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先生あのね  作者: 速水詩穂
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9、7月20日(月)

 


【分岐地点ルートB truly】




 月曜だというのに人気の無い構内。不審に思って暦を見ると、なるほど祝日であった。

 志堂は日付の部分を指で辿ると、月をめくる。思わずついたため息は安堵と不満によるもの。

 来月頭から丸一ヶ月もの間、大学生は休みだ。周りが静かになることを有難いと思う一方、目一杯時間を確保できる彼らに比べて、あまりに少ない自由時間を、そんな彼らのために消費しなければならないことに憤りを感じずにはいられない。

 春から夏にかけての緩やかさから一転、急上昇する気温。同じ緑でも初々しかった葉桜が、それぞれ覚えたての自己主張を始める。太陽にあおられて自信。持てる力全てを世界の明度を上げるために使う。周りがどう思おうと関係ない。若さ故の無神経は、有り余る力の分だけぶつけ、傷つけ、己を形成していく。すさまじい早さで磨かれていく。

 あな、かま。

 アア、なんと醜い。これは紛れもない嫉妬だ。

 志堂は鬱々とした気分を晴らすべく、研究室を出た。外気温、十の位は三。うだるような暑さに思わず顔をしかめる。


「大人げない」という言葉が嫌いだった。いや、今も好きになれていないし、今後もなるつもりはない。

 大人なのだから。社会人なのだから。そうやって分けることに一体何の利があるのだろう。

「大人げない」一つで子供は特権を得る。

「大人げない」一つで小さな自分を知る。

「大人げない」一つで、もう自分は譲れない何かに熱くなってはいけないと知る。

 全ては理知的な判断を下す大人であるため。

 図書館に向かおうと、中央の広間に面した大階段を下っている時だった。疾風の如く現れたのは、例の子供代表。

「先生! こっちです!」

 そうして問答無用で拉致される。とは言っても、拉致自体そもそも合意を得ないものであるため「問答」自体不要であり問題は無い。いや、問題はある。

「いやいやいやいや、私今図書館に向かおうとしていてですね」

「あ、試合始まってたら向こうから回らないと入れないんだった」

 志堂(おとな)のささやかな自己主張は女生徒(こども)の耳には届かない。独り言の末、勝手に合点すると、突き当たり、グラウンドに面した坂道を右手に折れる。続くのは約三十メートルの上り坂だ。

