夫人と一緒にお風呂です
食事が終わるとルビィが湯あみの準備ができていることを告げた。
「アンジェリカ、その、よかったら私と一緒に湯あみしましょう。ひとりだといろいろ危ないし」
「そんな……恐れ多いです。男爵夫人」
まさかの申し出に慌てて首を振る。貴族の女性と一緒にお風呂だなんて気が引ける。いくら身体は5歳児とはいえ、中身はアラサーだ。まさかお風呂で溺れることもないだろう。
私が首を振っていると、隣で男爵が「ならば私と……」と言いかけたのを、「いやだ、あなたったら。面白くない冗談」と夫人が笑って肘鉄を喰らわして黙らせた。え、肘鉄?
「その、湯あみの準備は浴槽に水を溜めたりで使用人たちにも負担をかけてしまうから、なるべくまとめて入浴するようにしているのよ。あの、でも、どうしても嫌だったらルビィにお世話をお願いするけれど……」
「……一緒に入らせていただきます」
確かに、蛇口をひねってすぐお湯が出る世界ではないから、浴槽に水を溜めることは人海戦術なのだろう。そうした人手を例に出されると我がままは言えなかった。それにルビィに世話されるのは避けたい。
下町で暮らしていたときは湯あみというより、水やお湯で清拭するのがせいぜいだった。平民は皆そういうものだ。でもここには浴室があるらしい。前世で滞在していた村にも当然浴室なんてなかったから、お湯につかれるのは久しぶりでちょっとうきうきする。
夫人に連れられ、一階の端にある湯殿に向かった。今さらだが、こちらもそれほど大きい造りではない。6畳ほどの個室に大人が足を伸ばしてぎりぎり入れるほどのバスタブがひとつ置いてある。夫人と私ならお向かいで入れなくもないだろう。
私は夫人と一緒に服を脱いだ。ワンピースの下から出てきた、擦り切れた下着を見て、夫人は驚いたように目を丸めた。
「まぁ、下着も新しいものが用意してあったのに。ルビィったら何をしていたのかしら」
「いえ、まだ着られますし……」
今さら取り繕うこともできず、私はさっさと全部脱ぎ去った。どうせ5歳児だ。恥ずかしいってこともない。
脱いだ下着を畳もうと夫人に背中を見せたとたん、突然彼女が悲鳴をあげた。
「アンジェリカ……! あなた、そのアザはどうしたの!?」
「えっ?」
夫人の視線が私の背中に向いている。その夫人の向こうに姿見があり、そこに5歳の私の背中がうっすらと映っていた。そしてその背中の肩甲骨付近に大きな青痣ができていた。よく見ればお尻にも、こちらはもう青から赤茶色に変色しかけているアザがある。
私は記憶を呼び起こしてみた。これは確か……、そう母に暴力をふるわれそうになったとき、その手から逃れようと後ずさった結果、キャビネットに背中をぶつけたのだ。お尻のアザはそれより前、こちらは突き飛ばされて尻餅をついたときについたものだろう。膝とか肘とかにもあった気がするが、そちらはもう消えてしまったようだ。
「あの、これは、家の中で転んでしまって……」
前世の記憶が蘇ってから、今のアンジェリカの記憶がさっと取り出せないことが続いていた。ぼやん、と浮かんでくる感じで、そのせいで反応がワンテンポ遅れてしまう。今も、夫人の指摘に即座に反応できず、少し間が空いてしまった。
その遅れをどう思ったのか、夫人が問い詰めるように話しかけてきた。
「転んだって、どんな格好で? 背中から転ぶってどういう状況だったの?」
「えっと、その、これは後ろに倒れそうになったときにキャビネットにぶつけたので……転んだっていうのは確かにちょっと違うかもしれないです」
「後ろに倒れるってどういう状況?」
「えっと、避けようとして……」
「何を?」
「……あのっ、虫です。虫が飛んでて、それで追い払おうとしたけど逃げなくて。避けたときに……」
勢いよく答えると夫人はそれ以上何も聞いてこなかった。その目には驚愕と痛ましさが浮かんでいる。母の虐待がバレたかもしれない。まぁ別にバレてもいいんだけど。なぜか突然に庇ってしまったが……。でも、いたずらにこの人に心配をかけたくなかった。
「痛かったでしょう……」
夫人は腫れ物に触るようにそっと私の両肩に手を置いた。
「いえ、もう、忘れました」
痛くなかったわけではないが、怪我は子どもにとって日常茶飯事だ。それに母にぶたれたことは確かにあれど、うまく逃げ回っていたから直接彼女に暴力を振るわれた経験はそれほど多くない。むしろ避けようとしてあちこちぶつけることの方が多かった。
「あとで薬を塗りましょう」
「もうだいぶよくなっていますから……」
「それでも、ね。塗らせてちょうだい」
「はい……」
タオルを抱きしめるようにして湯殿に入った。なんだろう、鼻の奥がつんとする。背中に添えられた夫人の手が温かい。
湯船に浸かる前に石鹸を使って全身をくまなく洗った。自分でできるとタオルを受け取ろうとしたのだが、「嫌でなければやらせて?」と夫人が微笑んだので任せることにした。夫人の優しい手が全身をすべっていく。くすぐったいような、甘ったるいような、変な気持ちになり、鼻の奥のつんとした感覚がより強くなって、気がつけば私は泣いていた。誰かに身体を洗ってもらったのは、亡くなった前世の母以来だ。
前世の両親はごく当たり前の良識を持った人たちで、私と妹のことを普通に愛してくれていた。その当たり前の幸せが断ち切られ、妹と二人で祖母に預けられたとき、私の役割は庇護される子どもではなく、妹を守る姉や母になった。小学生の妹がつつがなく、真っ当な大人になれるよう、姉として母として彼女を守り育てる、それが長い間の私の役目だった。就職してからは常に誰かを支援する側。もちろん、多くの人に支えられてきたけれど、こんなふうに私の身体を気遣って優しく触れてくれる人はいなかった。私はいつも誰かに与える側だ。
夫人は無言で私の身体を洗い、お湯をかけてくれた。全身ぴかぴかになってから湯船につかった。
この世界には精霊の力を宿した精霊石というものがあり、そのうち火の精霊石は火を熾すときに使ったりする。水の中に沈めればお湯にもなる。燭台の代わりにもなるし、なかなか重宝する石だ。夫人は火の精霊石をいくつか使ってお湯が冷めないように調節してくれた。
温かい手で何度も私の頭をなでる。その手に包まれて、私はようやく安心することができた。
この人は、母のことを恨んでいるかもしれない。でも今、私のことを愛そうとしてくれている。
ここまで来ればこの優しさが単なる気まぐれでないことに私も気づいた。前世では15で両親を亡くし、今生では虐待され、おおよそ親の愛情というものを忘れかけていた私に今与えられているのは、間違いなく、夫人からの愛情だった。