お召替えの時間です1
夫人に手をひかれ、屋敷の中の階段を登っていく。
「アンジェリカ、遠いところ疲れたでしょう。食事を用意させるけれどその前に着替えましょう。そのワンピースもかわいいけれど、少し小さいかも。あなたの洋服はいくらか用意させたのよ。でも5歳の子のサイズがよくわからなくて、スノウに……あ、スノウっていうのは私の兄の息子で、あなたと同い年なの。だからスノウと同じでいいかしらと思って、あの子をここに呼んであれこれ着せ替えさせてね。スカートなんて試しでも履くのは嫌だって泣いて拒んだんだけど、問答無用で言うこと聞かせてマネキンさせたのよ。でもまさかあなたがこんなに小さな女の子だとは思わなくて。スノウに合わせた服だと大きすぎるかもしれないわね。あぁ、でも大丈夫よ。私、裁縫が得意だから。サイズ直しはすぐにできるわ」
「あの、お気遣いありがとうございます。私はその……町でも小さい部類で」
問答無用で言うこと聞かせたという語彙にひっかかりを覚えなくもなかったけれど、私は素直に夫人に手を引かれながら屋敷の二階へと進んだ。朝食やおやつは抜かれる生活だった上に、メイドのダリアが昼と夜は作り置いてくれていたが、夕食時には帰宅してしまい、その時間に母の飲酒が始まると、その夕食にもありつけないことがあった。そういう意味では栄養は足りていなかったかもしれない。
ゆえに小さかったのかもしれないが、問題はそんなことではなく。
私は手を引いてくれている夫人の横顔をちらりと見やった。
美人というタイプではない。少なくとも実母のような華はない。けれどしっとりとした佇まいと品よくまとめられた髪や服装が丁寧な性質を表していて、それが相貌にも浮かんでいるかのようだった。40代の女性として十分美しい。般若のような母とは大違いだ。
(この人は、私のことを恨んでいないのだろうかーーー)
つながれた手の温かさが、私の不安を少しだけ軽くする。いやしかし、まだ決めつけるのは早い。会ったばかりで、相手は母親を亡くしたばかりの幼子で、その状況に同情しているだけで、冷静になれば本心をあらわにするかもしれない。あるいはなんのしつけもできていない自分のことがさらに知れてきたら、こんな子を家の跡取りとすることに反対して冷たくなるかもしれない。
私は気を引き締めて、夫人が開く新たな部屋の扉をくぐった。そこは誰かの居室のようだった。
広さは日本の間取りでいうと15畳ほど。イメージしていた貴族のお部屋ほど大きくはない。ベッドとソファセット、小さめのデスクとキャビネットという最小限の家具で部屋はもういっぱいいっぱいだ。実母と暮らしていた家よりはさすがに広いが、歩いてここまで来る間にも、それほど大きいお屋敷ではないことには気付いていた。この部屋は南側に面して日当たりがよく、ピンクと薄紫を基調としたふんわりとした色彩で統一されていた。
「さぁ、アンジェリカ。ここがあなたのお部屋よ。あなたの趣味がわからなくて、私が勝手にデザインしたのだけど、気に入らないのなら言ってちょうだい。あなたの好みに合わせて作り替えるわ」
気に入らないなどととんでもない。正直私の趣味ではないが、アフリカの村のほったて小屋で寝泊りしていた経験を持つ自分からすれば、高級ホテルレベルのクオリティだ。
「とんでもないです」
思わず口をついたあと、しまった、と思った。先に言葉を発しちゃいけないと思い出したばかりだったのに。
でも、今は夫人が声をかけてくれたのだからいいのか。不安になってちらりと夫人を見る。
するとその顔にはなんとも言えない寂しげな表情が浮かんでいた。しかしすぐにそれを払拭して、部屋の奥のもうひとつの扉を指さした。
「さぁ、こちらも見てちょうだい。あなたに似合うものがあるといいのだけど」
そして見せてもらったのは小さなドレスルームだった。いわゆる、女性が身支度をするための部屋だ。
