男爵領に着きました
ダスティン男爵家はこぢんまりとしたかわいらしい造りの家だった。「こぢんまり」というのは私の前世の記憶に基づくものだ。
その昔、高校の修学旅行で訪れた美術館に似ている。かつての貴族の邸宅で、造りは瀟洒だけれどそれほど大きいわけではない。なんというか、こういうファンタジー小説では端から端まで数十分かかるような大邸宅のイメージだったので少々拍子抜けした。この大きさなら、前世の祖母宅とほとんど変わらないか、むしろ小さいくらいだ。
だが小さくともこじゃれた建物だった。クリーム色のくすんだ外壁に、すっきりとした窓枠がはまっていて、窓辺ではカーテンが揺れている。黒の三角屋根にも出窓があって、手すりには色とりどりの花が植えられていた。祖母の家のだだっぴろい日本家屋とは違い、ひだまりが似合う、あたたかみのあるお屋敷だ。
馬車を乗り付けた玄関先で、父に抱き上げられながら視線をあげる。玄関の大扉の上にステンドグラスがはまっていた。赤を基調とした鮮やかなそれは、かつて私が心血注いで生産に励んだ、あの布を思わせた。
「あのグラスが気になるのかい?」
ダスティン男爵の問いに、私は静かに肯く。
「あれは我が家の精霊様のお姿を模した物なんだよ」
「精霊様?」
「あぁ。アンジェリカは精霊様のことは知っているかい?」
「……あまり」
「平民として育ったのだから仕方ないね。この国にはそれぞれの土地に精霊がいる。そして加護をお与えになるんだ。我が領地には火の精霊が多く棲まわれる。それであのような赤いステンドグラスをお飾りしているんだ」
男爵の話とかつて聞いた妹の話がシンクロする。
精霊の加護、たしかこの大陸には火・地・風・水の精霊が存在し、とくに貴族が治める領地では、その付近でもっとも力を持つ精霊が、いわば土地神様のように信仰されている。このダスティン男爵領では4つの精霊のうち、火の精霊の加護がもっとも強いということなのだろう。これが隣のアッシュバーン領になると地の精霊になる。
「たしか、王都にはすべての精霊様が等しく加護を与えていらっしゃるのよね」
「おぉ、よく知っているね」
数ある領地の中でも王都は特別の土地で、通常は1種類だけの精霊の加護を受けられるが、王都を中心に君臨する王家にはすべての加護が与えられているのだ。そしてこの加護は、その土地に与えられるだけではない。むしろ、その土地に住む「人」を選ぶ。
ダスティン男爵は抱き上げた私の目を見て、真面目な顔で言った。
「アンジェリカ。おまえはこのダスティン領だけでなく、この地の守護精霊様も引き継ぐことになる。精霊様に気に入られるよう、過ごしていかなくてはならないよ」
そう。これこそが私がこの家にひきとられた理由。もっと遡れば、父がどうしても子どもを持たなくてはならなかった理由。
その事実が記憶の底からふわりと浮上してきて、私は思わず瞳を伏せた。
「アンジェリカにはまだ難しい話だったかな」
私の態度を、難しい話に機嫌を損ねた子どものするものと誤解したのだろう。父は小さく苦笑していた。しかし内心はまったく違うことを考えていた。
(精霊の御加護とか……テンプレすぎるわ)
THEファンタジーの要素にかるくめまいがした。
テンプレ、つまり「おやくそく」。どんなに真面目に律儀に物事に取り組んでいたとしても、最後の最後で「おやくそくだから!」とすべてをひっくりかえされる。昭和のちゃぶ台返しも真っ青な黄門様の印籠。
誤解しないでほしい。私とて神様を信じないわけではない。日本人にありがちな無宗教とはいえ、正月に国にいれば初詣には行くし、現地の教会で妹の無事と事業の成功を祈るくらいなことはしてきた。私より信心深い現地の人たちのことを馬鹿になどしないし、むしろ信仰は行き過ぎなければ人々の希望となりうることも知っている。
ただ、前世の世界での神様たちは、少なくとも私たちの生活には関与しなかった。彼らが最後に全部ひっくり返して「おやくそくだから許して?」なんて展開は絶対にありえなかった。もしそれがあり得るなら、私も、村の人たちも死ぬことはなかっただろう。
だがこの世界ではそれがまかり通る。人知ならざるモノが、私たちの生活を大きく左右する可能性がある。この精霊はただの信仰ではない。この世界に精霊は「いる」のだ。
