お誕生会の時間です3
「殿下!!!」
呼んだのはミシェルか。振り返る術もないまま、私は床へと前のめりに倒れ込んだ。ただしひとりではない。私の身体にしがみつく小さな手があった。私、5歳のアンジェリカと同じくらいの、だけど私より少しだけ伸びやかで硬い腕。
「大丈夫ですか!?」
「おい、アンジェリカ!!!」
私の肩がひかれ、勢いのまま振り向くと、顔面蒼白のミシェルの顔があった。その隣に目を見開いた麦わら頭。
ギルフォードとミシェルが私を見ている。しかしミシェルの視線は私からずれていた。ギルフォードは私と何かを見比べている。私の肩を強く、けれど微かな労りもこめてひいているのはミシェルだ。だが彼はその手をそのまま弟のギルフォードに預けた。ギルフォードに手をひかれ、私が立ち上がる。そしてミシェルは……私の下にいた別の誰かをひきあげた。
「殿下! お怪我は!?」
「大丈夫だよ。飲み物もほとんどかかってない」
私はぽかんとして二人を見つめていた。横でギルフォードに「おい、大丈夫か、怪我してないか!?」と大きな声で揺さぶられ、ようやく我に返った。
(わ、私……殿下を、押し倒し……た?)
私のあとに彼が引き起こされたということは、彼が私の下にいたということだ。
「も、申し訳ございません!」
グラスをこぼしたのは私ではない、そして、わざと殿下に向かって倒れ込んだわけでもない、グラスの件は偶然としても、別の令嬢に全て仕組まれたものだ。
だが、私が殿下を押し倒したのは事実。目を閉じ、とっさに頭をさげた。
「わたくし、殿下になんて失礼を……」
どうしよう、これが原因でお家取り潰しなどになったら。そうでなくても、殿下を押し倒した令嬢として、後々まで禍根を残すことになったら……男爵家の未来は真っ暗だ。
「なんでアンジェリカが謝るんだよ。おまえがかばったんだろ?」
「へ?」
すぐ隣でギルフォードがきょとんとした顔で呟く。
「うん、僕、怪我も何もしてないよ。飲み物がちょっと服についただけだし。アンジェリカがかばってくれたからね」
立ち上がった殿下がギルフォードに追随する。彼は見たところ無傷だが、前身ごろの裾に少しだけ赤い飛沫が飛び散っていた。
「僕よりもアンジェリカの方が大変だよ。大丈夫?」
近づいた殿下が私の手をとる。呆然とする私にミシェルが声をかけた。
「グラスの中身はきいちごのジュースだ。身体に害はないけれど、アンジェリカ嬢、君のドレスが……」
言われて私は自分の姿を見下ろした。アイボリーの清楚なドレスは見るも無残な赤い色に染め上げられていた。
私はとっさに唇を噛み締めた。このドレスは、それほど裕福でない両親が、私のお披露目のために奮発してデザインから作らせたオーダーメイドだ。たった一度しか着る機会はなかったのかもしれないが、こんな事情で終えていいものではなかった。
いつの間にか大人たちも駆け寄ってきていた。アッシュバーン辺境伯が殿下と私の惨状を見て唇を噛んだ。
「殿下……! お怪我はありませんか」
「僕は大丈夫です。アンジェリカ嬢がかばってくれました」
「アンジェリカ嬢も……。ミシェル! おまえが傍にいながらどういうことだ。殿下のことはおまえが面倒みるよう、伝えていたはずだ」
「申し訳ありません」
「ちがいます、ミシェル様のせいではありません、これは……!」
辺境伯の叱責に私は思わず声をあげた。私は咄嗟に子爵令嬢を見るも、彼女はすぐに目を逸らせた。その隣で、グラスの持ち主だった令嬢は、駆けつけた両親の後ろに隠れ顔を隠している。
ここで彼女たちを責めてもしょうがない。いや、私には責められない。なぜなら私は一番身分が低い。彼女たちを糾弾すれば、それはブーメランのようにいつか自分に返ってくる。
私が子爵令嬢に押されたことはなかったことにされている。グラスがこぼれるのを見た私が、殿下をかばうために咄嗟に彼に向かって覆いかぶさった、と、解釈されているのだ。
だったら私は、これ以上いたずらにことを広げるべきではない。
だが、ミシェルの件だけは見過ごせなかった。
「辺境伯様、ミシェル様にもどうにもできなかった不可抗力です。子ども同士がはしゃいで、たまたまグラスの飲み物が飛び出してしまった、私が過剰反応して殿下に飛びかかってしまったのです。殿下を押し倒したのは私です。叱られるべきは私です」
「いや、アンジェリカ嬢のせいでは……」
「ミシェル様は悪くありません」
「そうだよ、ミシェルのせいじゃないし、アンジェリカ嬢も悪くないよ」
ごちゃごちゃとカオスになりかけた状況を、“パンパンっ”と手を打ち鳴らして止めた者があった。
「あなたたち、そこまでです」
涼やかながらも凛と張る女性の声は、アッシュバーン辺境伯夫人だった。
「議論はそこまでです。事は急を要します。殿下、アンジェリカ」
「「は、はい!」」
突然名前を呼ばれ、私と殿下は一斉に返事した。
「急いでお召し物を着替えましょう。殿下のお洋服はギルフォードのものなので別にかまいませんが、アンジェリカのドレスは染み抜きをしなければ手遅れになります。さぁ、こちらにいらっしゃい」
辺境伯夫人に誘われ、私と殿下は集団から抜け出した。そこに両親の姿があり、私は彼らを呼んだ。
「おとうさま、おかあさま!」
「アンジェリカ! 大丈夫かい?」
「えぇ。怪我はありません。ただ、ドレスが……おとうさまとおかあさまがこの日のために用意してくださった、せっかくのドレスが」
じわりと目元に浮かんでくるものがあった。ドレスが汚されたこと自体が辛いわけじゃない。ドレスの前に、両親が私が恥をかかないようにと最高級のメゾンに発注してくれたこと、そのために自分たちが必要なものを我慢したかもしれないこと、さらには領民たちが毎日の食事を知恵と工夫をこらして節約しながらも納めてくれた税金があること、そんな一連の流れが、こんなつまらないことのために汚されたのかと思うと、そして私にはそれを証明する力も糾弾する力もないことを思うと、悔しくて涙が滲んできた。
「アンジェリカ、大丈夫よ」
継母がいつもの慈愛に満ちた微笑みを浮かべて私に手を伸ばそうとした。私も彼女の胸に飛び込みたくなった。
しかしそれを、アッシュバーン辺境伯夫人が制した。
「カトレア様、あなたが彼女を抱きしめてしまったら、あなたのドレスもダメになってしまいます。私にお任せいただけませんでしょうか」
「まぁ、大変失礼いたしました。あの、この子がご迷惑をおかけします」
「いいえいいえ、迷惑だなんて。彼女が殿下を守ってくださったからこそ、我が家は殿下に、王家に対して最低限の失礼ですみましたのよ? 御令嬢の勇気と行動力には感謝の気持ちでいっぱいです。さぁ、時間がありません。まいりましょう」
辺境伯夫人はわずかの時間も惜しいといったふうに、私たちを会場の外に連れ出した。