もうひとりの御曹司とも会いました
一階に降り、使用人の方に裏庭の出口を教えてもらった。手にはクッキーの詰まった袋がある。子どもたちへのばらまき作戦のためにいくつか個包装していたのが役立ちそうだ。
石造りの重厚なアーチが続く長い廊下を通り過ぎ、私は裏庭へと向かった。遠くからパーティの準備に勤しむ様々な音が聞こえてくる。人の声、食器がぶつかる音。喧騒がこだまする中、急ぎ足で踏み出した外界は、夕方の5時を過ぎていてもまだ明るかった。
目の前に広がるのは緑の生垣だ。片隅には主張しすぎない程度の小さな花壇もある。質実剛健という文字がぴったりなこの城にも、安らぎをもたらす空間がそこかしこにあるようだ。
石段を駆け下りると、「あ、おまえ!」と横から声がかかった。つんつんの麦わら頭がこちらに駆けてくる。
「どうした? あ、もしかして俺と勝負する気になったのか!?」
「違うからっ!」
なぜ人の顔を見れば勝負としか思えないのだろう。この子の頭の中を覗いてやりたい。いやいや私、落ち着こう。相手はたった6年しか生きていない人間。私はアラサー。
「ギルフォード様、明日お誕生日ですよね? プレゼントは明日お渡ししますけど、それとは別にお祝いにクッキーを焼いてきたんです。よろしければ召し上がっていただけないかと思って」
言いながら水色のリボンで封をしたクッキーの袋を手渡す。
「おぉ。ちょうど腹減ってたんだよ。ありがとな」
彼は臆することなく袋を受け取ってリボンをほどこうとした。
「ギルフォード、そちらのお嬢さんはどちら様?」
「あ、兄上!」
「ええぇ!?」
驚いた私を責めないでほしい。まさかここでもうひとりの当主候補に出会うとは予想していなかったのだから。
「兄上って……あなたがミシェル、様?」
口走ってから「しまった」と口を噤んだ。貴族の世界では目下の者から言葉を発してはいけないという面倒な決まりがある。子ども同士でお互い無爵位とはいえ、明確な序列があり、私は彼らに礼を尽くさねばならない立場だ。
「大変失礼いたしました」
私は慌てて顔を伏せ、礼をとった。カーテシーまではいかないが略式の礼だ。
「確かに僕がミシェルだが」
貴族名鑑では私より3歳上と記されていた少年は、失礼が気に食わなかったのか、怪訝な顔で答えた。声色も心なし冷たい。
(でも兄のミシェルって、確か王都にいるんじゃなかったっけ? 弟の誕生日のためにわざわざ帰ってきたのかな)
理由を尋ねることは今の段階では許されない。私は頭を垂れたまま、言葉を重ねた。
「そうとは存じませず、本当に失礼を申し上げました。お許しください」
「君は?」
「バーナード・ダスティンの娘で、アンジェリカ・コーンウィル・ダスティンと申します。ギルフォード様のお誕生日パーティのご招待をいただきました」
「ダスティン男爵家の……ということは君が、今回迎えられたご令嬢か」
「左様にございます。父の代、またそれ以前から我が男爵家がアッシュバーン家にいただきましたご厚情につきまして、両親より聞き及んでおります。未来の辺境伯様方にご挨拶が許されましたこと、心より嬉しく思います。今後とも男爵家をどうぞよろしくお願いいたします」
顔を上げず言い切る。5歳児にしてはやりすぎかもしれないが、彼の不機嫌さは視線を合わさずとも窺い知れたので、あわよくばごまかしたい気持ちでいっぱいだった。何よりこの9歳児、年の割りに落ち着きと威厳がある。アラサーの私が言うのもなんだが、あなどってはいけない気がする。
そんな私たちの目を合わさない腹の探り合いを、ギルフォードがいい意味でぶち壊した。
「おまえ、よくそんな難しい言葉知ってんな。兄上とやりあえる子どもなんて初めて見たぞ」
いつの間に袋から取り出したのか、じゃがいもクッキーをむしゃむしゃ食べながら感心したように言った。っていうか、もう食べてる? 私まだそれがじゃがいもって説明してないよ?
