20、12月2日(水)
【これはもう一つの物語】
〈やっぱり何か、不思議な感じですよね。平城旧跡って言ったら、昔は都があった場所じゃないですか。そんなところに、私たちはサッカーをしに来てる〉
〈そうか? サッカーじゃなくて蹴まりだっただけだろう? ルールは違っても、やってることは今も昔も大して変わらないと思うが〉
〈蹴まり・・・・・・そうですね。私はここで起こっただろう権力争いの方に考えが偏っていました。きっと時の人を巡っての争いがあって、それもすべてこの土地は見てきたんだと。野蛮で短絡的な、人類の時代を〉
〈それも根っこは変わってないだろう。結局政治界なんて殺し合わないだけで、同じように見えないところで争いは起きてる〉
〈もちろんです。ただ、物理的な暴力という極めて愚かな手段をとらなくなっただけマシじゃないですか。話し合えるというのは人間として正常に機能しているということですし〉
高い気温。光と影のコントラスト。
「その人」はのっそり立ち上がると、透の頭をポンポンとなでた。
女生徒は一度だけゆっくりまばたきをした。妙にすっきりとした頭は静か。
〈スイサイサンはーどうなりたいのー?〉
私は。
あの後、もう一度だけ真梨に会った。その時に言われたこと、言ったことが、今も脈打っている。これは極度に緊張した経験、則ち自己防衛本能の発現。
〈・・・・・・他に何も願わない。私は、ただもう一度『あの人』に会いたい〉
「好かれたい」などと欲張ったがために取り上げられてしまったのだ。二度とそんなこと願わない。だから、お願いだから「あの人」を返して。この場所に「あの人」を。
〈違うー。言ったでしょー。スイサイサンは、どうなりたいのー? ソコに『あの人』はカンケイなーい〉
笑わない目元。口調だけがやわらかかった。
それは、私の一部になっていた「あの人」を引きはがす作業。
〈・・・・・・見つめられても萎縮せずに済むような・・・・・・自信を持てる、キレイな自分に〉
少しずつ、少しずつ剥がしていく。血が噴き出ないように。少しずつ、少しずつ、元の自分の姿に慣れていく。シンデレラだって、一度は元の自分を直視していた。
〈じゃあそのためにグタイテキにどうするのー?〉
〈お、お化粧の勉強をする。・・・・・・自分に似合う色や・・・・・・服、髪型を見つける〉
〈そうすることでー?〉
〈背筋を伸ばす。後ろ姿のキレイな女性に。すれ違う人が振り返るような雰囲気をまとった女性に〉
〈ナイメンはー?〉
〈内面?〉
〈何がスキー? 何がコダワリー? ゆずれナイものはないー?〉
背筋を伸ばす。
「忘却は可能だと思いますか?」
〈じゃあスイサイサンはー、・・・・・・でー、・・・・・・なジョセイになりたいんだねー〉
「・・・・・・あなたの考えを聞きましょう」
足が震える。それでも真梨の声が、背中を押した。
〈スイサイサンはー、その時のアナタはー、キットもっとステキな人の傍にいるー〉
「私は不可能だと思います。
忘れられないのは自分にとって本当に大事な情報、記憶であると、本能に近い所で判断しているから」
「本能に近い、というのはどういうことですか?」
「無意識です」
「例えば?」
目をつむる。眼前に浮かぶ、その横顔。
「『思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを』」
「夢。小野小町ですか。女性らしい」
講師はそう言うと肘をついた。
息がしづらい。それでも、苦しくてもいい加減向き合わなければ。
女生徒は親指を内側に握り込むと、力を込めた。
先生と、先生の向こうにある現実と。
「『飛鳥川 淵は瀬になる世なりとも 思ひそめてむ 人は忘れじ』」
目は閉じたまま。それでも講師の気配は分かった。
「『君待つと 吾が恋ひをれば 我が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く』」
言い終わると目を開く。思った通り、講師は動きを止めていた。
まだ日のある内に、良識の及ぶ時間の内に、ずっと隠していたものを吐き出す。
「先生ごめんなさい。私、先生が『あの人』とここで話してるの、知ってたんです。偶然学生課に用があって行った時『あの人』が東棟に入っていくのが見えて・・・・・・」