「・・・・・・先生、もしかしてもう息上がってます?」

「あなたは進むのが早いんです! 万年体育『二』の大人をなめないで下さい」

 しかもここ数年走ることすらない。物理的な移動、早さ全て車がまかなってくれる。

 眼下に広がるグラウンド。ひいひい言いながらたどり着いたのは、そこに続く階段の頂上だった。

 開けた視界、駆け回るのは晴天をそのまま映したかのような青と白のユニフォーム。高く蹴り上げられるボール。そこではサッカーの試合が行われていた。

「何だってこんな・・・・・・」

 女生徒に続いて階段を下りる。位置エネルギーの恩恵を受けられるようになった志堂は、それでもまだ激しい拍動をくり返す心臓をおさえながら不満を垂れた。しかし次の瞬間、

「絞れ!」

 殴り飛ばすような声に足を止めた。心臓が、一つ飛ばして凄まじい音を立て始める。

 聞き間違えようがない、その懐かしい声。

 突然の事にまだ飲み込めない。踏み出す足が震える。けれど、次に踏み出した一歩は早かった。万年体育『二』の大人が、つんのめるように薄い階段を駆け下りる。そうして、

 そこにいたのは憧れた友人だった。

「富樫!」

 呼ばれる前から動き出していたセンターバックは、キーパーの指示を体現する。否、元から見ている絵は二人同じだった。ただ異なるポジションで同じ役割をこなす。

 クリアされたボールがサイドラインを割る。ゴール前、腰を低くした門番。その明るい髪色。

 ピ、ピー。

 ホイッスルの音ではっと我に返る。志堂は女生徒が自分と同じように「あの男」を見ていることに気づいた。

「・・・・・・。・・・・・・OB戦なんです。言ってもただの二連休だし、まさか来てくれると思わなかったんですけど」

「・・・・・・」

 聞きたいことはいくつかあった。けれどもそのことを口にする前に、別の声に遮られた。

「水彩」

 呼ばれた女生徒と同時に振り返る。

 頬を伝う汗。小麦色に焼けた肌。立ち上る湯気が見えそうな少年がそこにいた。

「恒星・・・・・・」

 ふと見やる。その隣には、日傘をかざした女性が佇んでいた。最も明るい真夏の昼間の真逆に位置するかのような、漆黒で固めた服装。その身体は筋張った彼より縦にも横にも一回り大きい。傘の柄の角度をかえることでようやくその顔がのぞいた。

 真っ赤な唇。毛穴皆無の厚めの肌。目の縁もまた真っ黒で、睫毛だけがばさばさと動いている。そのまなざしの先にいるのは例の女生徒。どこか作り物めいたその姿。目を離せないのは単純に不気味さ故に違いない。

「『あの人』がいるからか?」

 少年の声で引き戻される。それは女生徒に向けた問いだった。

「『あの人』がいるから・・・・・・」

「違う」

 女生徒はかぶり振ると、声を抑えて言った。

「単に通りがかっただけ。気まずいからあっち行ってよ」

「退部届は受理されてねぇ」

「されていてもいなくても辞めたいって意思表示をしてる。それだけで気まずいの。分かるでしょ」

 ふと黒の女性が向こう側のベンチを見た。東西の西にあたる。OBの集まる方だ。

 志堂は何の気なしにその目線を追うと、チームで唯一の黄色のユニフォームに辿り着いた。相変わらず目立つ容姿。タオル片手に携帯を耳に当てるその男は、困ったように電話の向こうにいる相手とやりとりをしていた。

 黒の女性。その唇がわずかに動く。


 あ、え、い、あ。


 吐息未満のそれは口パク。変わらぬまなざし。

 ふわり。黄色の男の手前、漆黒の髪がなびいた。白い肌。比較的小柄なその少女は、何かを訴えると、男の指差した方に向かって歩き始めた。方角的にこっちだ。

 小柄なその身体は、黒の女性とすれ違う一瞬、完全に見えなくなる。

 日食。そうして東側の段差の大きな階段に足をかける頃、黒の女性もまたその後を追うようにしてきびすを返した。

「見ただろ『あの人』の女だ。引きずってんのはこっちだけだ」

「うるさい。違うって言ってるでしょ」

 痴話喧嘩は依然継続中。

 志堂は静かにその場を離れると、OBのベンチの北側、さっき下りてきた階段に沿う、なだらかな斜面に腰を下ろした。

「ナツ」

「・・・・・・驚いた。お前ちゃんと日の下出られんのな」

「吸血鬼ではありませんからね」

 黄色の男は、上げた前髪を尚掻き上げるようにして汗を拭う。決して特別じゃない。色味を別として、皆と同じ格好をしているにも関わらず、グローブ一つで圧縮されるもの。閉じ込められる雄の香。

 相変わらず凄まじい色気を垂れ流しながら、男は目をすがめて笑った。

「あと、立場上一応敬語を使うように。端から見ればどっちが上か分かりやしない」

「悪い。そうだったな」

 全く伝わらない忠告は、けれどもそれ以上の会話を不要と判断した。志堂はその広い背中を人目をはばかることなく見つめる。背番号十七。相変わらず絵になる後ろ姿だった。

 本当はもっと話したかった。募る思いもあった。けれど話せば話すほど大事なものがこぼれていってしまいそうで動けなかったのもまた事実。最後に会ったのは四ヶ月前。また会う保証はない。そうして。

 〈飛べよ〉

 表には出さないが、きっと彼は変わらずここにいる僕の事を軽蔑しているだろう。そう思う事で胸がひりついた。

 その後、男の元に『あの人の女』と称された少女が戻ってくる。

 彼にはもう不足がないことを、少しだけ寂しく思う。



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