2章5 浅葱家三兄弟の中でマトモなのは旦那さましかいないのでは。
軍刀が振り下ろされる――けれども、それは空を切った。深雪が慌てて四つん這いで逃げ出したからだ。
「ななな、何をっ……」
「何をだと……?」
「危ないじゃないですか⁉」
「危ないも何も殺すつもりなのだから、致し方あるまい」
「殺っ……」
深雪の顔が一気に青ざめる。
出会い頭の会話の内容からして、この人物は崇正の兄――初志であることを、深雪はたった今察した。
確か、自分のことを快く思っていないとかいう、そういう人であったハズだ。けれども、さすがに「殺すつもり」なんて言葉を頂くとは、思ってもいなかった。
「如何様にしてたぶらかしたのかは分からぬ知れぬ。だが、報いは受けさせる」
初志の瞳に迷いは見られない。
どこまでも冷徹怜悧であり、決して冗談などではないと告げている。
「――死ね!」
「――ひゃああ!」
深雪は初志の一太刀を避けながら、持っていた荷物を放り投げ、急いで屋敷の中に入る。そして急いで扉を閉めようとして――
「――逃がさぬ」
ぎぎぎ、と初志の無理やりに扉をこじ開けて来た。
まるで鬼のような形相とその力を前に、深雪は全速力で玄関を離れて炊事場まで向かうと、包丁を手にして振り返る。それと同時に、ぬらり、と初志が姿を現した。
「おおお、義兄さま、とお見受けしままます。あ、あの、そ、その刀を収めてください」
「女狐に義兄さまと呼ばれる筋合い無し」
初志が軍刀を振る。すると、切っ先が深雪の持つ包丁に当たり、きん、と音を立てて弾かれた。かららら、と包丁が床を転がる。
「あっ、あっ……」
がちがちと歯音を立てながら、深雪は真っ青な表情になると、ぺたりとその場に座り込んだ。
――本気だ。この人は本気でわたしを殺すつもりなんだ。
身の危険を直感した瞬間に、凄く怖くなって、だから、深雪を両手で頭を抱えると丸まった。
「……死ぬる覚悟は出来たようだな」
軍刀を振りかぶる音が聞こえた。深雪は目をぎゅっと瞑った。一秒、二秒、三秒と時間が過ぎ、そこから更に四秒、五秒、六秒……。
「あれ……?」
最期の時を待っていた深雪であったけれど、しかし、一向にその時は訪れなかった。
不思議に思い、おそるおそるに瞼を上げると、崇正に羽交い絞めにされる初志という光景があった。
小窓から差し込む光が夕日色で、どうやら、崇正が帰って来る時刻になっていたらしい。
「何をしているんだ兄さん‼」
「は、離せ崇正‼ 兄ちゃんは、兄ちゃんはお前の為を思って……」
「これのどこが僕の為だと言うんだ⁉」
「女狐を殺せば、お前も正気に……」
「正気でないのは兄さんだろう‼ こんなに深雪を怖がらせて……」
深雪は縮こまって震えていた。殺されるかと思うと、怖くてたまらなかったのだ。
「そんなもの、こちらを油断させる素振りであろう。俺は騙されぬ」
「深雪はそんな子じゃない」
「そう思うように仕掛けられているのだ。お前はヤツの術中に嵌っている」
「兄さんの方が危ない暗示にでも掛けられているように見えるよ」
しばし、崇正と初志はお互いに拮抗していた。けれども、やがて、初志の方が根負けし軍刀から手を離した。
「……ふん」
「兄さん、取り合えず、深雪をどうにかしようとは思わなくなったってことでいい?」
「この調子では、俺がそいつを殺そうとすれば、お前が身を挺して庇いそうだ。お前を斬るつもりはない」
初志は「離せ」と言って崇正を振り払うと、踵を返した。
「……今日のところは帰ってやる」
「待って兄さん。まず深雪に謝って欲しいんだけど」
「なぜ謝る必要がある?」
「……深雪には、今日よりも前に、兄さんが深雪のことを快く思っていないことを伝えていたよ。でも、それでなお、その時に「まだ会ってはいないからこそ、いつか直接会って、そして自分を知って貰えれば理解してくれると思う」と言ってくれたんだ。式の案内を出したのも、深雪のその言葉があったからこそだし、その機会にしようと思っていたのに……。自分を嫌っていると知っていながら、それでも兄さんに歩み寄ろうとしていた深雪を、一方的にこんな目に合わせて、謝罪の一つも出来ないと?」
「くだらん。お前や父や母に取り入る手段だな。……良く聞け崇正。お前は出来が良い。善弥のようなスケコマシや、刀を振るうしか能の無い俺よりもずっとだ。その気になれば、いずれは親父のように将官になれる。お前は将校などで収まる器ではないのだ。……大事な弟だ。そんなお前の為を思えばこそだ。もっと出世に繋がるような女子を選べ。狐憑きなどと言う、そんな凶兆の象徴など選ぶ意味はない」
「……僕の意思や気持ちを無視しないでよ」
崇正が大きく溜め息を吐くと、初志は鼻息を荒くしたままに、堂々とした歩みで屋敷から去って行った。
☆
初志が帰った後、深雪は自分の部屋でシーツを被り、目を潤ませ続けていた。
夜になり周囲が暗くなっているせいもあって、シーツの中に見えるのは深雪の瞳だけであり、なんだか新手の妖怪に見えなくもないが……それはひとまず横に置くとして。
ともあれ、ずっと崇正が背中を撫でてくれているけれど、そう簡単に恐怖を忘れることが出来ず。
「ごめんね……。問題が起きるとすれば式だと思っていて、けれどもその時には父も母もいるから、ある程度は抑えが効いた状態で顔を合わせられるかと考えていたけれど、まさかその前に家に来るなんて……」
「うん……」
いつもならば、崇正に対して深雪がする返事は「はい」であるのだが、今ばかりは取り繕う余裕もなく「うん」になっている。
「……やっぱり兄さんは式には呼ばないことにするよ。あんな様子では、深雪のことを知って貰うどころじゃない」
以前までは、会って話をすれば、自分のことを理解して貰えると深雪も考えてはいた。けれども、直接会って理解した。それでどうにかなる人ではないのだ、と。
「あとで、深雪には近づけないようにもするから」
初志への怒りを抑えきれなかったのか、崇正はわずかに言葉に怒気を滲ませていた。深雪は「うん」と頷いた。
「……難しいかも知れないけれど、嫌だった気持ち、怖かった気持ち、それは寝て忘れよう。……今日はもうおやすみ」
崇正は言って、優しく深雪の頭を撫でるとそっと離れようとした。
ので、深雪は崇正の服の袖を掴んだ。
「やだ。いかないで」
コケモモのような赤黒い瞳を、深雪はいまだに潤ませ続けている。まだ落ち着くことが出来ていないのだ。
袖を引っ張られた崇正も、深雪の不安や恐怖が治まってなどいないことにさすがに気づいたらしく、少しだけ困ったように頬を掻きつつも、けれどもすぐに「分かった」と言った。
それから、深雪がすっかり寝入るまで、優しく手を握って頭を撫で続けてくれた。
「ぐすっ……」
「大丈夫大丈夫。傍にいるから」
「うん……」




