないようなもの。開けた中から出てきたのは、家族で撮った一枚の写真。

 まだ父と距離を置いていない頃、無理を言って肩車をしてもらった。困ったような笑い方をする母と、誇らしげな父と、もっと誇らしげな自分。ただの幸せな家族の姿がそこにあった。

 二度と肩車をしてもらえない。いい大人が、そんな現実を受け入れられずにいた。

「でも、会えた・・・・・・?」

 真梨の視線を感じる。

 人は自分より危うい者を、自分が危うい時でも見逃せないように出来ている。

 手を取り合って生きる。それは人としての本能なのかもしれない。その声には確かな温度が伴っていた。

 志堂は一つうなずくと「ああ」と言った。

「・・・・・・。・・・・・・驚いた。ずっと見上げることが尊敬することだと思っていた。けれど違った。母に押されて現れた父は、尊いからこそその高さだった」

 雨音がやさしい。ちゃんと志堂の声が届くだけの音量で相槌を打ち続ける。

「王様は何をしたって王様だ。僕を前に、わざわざ立ち上がって挨拶するまでもない。ただそれだけだった。ちゃんと父は父だった」

 それは変わらず尊敬し続ける母の影響も大きかった。母は今でも変わらず父に仕えていた。

「・・・・・・前に尊敬する事について言っていた事がありますよね」

 真梨は前を向くと静かに続ける。雨はそれをちゃんとよける。

「『ナツに尊敬されたままでいたい』『ナツは周りからたくさんの期待を押しつけられて、いつも窮屈な思いをしていたはずなんだ。だから僕がナツの荷物を持つ』って」

 それを思い出しました。と言うと、再び押し黙る。

 充分だった。

「今度は僕が、父の荷物を持つ。持たせてもらう。その方法はただ金銭のやりとりだけじゃない。息子が偉業を成し遂げることも一つだ」

 息を吸い込む。胸一杯に満ちる思い。自分が自分だけで成り立つ生き物でなくなる。

「父を、害じゃなくす。障害者、ではなく、親子二代に渡って宇宙飛行士になった唯一として、誇る」

 辿る。真梨は自分が発した言葉を志堂の中に見出す。

 揺れる。

「・・・・・・帰省した時、母から僕が今まで送金したものを全て返すと言われてね。

『こんなものいらないから、自分の幸せを考えろ』と。大方、早い所身を固めろという意味で言ったのだろうけれど、実際僕が返されたのは時間だ。自由時間を返された。この金が尽きるまで、僕は自由だ。破滅するまで好きに生きて(あそんで)やる。本気を見せてやる」

 結局ものの見方一つで、何だって自己満足。けれどもそれは。

「・・・・・・そうして自分の向かいたい方向に舵を切る事が出来ました。結果如何じゃない」

 それが出来たのは。

「・・・・・・。・・・・・・好きな作家がいましてね、その人を介して一部歴史上の人物に明るくなりました。その先につながる多くの喜びを知れた所で、その恩恵は全てその作家に帰属します」

 料金所を通ると、ようやく信号で止まる。ようやくその顔が見られる。

「感謝します。ここに辿り着けたのは、貴女のおかげです」

 真梨は複雑な表情をした。

 自分は幸せを感じてはいけない。そんな自罰が透けて見えるようだった。


「もう一度聞いてもいいですか?」

 返答なしは是と見なす。

「『私にはもう時間が無い』あれはどういう意味ですか?」

 返答無し。構わなかった。

 実際の所、その答えが「卒業までに」だろうと「死ぬまでに」だろうと。

 ただ伝えたかったのは。

「知りたいから聞いているんです」

 それだけだった。

 真梨は外を向いたまま。足を奪われたまま、身の振り方が分からない。

 徐々に彼岸が見えてくる。想い合っている男女以外、異性をいつまでも拘束しておく事は出来ない。

 緩やかな曲線。信号で止まると、志堂は再び口を開いた。

「聞いたんです僕に『恋は罪悪だと思うか?』と」

 ナツが、と言うと、一拍おいて真梨は目を寄越した。ナツ、という単語に反応していた。

「・・・・・・。・・・・・・それって」

「・・・・・・そうです。夏目漱石の『こころ』ご存じの通り、作中では主人公とその親友が一人の女性に恋をして思い悩む姿が描写されています」

 ゆっくりハンドルを切る。後はもう、起伏の激しい道をまっすぐ進むだけだ。

「親友役がどなたかは知りません。でももし仮にそれが貴女にとっての大切な人だとしたら、もう彼は前を向いている。その結果が望む通りではなかったとしても、貴女が恐れるような不安に立ち止まっている訳じゃあない。この事自体、楽観的ではありますが、可能性がゼロとも言えない事です。妹さんだって同じだ」

