終話 平和な日常です。
――凄いことをしてしまった。
翌朝、目が覚めると同時に、深雪は昨夜自分が崇正としたことを思い出し頬を赤らめた。
何をしたのか。接吻をしたのだ。唇と唇が重なり触れあったのだ。
「……」
深雪は自らの唇を指でなぞる。
まだ感触が少し残っており、鮮明に記憶が呼び起こされる。
思い出したら恥ずかしくなって来た。
深雪はベッドのシーツを豪快に被ると、ジタバタと動く。狐耳もいつも以上に激しく動かした。
――恥ずかしいけれど、でも、あの甘いひと時の余韻をずっと感じていたい。
そんなことを思うものの、けれども、いつまでも悶えているわけにも行かないのであって、深雪は「ふぅふぅ」と息を荒げながらも、そそくさと家事をし始めるのであった。
深雪は昨日よりかは幾分か慣れた様子で、朝食とお弁当を作り崇正を見送る。二日目ともなれば、そこそこ勝手が分かって来るというものだ。
「いってらっしゃいませ」
「うん」
少しだけ、昨夜のことを崇正がどう思っているのか、深雪は気になった。
すると、玄関から出る直前の崇正のその耳が、熱を帯びているのが見えた。
聞かずとも答えは知れたようである。
同じような気持ちであるのだ、と。
☆
崇正を見送ったあと、深雪は天気が良いということもあって洗濯をしたものの……それ以降は特別にすることが無い事態に陥っていた。
「……次はなにをしようかな」
家内の掃除については、昨日張り切り過ぎたせいでほぼ全てが完了しており、つまり、今更改めてやる場所が無く。
何か壊れている衣類でもあればお直しでもしようかと思ったけれど、それも特には無い。昨日崇正の上着をお直しするとは言ったけれど、あれは単に匂いを嗅いでいたことの誤魔化しであって、特別に直しが必要なものでは無く。
午後になったら、食材の買い出しには向かうつもりではあるけれど、それ以外は本当に暇になってしまった。
「そういえば今は夏……」
深雪はぽつりとつぶやく。頭の中に浮かんでいたのは、暑中見舞いやお中元という単語である。確か夏はそういったものを出す季節――と本で見たことがあったのだ。
崇正が帰ってきたら、暑中見舞い等を出す相手がいるのか聞いてみよう。深雪はそう決める。崇正はそれなりの職についているのだから、恐らく送る相手はいるのであって、その宛て名書きの代筆をしようと考えたのである。
座敷牢時代、字は意外と練習した。本読む以外ですることもあまりないので、家族への連絡の文を、丁寧に書く暇つぶしをしていた時期もあったのだ。
家事炊事と同じく、まさかあの時代の経験が再び生きることになるとは……。
どうやら知らぬうちに、それはただ単に暇つぶしではあったものの、結果的に深雪は自分自身で花嫁修業にも近いことをしていたようである。それも、わりかし高度に習熟していた。
☆
それから。
午後までまったりした後に、深雪は釣鐘帽を被り買い物へと向かった。毎日好物では飽きるかも知れないから、少し昨日とは趣の違う夕食を作る材料を買いつつ……道すがらに文具屋が見えたので、ついでに筆とのしも買った。
少しだけ暑い日差しに、深雪は手で傘を作りながら帰路につく。
ふと、深雪は思った。
何の変哲もない日々とは、こういうものなんだろうか、と。
大多数の人が過ごす日常。
しかしながら、深雪にとって普通は普通ではなく、これは初めての体験であった。
穏やかに過ぎるこの時間は、そう悪いものではなく、この毎日を崇正と一緒に過ごしていけることがなんだか幸せに感じられた。
幸せの大小は良く分からない。
だから、あいまいにしか言えないけれど。
でも――自分はそこそこには幸せなんだろうなぁと、深雪はそう思えた。
第一章終了です。次回から第二章です。




