おうちに帰りましょう
うっすらと意識を取り戻したのはどれくらいあとのことか。
カーテンから漏れてくる明るい光が、私のまぶたにちらちらと映る。
(もう朝かぁ……)
寝覚はそれほど悪いほうじゃない。これは前世からそうだった。意識がはっきりしてくるのと同時に目もぱっちりと開く。そしてそこに映る、見覚えのない天井。
(そうだ、アッシュバーン辺境伯家に滞在していたんだった)
今日はもう自宅に帰る日。両親や御者はすでに準備を始めているかもしれない。
こうしてはいられない、と身体を起こそうとするも、何かに遮られた。私の胸元に伸びる誰かの手が、私を離すまいと強くシーツに押し付けているかのようだ。
私の左肩にはくすぐったいような不思議な感覚があった。ふわふわの金色の髪の毛が、私の身動ぎに併せてさわりと揺れる。
……悲鳴をあげなかった自分を、誰か褒めてほしい。
その思い当たる感触に、恐る恐る自由な右手を駆使して触ってみる。掻き上げた髪の下から覗いたのは天使のような静かな寝顔。もしかしなくてもカイルハート王子。
(無理無理無理無理、朝から無理難題……!!!)
必死に彼の手をほどこうにも、いったいどこから湧いているのかわからないほどの強い力で私を押さえつけている。
声にならない声をあげながら、私はじたばたと涙目でかぶりを振った。
このまま殿下が目を覚まして「おはよう」なんてはにかんだりしたら、衝撃で死ねる。
そんな私の心の悲鳴を聞きつけたのかどうなのか、部屋付きのメイドさんがどこからともなくすっと現れた。
「あらお嬢様、お目覚めですね。殿下は……まだのようですが」
「あの、私、起きたいんですけど!?」
「できればもう少しこのままでいてくださると眼福……やだ、そんな泣きそうな顔なさらないでください、わかりましたから」
メイドさんは至極残念といった表情でなんとか殿下の腕を引き離してくれた。その隙をついてずざざざざざっとベッドの端まで逃げる。あ、危なかった……。
そんな私たちの動きに何かを察したのか、残りの3人も次々に目を覚ました。向こうのベッドではミシェルが亜麻色の髪を乱して俯き加減にシーツから這い出している。ギルフォードはまだとろんとした目のまま大あくび。そして殿下も翠玉の瞳をぱちぱちさせて小さくふわりとあくびする。
(クッ……なんだこの光景! 一幅の名画のようだわ!!!)
どの子も壮絶にかわいい。眼福と言いかけたメイドさんの気持ちがわかるってものだ。
「おは、おはようございます、皆様方! その、私は帰りの準備がありますのでこれで失礼いたしますね!」
言い終わらないうちにベッドから飛び降りて入り口の扉にダッシュする。帰り道はたぶんわかる。寝巻きのままだが、そこは5歳児、許してもらおう!
「あ! アンジェリカ……っ」
誰かが私の名を呼んだが無視して部屋を飛び出した。これ以上部屋にいてあの光景を見ていたら、いらぬ扉が開きそうで恐ろしいわ。
そうして辿り着いた部屋では、すでに両親が身支度を終えていた。メイドもつれずに戻ってきた私に驚いた様子だったが、何も言わずに身支度を手伝ってくれた。このあとは朝食を部屋でいただき、ダスティン領から迎えに来てくれた御者と一緒に帰る手はずになっている。よかった、部屋で朝食、万歳!
そんなわけで長い長い滞在が終わり、ようやく帰途につくことになった私たち。ちなみに汚されたドレスはシミなど跡形もなく消え去り、昨日いただいたウェディングドレスのような美しい衣装とともに衣装箱に収められた。辺境伯夫人のご厚意でティアラやパールのアクセサリ、靴までもらってしまって、我が家は一生アッシュバーン家に足を向けて寝られない。いや、今までもできなかったんだけどね。
見送りにはアッシュバーン辺境伯夫妻、伯爵翁様、それにミシェルとギルフォードも出てきてくれた。殿下はさすがに身分的に難しいので部屋で待機だ。「ものすごくふくれっつらでしたよ」とはミシェルの談だ。
「殿下がぜひ王宮にも遊びにきてほしいとおっしゃっておられました」
「……社交辞令として受け止めておきます」
私の身分でおいそれと王宮になど行けない。父ですら複雑な手続きがいる。ミシェルは側近候補として特例が認められ側にいるが、本来は子どもが伺うには難しい場所だ。それをお互いわかっているから、必要以上の会話は交わさない。
この人も大変だなぁと、頭ひとつ分高い少年を見上げた。私のような完全部外者の小娘に言われても辛いだけだろうから、敢えて口にはしなかったけれど。
彼は何かを察したのか、「私自身としても、叶うならあなたに王宮に来てもらいたいところです」と絞り出すように呟いた。うん、行かないよ?
「次はおまえの家で勝負だな」
「……いろいろ突っ込みどころがあるというか、突っ込みどころしかない見送りのセリフをありがとうございます。未来のために全部潰しておきたいのですが、まず“次”はありませんし、“おまえの家”、すなわち“私の家”にギルフォード様がおいでになる事実もありませんし、“勝負”もありえませんから。今のセリフで採用されるのは助詞の使用だけですから」
「難しいこと言われても俺はよくわからん!」
「わかろうよ! お勉強の時間も大事だよ!!」
そんな子どもたちのやりとりの隣で、大人たちも次の段取りを決めていたようだ。伯爵翁様の訪問は二週間後。7月の頭になる。
見送りの方々に別れを告げて、私たちはアッシュバーン辺境伯家を後にした。
「今回の訪問はいい機会になったね」
ご満悦の父に継母も相槌を打つ。
「えぇ、アンジェリカも辺境伯家のおぼっちゃまたちと仲良くなれたみたいで、頼もしいわ」
「確かに、初対面の人たちとも仲良くできて、アンジェリカの社交力は素晴らしかったよ。何人かおまえに夢中になった男の子もいたからね。子爵家の方にも、婚約の予定はあるのかと打診されたよ」
「まぁ、アンジェリカにはまだ早いわ」
父の発言に継母が驚いてみせたが、私も驚いた。え、ちょっと待って、まだ5歳だよ?
「あぁ、いささか早すぎるし、それにアンジェリカはうちの後継だからね。適当にはぐらかしておいたが……それにしてもこの手の話題はまだまだ先の話だと思っていたのだけどね。婚約を遠回しに打診されたり、アンジェリカが殿下方と仲良くしているところを見ると、ね」
父がしんみりとしながら私の頭を撫でた。
「おとうさま、私はお嫁にはいきませんよ?」
私にはダスティン領を継ぐという使命がある。それに当主は継ぎさえすればいいというものではない。その土地に住まわなくてはならないという縛りがあるのだ。そうでなければ精霊の加護を失ってしまうことになる。社交シーズンや学齢期に一時的に王都などへ移り住むことはあれど、生活の基盤は一生涯、領地に置く必要がある。
「あなた、まだ先の話よ。アンジェリカとの生活は始まったばかりだもの。今はこの幸せを楽しみましょう」
「そうだね」
言いながら私を抱き上げた父は、そのまま膝に座らせた。前世も含めてしばらく忘れていた肉親からの愛情を感じて、つい目頭が熱くなる。
泣きそうになるのをごまかしたくて、私は流れる車窓の風景に夢中になるふりをした。