「つけたんですか?」
「いえ。でももし戻って来るなら、少しだけでも話ができないかと思って、学生課の前のソファにいました。元々学生向けのアルバイトを探しに行った所だったので、片手間に待っていられたんです。そうしたら」
志堂は身を固くしたまま女生徒を見つめ続ける。その表情は険しい。
「先生と一緒に出てきました。それでそのまま車に乗って・・・・・・。だから私、先生と本当に仲がいいんだと思って・・・・・・」
「それで?」
強い口調だった。後ろめたさも手伝って、女生徒は肩を強張らせる。
「何が目的ですか? 言っておくが彼は一生徒だ。贔屓している訳じゃない」
「私が知りたいのは」
必死だった。必死で己の願いを打ち明ける。
「『あの人』に関する情報です。どんなものでもいいんです。言ってたこと、何に感心を持ち、何を嫌悪し、何に心を揺さぶられるか」
「それを知った所で、何になるというんですか」
「私は通訳がしたい」
あるはずのない風が流れた気がした。遠く鳥の鳴く声が聞こえた気がした。
「『あの人』専用の通訳。何を思って、何を望んで、何を避けるのか。人との間に生じるコミュニケーションの齟齬をゼロにする」
「受験の時に習ったでしょう『絶対に』『必ず』といった断定の選択肢は真っ先に消せと」
「何パーセント以下におさめるとか、そんな甘い気持ちじゃありません。ゼロと言ったらゼロなんです。私は」
辞書をつくりたい。
そう言うと講師の強い視線をはじき返す。
〈何がスキー? 何がコダワリー? ゆずれナイものはないー?〉
真梨の真剣なまなざしがよみがえった。あの時に答えたもの。
〈・・・・・・意味づけ。
会話の中で引っかかった言い回しを追いかけるクセがあって、ちゃんと飲み込めないと終われないの。もっと適切な言い方がある。もっと腑に落ちる、しっくりくる言い方がある。世の中はどんどん便利になっていくけど、私はちゃんと自分の手でつかまえたい。どこかでかすめて触れたことのある内容だとしても、それでも、こだわることに意味はある〉
一瞬緩んだかに見えた、その目元を思い出す。
〈じゃあスイサイサンはー、目を引くようなイデタチでー、コトバにこだわるようなー、そんなジョセイになりたいんだねー〉
〈その時のアナタはー、キットもっとステキな人の傍にいるー〉
静かに話を聞いていた講師は、しばらくしてようやく口を開いた。
「『将来辞書をつくるために、人一人分の分析を完璧に行う』ですか。これはまた突拍子もない事を思いつきましたね」
「観察、洞察、推察の上、結果の照合、解析、修正を行う。この繰り返しです。何らおかしいことではありません」
「ハテ、愛とは如何なるものなんでしょうね。何だか狂気じみてきました。
それでも本人に確認しようがない以上、修正のしようがありません」
「構いません。もう分かりきっていますから」
志堂の顔色が変わった。
「あなたにあの子の何が分かると言うんですか」
「少なくとも先生に分からない部分は分かります」
「愚かな。そういう印象が人を追い詰めるんです」
あなたのような我の強い人間は、これだから嫌なんだと言うと、志堂は片手で頭をかきむしった。
「愚かで構いません。意味づけでもお話ししました通り、私自身『何となく分かり合えた気になる』程度の関係は望みません。私は」
『あの人』を、火州飛鳥を、正しく通訳する。そう水彩透は言い切った。
あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、破綻した理論で、それでも胸を張る女生徒に、何故だか志堂は一瞬気圧された。
斜に構える暇もなかった。だから一切の蔑みも生まれようがない。
ただ純粋な何か。生物学的な上下関係? 何だ。ほんの一瞬、彼女こそ正しい生き物のように思えた。そのことに志堂は、意図せず心が浮き立つのを感じた。
それは志堂自身、正規のルートを通らずここにいることへの劣等感、後ろめたさによる自己肯定感の低下を救う、一筋の光にも見えたからかもしれない。
まだ幼くて、無鉄砲で、危なっかしい女生徒は、今確かに進み始める。
何より。
その目に迷いがない。進むべき道を、ただただまっすぐ信じている。その姿が講師にはまぶしく思えた。