「・・・・・・」

「一つだけ、聞いてもいいですか?」

「もういろいろ聞かれてますけど」

 返答あり、は、則ち是。

「『一つだけ願いを叶えられるとしたら』貴女は何を変えたかった?」

 ため息。何かがほどける。彼女の中で幸せを感じることは赦されなくても、それ以外は赦されているようだ。

「・・・・・・。・・・・・・夜のバイトに手を出さなければ良かった。ウチ、別に生活困ってる訳じゃないけど、下に二人妹いるから、自分の生活くらい自分でできればって」

「そこで、事件に巻き込まれた」

「そうね。そのせいでたくさんのものを失ったわ。自分だけならまだしも、妹まで」

 直接的に妹さんのお腹に宿った命に関係はない。それでも本人がそう思い込んでいる以上、その罪悪感は消えることはないのだろう。だったら。

「抱えたままでいい。抱えたままでも、前を向くことは出来る。誰も貴女を責めやしない。それでも全てを疑うなら、拒絶するなら、僕だけは君を肯定しよう」

 最後の信号が青に変わる。

 静寂。雨はもう止んでいた。

「全てが全て悪い方に働く訳じゃない。もし僕が本当に夢を叶えて、それが君のおかげと知れたら、君を肯定できる唯一になれる。だからその時は、傍にいてくれ」

 それは、限りなく独り善がりな、とても三十間近の大人の言動ではない。

「約束だ。いいか、この約束がある限り君は死ねない。さっきも言ったが、それは僕が赦さない」

 その後返ったのは、自責、自罰の念がつくる無表情の拒絶、ではなかった。

 真梨は寂しげに微笑むと、窓に側頭部をもたせかけた。


 大学構内の駐車場に辿り着く。時刻は十八時三十分。淡い灰色だった景色は、単純に黒の割合を増やすだけで今の色に落ち着いていた。エンジンを切ると、耳を洗うような葉の音がした。リセット。振り出しに戻る。

「・・・・・・センセーあたし、ホントは大学生じゃないんだよねー」

 街灯は白。高い位置から真下に落とす光、その端くれが届いて照らす。

 黒で統一された洋装。その正体は喪服。じゃあ夏でも常に身につけていた、その手袋の正体は。

「本当はもうとっくに社会人なの。在籍はしてる。でも高校からストレートで入った訳じゃない。だから」

「知ってる」

 遮る。薄々気づいていた事だった。

「とっくに分かってる。君の話は一年二年じゃおさまらないだけの情報量を孕んでいるし、まだ在学中の君が、普通先輩に当たるナツを「子」呼ばわりしたりなんかしない。

 それに、初めて君を見た時、感じた違和感があった。その睫毛。話し方もそうだが、無意識にナツを連想したんだ。そうやって本来の自分を隠す事で守っている何かがあるんじゃないか、と。」

 目を合わせない。その後ろめたさが少しでも薄まるよう、言葉を続ける。

「でもよかった。もし仮に本名まで隠されていたら、どうあっても辿り着けなかった。明らかなもの以外わざわざ偽名を疑わないしね。一方それは、名前さえあれば元の場所に戻って来られるという事でもあり、例えば無重力空間の中でも辿って帰ることができると思えるという事でもあり、その事実は僕にとって決して失わない光になる。

 ・・・・・・教えてもらえるか? 女性に年齢を聞くのは失礼だと聞いた事はあるのだが」

 閉口。それでもそれは建設的な間だった。その重たい唇が、ようやく動く。

「・・・・・・。・・・・・・三十。アメリカに連れてかれたのは二十歳の時。戸籍上は赤の他人だけど、二十四の時からコーセーのお父さんを実のお父さんとしてきたわ」

「・・・・・・。・・・・・・そうか。・・・・・・良かった。若い子相手だと怖いんだ。いい加減こじらせているからね」

 そうだ、とつぶやく。志堂の側にも伝えていない事があった。

「実は僕も『センセー』じゃない」

 教壇に立っていた時から、と言うと、真梨は目を丸くした。丸くして「どういうこと?」と言った。同時にほころんだ頬。柔らかな、人本来の感情が浮上する。

「お互い、話してみないと本当のコトなんて分からないものね」

 そう言って口元を抑える。一度笑い出すと止まらないようだった。本体を晒して安心したというのも手伝っているのかもしれない。

 志堂はその口元を覆う手、手袋の指先をつまんだ。

「・・・・・・。・・・・・・で、返事は? まだ聞いていない」

 再び丸くした目。

「・・・・・・正直、好みじゃないんだよねー」

「ウソだろ」

「まぁでも」

 再び雨が降り始める。清音。心地良い、邪魔をしないだけの音。

「ナシ、じゃないかなぁ」

 笑った。こっちも一度笑い出すと止まらなかった。

 その様子を真梨が怪訝な顔で見つめる。未だおさまらぬ笑いを含んだまま尋ねてみる。

「・・・・・・僕をおかしいと思うか?」

「ええ」

「そうか。それならいい」

 言いながら外す手袋。

 最後の最後に見せた本体。

「良かった。これでやっと手をつなげる」

「・・・・・・。・・・・・・そゆとこ。なんか絶妙にキモチ悪いんだよねー。セン・・・・・・」

 口をつぐんだのは『センセー』という呼び名を失ったため。戸惑う真梨に「気持ち悪いとか言わないで」とちゃんと傷つきながら志堂は言った。

「・・・・・・自己紹介がまだでしたね。僕は志堂槙。好きに呼んでくれていい」

 緩む口元。真梨は「今さら」と言った。既に出会ってから半年が経とうとしていた。

「その代わり僕も好きに呼ぶ。君は、そうだな」


 真梨は笑いながら「何ソレ」と言った。その顔を見て満足する。

 勿論共有するつもりはない。

 これは僕達だけの秘密だ。









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