そのことを思い出してどっぷりめまいがした。私は、こんな世界で生きていかねばならないのか。なぜ、よりにもよってファンタジー……。
何度目かもわからないため息を吐いたとき、玄関の扉が向こうから開いた。
「あなた、お帰りなさい」
しっとりした女性の声がする。思わずそちらに首を向けた。
年の頃は40ほど。豊かな栗色の髪をゆるやかに結い上げた上品な女の人が立っていた。瞳の色も優しげな茶色。目尻にできた小さな皺が、垂れ気味な瞳をさらに押し下げ、慈愛に満ちた表情を作り出している。肌も髪も色艶がよく、まとっていた紺色の装飾のないドレスも、決して新しい造りではないが手入れが行き届いているのがよくわかる代物だ。
「カトレア、ただいま。留守を預かってくれて助かったよ。こちらが……アンジェリカだ」
父は私は地面に下ろし、私の頭に手を置いた。
「アンジェリカ、こちらはカトレア。私の……妻だよ」
最後の言葉を小さく、しかし確固たる強さで言った父の態度を受けて、私はいよいよ心を決めることになった。
私はこの家に引き取られることになった愛人の子。この人が、本妻。その事実は、どう足掻いても変わることはないのだ。
前世に引き続き今生でも親を亡くして別の場所に引き取られるなんて。どれだけ私の人生薄幸なんだろう。
嘆いても仕方ない。私は丸めた爪先をできるだけ揃えて深くお辞儀した。
「はじめまして。アンジェリカ・コーンウィルと申します。ダスティン男爵夫人にはご機嫌麗しゅう」
この世界に5年生きているとはいえ、平民生まれの平民育ち。貴族の作法など知らない。お辞儀の仕方も言葉のセレクトも何も教わっていない。だとすれば前世の妹の話と斜め読みした小説の知識を総動員するしかない。そう考えた私の集大成がこのお辞儀とセリフだった。
そこまでやりきってはっとした。確か、下位の者は上位の者が声をかけるまで話しかけてはならないとかいうめんどくさいルールがあったんじゃなかったっけ?
(うわぁ、やらかしたかも!)
私は思わず顔をあげた。見れば目の前のダスティン男爵夫人は固まっている。彼女の見開かれた茶色の瞳とぶつかって、さらにしまったと思った。
(ほかにも、目上の人の顔を直視してはいけないとかなんとか、あったような?)
あわてて目を逸らしたものの、どうしていいかわからず、私は再び頭をさげた。
「いったいなんなの!? この失礼な子どもは! あなたがなんと言おうと私は認めないし、この家の敷居をまたがせるなんて許しません!」
そんな罵倒が私の頭上に……降ってくることはなかった。頭を下げたままの目線の先にダスティン男爵夫人の両手があった。その手がふるふると震えている。
(もしかして、ぶたれ、る?)
怒りのあまり声も出せず、態度で示すタイプかもしれない。まぁ、かよわい貴族女性だ。一発くらいならぶたれてもいいか。
そう決意して奥歯を噛み締めたそのとき、ダスティン男爵夫人は甲高い声をあげた。
「バーナード!!」
「は、はいっ!」
突如名を呼ばれた父は思わず背筋を伸ばす。次の瞬間、夫人は夫の胸ぐらを掴んだ。え、胸ぐら?
「あなた! アンジェリカは5歳だと言っていたわよね!?」
「そ、そうだが……」
「こんな……痩せ細って、小さいなんて!! 私の甥と同い年だなんてとても見えないわっ。あなた、ちゃんと援助してたんでしょうね!? まさか養育費をケチってたんじゃ!?」
「そ、そんなまさか!!! ちゃんと毎月援助してたさっ。きちんとハンナに手渡してたし、メイドも食事の世話をしてくれてたはずだ……」
「じゃあなんでこの子はこんなにガリガリなのよ! それに着てる服だって身体に合ってないじゃないのっ。こんな膝頭が見えるワンピースなんておかしいでしょう!」
「いや、それは子供服だから、そういうデザインなんだと思って……」
「3歳の子どもじゃないんだから! もうっ、これだから男の人はっ」
「カトレア……っく、苦しっ」
胸ぐらを掴むどころか首まで絞めかけた夫人は、二人のやりとりを固まったまま見上げている私をふと見遣って、悲壮感あらわな顔で向き直った。
「まぁまぁまぁなんて小さい……。まずは食事にしましょう、あ、それより着替えが先ね。あら、リボンがとれかかっているわ。なんてこと! ルビィ!」
「はい、奥様」
呼ばれてエプロン姿の女性がすっと前に出てくる。
「急ぎ支度を……あぁ、やっぱり私が行くわ」
そして夫人は固まったままの私の手をとった。