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先生あのね  作者: 速水詩穂
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10、8月5日(水)夏休み【2007年志堂回想】




 僕が「ナツ」と出会ったのは二年前の四月上旬。

「生物の多様性」の講義のために訪れた、C一○三の教室でだった。

 同じ科目を請け負っても。教授である藤原先生は三倍の広さのC一○二で授業をしている。別に大した意味はないのだろうけど。

 教室に入ってすぐ目についた。秀でた額。まだ個性を出しあぐねている新入生に混じった明るい髪色。大きな身体を机備え付けの椅子との間に無理矢理はさんで押し広げる、その姿と目が合った瞬間、まるで動物園に投げ込まれたかのような感覚を覚えた。いや、正確に言うと動物園にある肉食獣の檻の中に投げ込まれたという感覚か。

 威嚇された訳ではない。そもそも僕に対して威嚇するほどの価値も感じていない。彼にとってはただ動くものに目をやったというだけに見えた。

 僕は教壇に立つと、一呼吸置いて自己紹介を始めた。


 そうしてそれは五月頭の連休明け、四度目の授業を終えた後のことだった。時刻は十六時二十分。自分の研究に取りかかろうと引き出しに手をかけた時、合図なしに戸が開いた。

「邪魔するぜ」

 明るい髪色。机備え付けの椅子との間では窮屈そうだった男が、本来の姿でそこに立っていた。推定身長百八十。いつもと逆で僕が見上げる形になる。

「何ですか? 何か分からないことでも?」

 突然の事に動揺を隠せない。ゆったりと動くこの男にあっという間にこの部屋の主導権を取られる。男は「いや、」とだけ言うと、手前の椅子に腰を下ろした。

 僕自身、多数のやりとりが好きではない。だから一人一人個別に応答できるよう、わざと上質な一人がけの革椅子をしつらえた。その粗挽き珈琲色の革地に、彼の持つ色は、妙にしっくりなじんだ。

 はっとする。意図せず見とれてしまったことを打ち消そうと、咳払いをする。

 いくら外が明るくても、研究棟の東半分におさまるこの部屋は、直接的な光の供給がない。いつ何時(なんどき)も常にどこかの影だった。それが

 明暗。突如差し込んだ日の光。それは視界で区切られた一枚絵。

「・・・・・・用がないなら出ていって下さい。私は今からやることがある」

「邪魔はしねぇ」

 だからしばらく居させてくれ、と男は背もたれに身体を預ける。入室の際言っていたことと真逆だ。

 僕はその高い鼻梁を見つめる。座ればいつも通りの目線の高さ。男は手にしていた本を開いて肘をついた。組んだ足は嫌味なほど長い。身長があるのだからそう見えているだけかも知れないが、その足の甲が足の短い机に引っかかっているのは事実だ。

「・・・・・・」

 何だかそれ以上何も言えなくて口をつぐむ。邪魔しないと言っている以上、僕は僕で自分のやりたいことをすればいい。

 再び引き出しに手をかけて引くと、無駄に大きな音がして心臓が跳ねた。必要なものを取り出して閉める。

 何でだよ。

 指先が震えていた。


 その後も週に一度、講義が終わると、男は当然のように僕の研究室を訪れた。訪れて二時間程度時間を潰して帰って行く。発する言葉は「邪魔するぜ」と「また来る」

 だから僕も「はい」や「ええ」とだけ返す。

「・・・・・・猫科、か」

 大きな身体。長い後ろ(おつぽ)を揺らしながら、定期的にやってくる生き物。よく分からない圧力で部屋の空気を占領するものだから、こちらとしても落ち着かないのだけれど、その一方でどこか愛着が湧く。

 同級生だったら間違いなく関わることのなかった人種。けれども今は講師という立場でのやりとりだけに、こちらが気負う必要は無い。つまり、例え自分の中でどれだけの嵐が起こっていようと、影響のない外界、共有の場では、完全にこちらに主導権があった。もし仮に僕が一言「出て行け」と言えば、彼は従わざるを得ないのだ。そんな昏い優越感がふつふつと内側から押し上げていた。

 そうして挨拶以外で男が口を開いたのは、ここに来るようになってもうすぐ二ヶ月という頃だった。

「なぁ」

 僕はいつも通り適度な高揚感を感じながら手元の資料をあさっていた。突然の呼びかけに肩が跳ねる。

 何が「完全にこちらに主導権がある」だ。こうしてみれば一目瞭然、どうあがいたところで狩られる側だった。幸い男は顔を上げないまま声を発している。そうしてそのまま続けた。

「恋は罪悪だと思うか」

 ぽかんとする。まるでそぐわぬ問いかけに、上手く反応できない。

 ただ、上手く反応できないというだけで、尋ねている内容は分かった。けれどもそのたった数秒の沈黙が堪えたようだ。男は「いや、何でも無い」と言うと、そのまま口をつぐんだ。目は手元に目を落としたまま。一貫して同じ姿勢を崩さない。

