この気持ちにつける名前を教えてください
（恐るることはない、相手は王子殿下とはいえただの６歳児！）
強気で殿下の眼前に迫る。だが殿下の翠玉のごとき瞳と自分の目がぶつかったとき、その勢いを後悔した。いや、後悔する隙もなかった。
白磁の肌の中に美しいエメラルドが輝いている、それも私へと向かって微笑んでいる。
小さな手が私の手を愛おしそうに包んだかと思うと、ふわりと口元を寄せて唇が触れるか触れないかのところで留めた。まるで今からすることをしっかりと見せつけるかのように。
いつの間にか辺りは静かになっていた。殿下はその静寂を楽しむかのように私の指をそっとなぞる。
そして瞳を静かに閉じ、私の指に唇を寄せた。
それは一瞬のこと。けれど指から立ち上るやわらかな弾力と暖かさに、時が止まってしまったかのような衝撃を受けた。
唇を離す直前、彼がうっすらと瞳を開く。エメラルドの視線が間違いなく私を捉えた。
離れていく唇が何かを紡ぐ。
（なに？ なんて言ったの？）
そう問い掛けたかったが言葉が出ない。唇も動かせない。それくらい私は完全に、彼の一挙手一投足に目も心も奪われていた。
時間がどれだけ過ぎたのか、または瞬く間のことだったのか——。パトリシア様とメイドがほうっと長い息をついたことで、我に返った。
（やだ、何してたの私！）
取り乱した私は無礼も構わず、即座に手をひっこめる。心臓がどきどきして口の中がからからだ。
「……ざんねん」
殿下の小さな呟きに、私は顔を真っ赤にして一歩後ずさった。
（何考えてるの、落ち着け、相手は６歳児だから！ まだママが恋しい年頃のお子様で、あたしは中身アラサーだから！ ていうか普通に産める年だからね、この子のこと！）
冷静になれと自分で自分を戒めれば戒めるほど、心臓の鼓動がうるさいくらいに増していく。顔だってきっと真っ赤だ。
落ち着きたくて彼からさらに距離をとった。自分の小さな手をぎゅっと握って平静を取り戻そうとする。
中身がアラサーの私が、こんな子どもにどきどきするはずない。そう言い聞かせようとするのに、気持ちがなぜか上滑りしていく。
これはいったいどういうことだろう。私の心は私のもののはずなのに、なぜこんなことで騒がしくなってしまうのか。
ふと足元を見れば、窓からの日の光のおかげで小さな影ができていた。ふんわり広がったドレスの裾も頭のティアラの形もくっきりと映っている。
小さな、５歳のアンジェリカの姿だ。
（もしかして、アンジェリカ本人の思考が入り込んでいるの？）
前世を思い出したとはいえ、現世のアンジェリカの記憶も私の中にはちゃんとある。実母と過ごした記憶などがそうだ。この世界で庶民として暮らしてきた記憶や知識は、消えることなくこの中で共存している。
ただ、ときどき不思議な体験をすることがあった。
前世の私は黒やグレイといったシックな色が好きだったが、今の私は水色や淡いグリーンといった色を好む。外見が超絶美少女になったので似合うものを求めているのかと思ったのだが、もしかしたらこれは本物のアンジェリカの嗜好なのかもしれない。
前世の記憶を取り戻して以降、５歳のアンジェリカはどこにもいない。ときおり私の中に戻ってくるということもなく、完全に消えてしまった。だがドレスの好みが変わったり、前世では好きでなかった甘ったるいジャムがおいしく感じたり、なぜなのか説明できない小さな変化がいくつもある。
それらは全部、アンジェリカ本人が残したものなのだとしたら？
（今、殿下にこんなにどきどきしたのも、本物のアンジェリカの気持ちなのだろうか）
パトリシア様に勧められてソファに落ち着く殿下を目で追った。アラサーの私からすればただの小さな男の子。それなのにまた心臓がとくん、と音をたてる。
（私の中に、アンジェリカ本人の気持ちがあるの？）
たとえば目の前にいるパトリシア様は、前世の私とほぼ同世代の女性だ。でも彼女は私よりずっと大人の、頼り甲斐のある女性に見えてしまう。そう、継母のように。
たいして殿下は、自分の子どもといってもいい年頃のはずなのに、なぜかより近しいものを感じてしまう。彼だけではなくミシェルやギルフォードにもだ。もちろん自分の方がお姉さんという感覚はあるのだが、でも彼らと一緒にいると、私の立ち位置はこちら側なのだと妙な帰属意識を抱いてしまう。
そして殿下を前にしたときの、言葉にならない気持ち。
（アンジェリカは、彼に恋をしたの？）
わからない、アンジェリカ《かのじょ》の気持ちも、自分の気持ちも。
わかるのはただひとつ、今、心がどきどきしてどうしようもないということだけだ。
足元に映る小さな影。メイドにおやつを勧められて嬉しそうに口にする殿下。小さな二人を見比べながら、訳もなく途方に暮れてしまった。
