2章4 義兄さまは強烈でした。
崇正の過去を聞いてからと言うもの、心の距離が更に近づいた。
元から随分と近くなっていた距離だけれども、それでもお互いの間にほんの僅かに残っていた固さがあった。
でも、それが取り払われていった。
「いってらっしゃいませ」
「うん。……でも、その前に」
朝の何気ない風景が過ぎていく。と、その時だ。
「……いってきます」
深雪の狐耳を撫でながら、崇正がその額に口づけた。
優しく労わるような撫で方をされたことで、狐耳が勝手にぴくぴくと動く。そして、額にあたる崇正の唇の感触に、深雪の頬に熱がともった。
これは、新しい習慣になりつつあるそんなやり取りだ。崇正は朝に仕事に向かう前に、これをするようになったのだ。
なぜ、このような行動を崇正が取るようになったのか?
その理由は聞かずとも分かる。
崇正に迷惑をかけたと思う深雪の心情を察して、だからこそ、こうして自らの気持ちを形で伝えることで安心させようとしているのだ、と。
「……」
ずうっと続けば、もしかするとそのうち慣れてしまうのかも知れないけれど、でも、深雪は今はまだ伏し目がちになった。
あの夜に唇と唇を触れ合わせた時ともまた違う、これは夢なのではないかと思うほど自分が愛されている実感――それが、じんわりと胸の内側に広がって行くのを強く感じるこの行為に、平気な顔ではいられなかった。
そして、深雪はふいに思った。
この愛を、この幸せを、無条件にも近く与えてくれる崇正に対して申し訳なくもは思うし、何かを返すことが出来ない自分が恥ずかしくて、そのくせをしてワガママだとも思うけれども、手放すことだけはしたくない、と。
……これは結果論ではあるものの、崇正は、深雪が以前に伝えた言葉を図らずとも実行してしまっていたと言えた。
本人にその意図があるのかは分からない。
ただ、『あなた無しでは生きられないようにして下さい』――以前に深雪が伝えたその言葉は徐々に、そして確かに、崇正の手によって履行されていたのだ。
これは、結婚式まであと二日に迫る、そんなある日の朝の一幕だった。
☆
さてそれから。
そんな朝の余韻に浸りながら、崇正を見送った深雪は、いつも通りの仕事を始めることにした。
時間が経ち、少しずつ汚れや埃がたまり始める家内をささっと綺麗にして、洗濯をして、それから小さなこまごまとした作業を見つけては行う。
午後になってからは、釣鐘帽を被り夕食の材料を買い出しへ行った。
「そういえば、あと二日かぁ……」
口に出してみて、式はもう目と鼻の先なのだなと深雪は思う。
心に染み入るような、妙な感慨があった。
生活自体はもう既に夫婦のそれであり、式をあげたからといって、劇的に何かが変わるわけではない。
けれども、思い出に残る一場面としては、それは非常に大事であった。
お買い物を済ませ、にやにやしながら帰路について――と、そんな風に深雪が家の前まで来た時の事だ。
玄関口に誰かが立っているのが見えた。
軍服を着た男性だった。
服の上からでも分かるほどに、筋骨隆々といった随分と体がしっかりした人物。
見た事がない人だけれど、軍服ということは崇正の同僚だろうか……?
「あの……」
深雪が声をかけると、軍服の男性は、号令を受けたかのような機敏な動きで右向け右を行い、深雪を見た。
威圧感が強い男性だ。
崇正のような包み込むような雰囲気ではなく、上から抑えつけに来るような感じと言うか……。
いかにも軍人然とした佇まいが少し怖くて、思わず深雪は一歩後ずさる。
「……お前は誰だ? ここは崇正が住んでいる場所だ」
「わたしは崇正の妻ですが……」
「なにぃ⁉ では貴様かっ⁉ 式への参列を求む手紙が来たが、よもや真なのかと思い、確かめに来たら本当だったというのかっ‼」
次の瞬間であった。
軍服の男性は、腰に吊るしていた軍刀を引き抜いた。
「――抜刀‼ 出来の良い可愛い俺の弟を――崇正をたぶらかす女狐は処分してやる‼」
深雪はぎょっとして転んでしまう。白く細い腕が地面に擦れて傷が出来て、僅かに血が滲んだ。
この男性は崇正のことを弟と言った。その言葉は、浅葱の長男であることを意味しており、つまり深雪にとって義兄にあたる存在なのだと示していた。
――これは、誰もが想定はしていなかった形での、深雪と義兄である初志との初対面であった。
酷いブラコンな義兄さま……。




