10 離さないでください。
外は鮮やかな夕日色。夜も近い夕刻だ。
深雪は玄関で待ち続けて――まもなくして扉が開いた。現れたのは当然に崇正である。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
深雪はぴこぴこ狐耳を動かしながら、崇正に近づくと上着を受け取った。
上着から崇正の匂いがした。
落ち着くような感じがするこの匂いが、深雪は好きだった。だから、あともう少しだけと思い、気づいたら鼻先に襟の部分に当てていた。
「だ、大丈夫……?」
崇正が目を丸くしたのを見て、深雪はすぐさまに「いけない」と思い、誤魔化した。
「ほつれが……ほつれが見えましたので、後でお直ししようと思いまして」
「そうなんだ。気づかなかったよ。……そういえば、なんだか、家の中が綺麗だね」
崇正はぐるりと家の中を見回して、いつもより綺麗だと言った。一生懸命に掃除した成果をすぐに発見してくれた。
「今日家の中を全部掃除しましたので……」
「全部⁉」
「はい」
「……凄いね。ありがとう」
崇正の言葉に、深雪の狐耳が慌ただしく動き続ける。その言葉を言って欲しくて頑張ったのだ。嬉しかった。
「……お風呂もお食事も準備が出来ております。どちらから」
「それじゃあ最初に夕食から」
深雪は自信満々に崇正に食事を出した。
崇正の好みと聞いた、魚と野菜が中心の夕食だ。
反応はどうだろうか?
「……あれ、僕の好きなものばかりだ」
良かった、と深雪は安堵した。狐耳が再び忙しく動き始めた。しかし、
「深雪に言ったことあったかな?」
そう言われて、深雪の狐耳の動きがピタリと止まった。
崇正の疑問は当然のものだ。
善弥と遭遇したことを伝えると、当然にどんな話をしたのかという流れにもなるので、出来れば隠したいところだが……深雪はこの話においては誤魔化しきる自信が無かった。
「……」
「どうしたの?」
下手に隠そうとして崇正が違和を抱けば不安も感じるだろうし、何より傷つけてしまうかも知れないと深雪は思った。
女に隠し事はつきものだが、それは相手を傷つけない為である。隠せば相手が傷つくのであれば、本当を伝えることも当然に視野に入る。
「実は……」
だから、深雪は考え抜いた末に全てを言うことにした。
☆
崇正の表情が凄いことになっていた。深雪の狐耳が、一瞬のうちにピンと張ってしまうぐらいの恐ろしさであった。
「へぇ、善弥が……。後でおしおきしておかないとね」
以前に崇正は、善弥のことを、余計なことを言おうとしたからと縛って宙づりにした事があった。
深雪もそれは見ていた。
けれども、今回はそれだけでは済まないような、そんな感じがひしひしと伝わって来る。
下手をしたら善弥を殺すのではないかと、逆にそっちの心配をしてしまいそうになるぐらいに、崇正の表情は凄かった。
深雪が額に汗を浮かべていると、それに気づいた崇正がすぐに表情をいつも通りに戻した。
「……ごめんね。先に深雪に教えておくべきだったのに、会うこともそう無いかなと思って、言わずにいてしまった。そのせいだ」
「そんなことは……」
謝って欲しくて伝えたわけではないのに、なんだか申し訳ないなと深雪が狐耳をぺたんと折ると、崇正が手招きをして来た。
深雪はそそくさと近づいた。すると、崇正に抱き抱えられ、そのまま膝の上に乗せられた。
「……他の男にはあんまり近づいたら駄目だよ。それが僕の家族であっても」
崇正が囁いた言葉を聞いた瞬間に、深雪は自らの顔が熱くなるのを感じた。特に耳が酷い。火傷しそうだった。
今日一日は色々あって、考えたことも沢山あるし不安に思ったこともあった。
でも、それらは全て杞憂なのだと分かった。分かってしまった。崇正は言葉と行動でそれを示してくれた。
気づいたら、深雪は崇正の頬を両手で押さえていた。
水仕事で少し荒れている手だけれども、けれども、旦那さまはこの手を嫌がったりなんかしない――そんな確信があった。
「……深雪?」
「……旦那さま。わたしを好いてくれているのであれば、そのお気持ちが変わらない限り、どうか離さないでください。そして、わたしの心も体も、あなた無しでは生きられないようにして下さい。誰にも奪えないように……」
心の内から自然と出て来た言葉であった。
そして。
部屋の明かりが映し出した二人の揺らめく影が、その唇が重なったことを、静かに教えてくれた。