「ギルフォード! 知らない人間から貰ったものを食べてはいけないって言われてるだろっ」
ミシェルが突然弟から袋を奪い取り、そのまま地面に投げつけた。音もなくクッキーの中身が地面に散らばり晒される。
「いや、だって、こいつとはさっき……」
「男爵家の令嬢だからといって信用できるとは限らない。ここに何か混入してあったらどうするつもりだ」
彼の言葉に私ははっとした。クッキーが捨てられたことに腹が立つとか、そういう感情が入り込む隙もないうちに、彼が何を心配しているのかを悟った。
ミシェルが心配していること、それは毒物や劇薬の混入だ。彼らは辺境伯家の御曹司だ。吹けば飛ぶような男爵家とは身分が違う。騎士として王国に仕え、隣国の脅威から国境を護り、剣をとり前線で戦ってきた、その血を受け継ぐ者たちだ。
「失礼いたしました」
再び頭を下げながら地面に落ちたクッキーを拾い……それを自分の口に放り込んだ。
「なっ!」
「おまえ、それっ、落ちたヤツ……っ」
二人の声が重なる。空色の二組の瞳が揃って丸くなる中、私はクッキーを咀嚼し飲み込んだ。
「手作りの品をギルフォード様に直接お渡しすべきではありませんでした。謝って許されることではありませんが、ただ、このクッキーは安全です。私が身をもって保証します」
今彼が食べた、残りの欠片を私がこうして食べている。それこそがこのクッキーが安全だという何よりの証拠になるはずだ。
私はもう一度ゆっくりミシェルに目線を合わせた。正面から見た彼の姿からも、幼いながら風格のようなものが感じられた。弟とはそれほど似ていない。ギルフォードはくすんだ金髪を刈り込んでいるが、彼は亜麻色の柔らかな長髪をひとつにくくっていた。弟ギルフォードがやんちゃで精悍なタイプなら、兄ミシェルは白い肌や鼻筋などが端正な、いかにも貴族然とした貴公子タイプだ。
一見似ていない二人の淡い空色の瞳が、彼らを兄弟なのだと知らしめていた。それぞれを見比べながら、ギルフォードは祖父似なんだなぁとぼんやり思った。
「兄上、こいつは怪しくなんかないよ。さっきおじい様ともお会いしたんだ。おじい様もこいつを褒めてたし」
「おじい様が?」
伯爵翁様の名にミシェルの表情が少し変わった。
「おじい様が褒めてたって、どういうことだい?」
「それがこいつ凄えんだよ! こんなちっちゃいのに体術が得意で、俺を一瞬でふっとばしたんだぜ!」
「だから違うから! あれは不可抗力っていうか、とにかく違うから!」
咄嗟に口を突いた私の心からの叫びを、ギルフォードはまったく聞いていなかった。
「だから俺、再試合を申し込んだんだ! だけどこいつが断るから……」
「再試合とか勝負とか、無理だからね!? 今だっていろいろ誤解した継母から喧嘩しちゃだめって言われてきたし!」
「喧嘩なんかじゃない! 正当な勝負だ!」
「いやいやいや勝負とかおかしいよね!? この超絶美少女相手に剣とか体術とか明らかにおかしいよね!」
おおっと、自分で超絶美少女って言っちゃったよ。ていうか誰かこの脳筋黙らせてくれないかな!
私は助けを求める目をミシェルに向けた。彼は「超絶美少女……」と呟きながらしばし固まっている。いやいや拾うとこそこじゃないよね? あなたの弟の暴走止めてくださいませんこと!? っていうか言葉遣いまで貴族然してきちゃったじゃないの、もう!
5歳児(明日6歳)と9歳児相手に本気の舌戦を繰り広げるアラサーって、端から見たらコメディじゃないかと呆れる私の横から、突然「ぶっく、あはははははは!」という笑い声が響いてきた。
なんだこのさっきの光景の再現は……!と思いながら、声の主を見遣れば。
そこにいたのは当然ながら伯爵翁様ではなく。もっと軽い、子どもらしい笑い声を響かせていたのは、私といくつも違わない男の子だった。