白く塗られたドレッサーと、壁際には作り付けのクローゼットがあり、そこには色とりどりのワンピースが10着ほどぶら下がっていた。
「本当はもっとたくさん用意したかったのだけど、あなたの顔を見たことがなかったから、どんなものが似合うかわからなかったの。それにスノウもマネキンを嫌がって脱走してしまうし……だからここにあるのはほんの少し。でも大丈夫よ。これからあなたの好きなものをたくさん増やしていきましょうね」
言いながら夫人はピンクのワンピースを手にした。
「ほら、これなんかどう? あなたにぴったりよ」
それは薄いピンクの生地の上にレースを重ねた豪奢なワンピースだった。胸のすぐ下の位置からピンクのベルベット素材のリボンが垂れ下がり、まるで写真館で特別な写真を撮るときに着せられる貸衣装のようだ。
確かにアンジェリカ・コーンウィルになら似合うだろう。けれど生前の自分の記憶がどうしてもそれを着る気にさせてくれなかった。
「あの、よろしければこちらを……」
私が指さしたのは一番端に吊るされた濃いグレイのワンピースだった。前開きになっていて、小さな黒いボタンが縦にずらりと並んでいる。黒の精緻なレースの飾り襟がついていて、子ども服にしては品のある、おとなしめのデザインだった。襟のレースすらも正直うっとおしかったが、これなら前世の私も許容できる。
そんな私の思いとは裏腹に、夫人はそのワンピースと私を見比べて顔を歪めた。
「そうよね、お母さまを亡くしたばかりだったのよね。私ったらあなたの気持ちも忘れてはしゃいでしまって……。今だって喪に服した格好をしているのに。ごめんなさい、気が利かなくて……」
眉を大きくハの字にして嘆く夫人の姿を見て、私ははっとした。
「違うのです、男爵夫人。私、そういうつもりではなく……」
正直、死んだ実母のことなどすっかり頭になかった。それはそれで薄情な気もしたが、母の生前の行いや、自分の前世の記憶が蘇ったことも相まって、あの人を弔うといった気持ちがほとんどなかったのは事実だ。ついでに今黒のワンピースを着ているのは、これが持っている服の中でまだ一番まともだったから、ダリアに着せられただけだ。勘違いさせてしまったことを私はひたすら謝った。
「申し訳ございません、男爵夫人」
「いいえ、あなたは何も悪くないわ。悪いのは私よ」
「いえ、そういうことではなく……」
「ごめんなさい」
お互いが謝り倒すのを止めたのは、後ろからついてきていたルビィという使用人だった。
「奥様、この調子ではいつまでたっても食事の席につけません」
髪をひとつにまとめた中年女性が割って入る。
「そうよね。まずは着替えてしまいましょうか」
夫人はそう言ってグレイのワンピースをソファの上に置き、私に靴を脱がせて丸いラグの上に立たせた。そして私のワンピースに手をかけた。
「あの、自分で脱げますし、自分で着られます」
今着ているワンピースは頭からかぶるデザインだし、着替えに用意してもらったものは前開きだ。それにさすがにこの年にもなると自分で着替えくらいできるし、そもそも前世の記憶もある。あとは、慣習として貴族はもしかしたら着替えを使用人に手伝わせるのかもしれないが、私は平民育ちだから問題ないだろう。そうとってほしい。それに必要以上に夫人の手を煩わせるのもどうかと思った。手がかかる子だと思われたくない。この先がどうなるか知らないが、少なくとも今この時点では、目の前の夫人はたぶん「いい人」だ。
しかしながら、私の言葉はまた違ったふうに夫人に捉えられたようだった。
「ごめんなさい、私ったら。まるで母親気取りね。そうね、私は外で待っているわ。でも、ルビィを残していくから、何かわからないことがあったら聞いてね」
まつ毛を伏せ、立ち上がると夫人はさっと部屋から出て行った。しまった、またしくじった、と思えどもう遅い。私はまるで夫人を傷つけてしまったかのような気持ちになり、だんまりと扉を見つめた。