 全然適度じゃない高揚感を維持したまま、それでも僕は自分が少しだけ冷静になったことを自覚する。もしかしたら嵐が起こっているのは僕の中だけじゃないのかもしれない。

「・・・・・・。・・・・・・それは生物学的にですか?」

「いや、何でも無い」

 男は長い足を組み替えると、身体ごと横を向いた。

 驚いた。この男は横顔の方がもっと男前だ。

 いつしか研究そっちのけで身を乗り出していた。

「私は恋を罪悪とは思いませんよ」


 それから男はぽつりぽつりと話をするようになった。いつもという訳ではない。挨拶だけの時もある。けれど、水曜の夕方になれば必ずここに現れた。

 時を同じくして僕に生まれた、ふくふくした感情。それは研究の傍らふと顔を上げたとき、自然と頬をゆるませた。

 聞けばここに来るようになったのは「一人になりたかったから」良くも悪くも目立つ容姿。年度が替わることで初見が増え、再び注目されることに嫌気が差したのだという。正直度し難い。そうして同時に「一人になりたくなかったから」

「・・・・・・。・・・・・・苦手なんだ。夕日が。他の日は部活があるからいいが、水曜だけは休みだから、せめて日が沈むまで時間を潰したかった」

 要約すれば「寂しさに耐えられない」ということなのだろう。

 一人暮らしの部屋は静かで、冷たい。相反する感情に折り合いを付けかねていた所、丁度良さそうな相手が僕であり、この空間だったという訳だ。

「あんたはきっと詮索しない。放っておいてくれる気がした」

 生徒への期待は着任して一ヶ月で捨てていた。その業務としての講義が余程非情(どらい)に見えたのだろう。

「いや、聞きやすい。あんたの話。余計な装飾しねぇから、本当に必要なパーツだけ揃ってく」

 ゆがむから余分なのいらねんだ、と言うと男は腕を組んだ。肘掛けに膝の裏を引っかけるようにして、ずるりとずらした腰。どうやらここで眠るつもりらしい。

「十五分経ったら起こして」

 敬語問題を飛び越えて、とうとう講師に向かって命令してきたよ。なんてぼやきは、どうせ表には出ない。

 図体の大きな生き物は、そうして目をつむると、大きく肩で息をした。僕は今しがた言われたことを反芻する。

 〈いや、聞きやすい。あんたの話〉

 僕の話をちゃんと聞いている人がいた。

 突き上げる感情は、体内で生成しうる最高値の熱量を伴う。

「・・・・・・っ!」

 たまらず漏れた声。僕は彼が見ていないのをいいことに、きつく口元をおさえて顔をゆがめる。


 思えばずっと孤独だった。

 僕の今の講師という立場は、正規の(るうと)を辿ってつかんだものではない。大学の講師になるためには、本来大学院の博士課程まで終了している必要があって、僕は修士課程どまりで、卒業後そのまま一般の企業に就職した。その後離れて住む両親の事情で転職を考えていたとき、偶然知り合いが講師をやらないかと持ちかけてきて受けたもので、その時自分の経歴は全て話した。話したが、その上で通ってしまった。

 そもそもこの界隈に理系の院卒が少ないのと、いたとしても優先的に専門の大学にとられてしまう関係で、純粋に人材不足だったという。幸い社会人経験があったため、一年二年の年齢差など、どうにでもできるとの話だった。

 ならばせめて人並み以上の仕事をしようと教材作りに力を入れたところ、さすがは文系大学。最初から単位目的の生徒が大半で、出席をとらないと分かると、三度目の講義には受講者数が三分の一にまで減った。

 面白おかしく講義をする先生もいる。実地だと敷地外へ繰り出す先生もいる。けれども僕にはそれができなかった。根っからの研究者で、薄く満遍なく理解されるよりも、たった数人と深く共有したかった。講師という立場上、教授より目立ってはいけないという感覚が働いていたことも否めない。いずれにしても、

 いつの間にか僕は自分を見失っていた。十も年下の男に、隠れて上下関係の確認(まうんてぃんぐ)しなければいられない程、擦り切れていた。そうだ。僕はそれでも傷ついていない振りをして、そうしてずっと孤独だった。

 暮れていく夕日。静かに静かに赤が濃くなる。

 駄目だ。そろそろ十五分になる。起こさなきゃ。

「・・・・・・・。・・・・・・。あと五分」

 息をのむ。喉が鳴ってしまった。途方もない、情けない音だった。

 男は窮屈そうに寝返りを打つと、そのまま再び肩で息をする。

 僕はその形のいい耳たぶを見つめた。延長された五分の間、ただじっと見つめ続けていた。






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