喫茶 YOU
遅野井氏、本日降り立つは東銀座駅。歌舞伎座には目もくれず、三番出口から外へ出た。曇りがちだった平日五営業日から一転、痛快なほどの青空である。反面、脳みそに僅かながら滲むアルコールの残滓を、頭を振って払う。昨日は苦手な日本酒を飲まされ、若干二日酔い気味のようである。ふらつく足どりで角を左に曲がり、歩くこと三十秒。
--喫茶 YOU。
外には既に人の列。遅野井氏、首をかしげ、腕時計を見る。今は11時15分。開店は11時。遅野井氏、またもや失態。僅か15分の遅れ、それがあまりに致命的であった。また並ばねばならぬ。学習をしない、経験から学ばない、同じ過ちを繰り返す……
本日、燦と日光が降り注ぐ暖かな陽気であるが、反面、やや風が強く、冷気が頬を刺す。列に並びながら手に開いたのは、ナボコフ著『ロリータ』。活字を目で追うも、朔風により意に反して頁が捲られてしまう。これでは読めたものではない。遅野井氏、十分もせずに読書を諦める。まだアルコールが頭で悪さをしているようだ。深刻そうに眉根を寄せ、キッと空を睨む。シーンがシーンなら、その様はさも舞台役者のようにズバシと決まっていただろう。だが、読者諸氏よ、繰り返して言うが、これはただの二日酔いである。
遅野井氏の前に並ぶ夫妻、その幼児と睨めっこをしながら待つこと四十分。遂に、遅野井氏、入店。落ち着いた店内、そのカウンターに着座し迷わず頼んだのは……
「オムライス、大盛で」
実を言うと、遅野井氏、オムライスについて語るとなると複雑な心境になる。オムライスは大きく分けてケチャップ派と、デミグラス派の二流派がある。遅野井氏は断然デミグラス派である。だが、遅野井氏は自身がデミグラス派であることをカミングアウトすることについて、羞恥に似た感覚を覚えているのだ。それは、ある日、テレビで人気のコメンテーターが発した一言に由来する。
「デミグラスソースのオムライスは邪道」
遅野井氏がこの一言によって甚く傷ついたことは想像に難くない。遅野井氏にとって、とろとろ卵にデミグラスソースをかけたオムライスは人類史上最高の発明であり、大変な宝物であった。それを、邪道などとは……
必然、遅野井氏は怒った。怒髪天を衝くとはまさにこの時の氏の様子を表現するにぴったりの熟語であった。だが、思想家であり戦略家でありかつ実践家であることを自認する遅野井氏は、冷静になって思った。確かにコメンテーターの言うことも一理ある。オムライスは本来、ケチャップが王道。むしろ私の方が道を外れ、大衆主義に堕ち、デミグラス派オムライスを信奉するに至ったのではないか。
その疑義は遅野井氏の心身を蝕んだ。信じていたものが転覆し、翻って牙を剥くその恐ろしさたるや、人語を絶するものがある。遅野井氏は自身の信条、主義、思想が俄に信じられなくなった。今、確固として立っているこの足場も、もしかしたら……何もかも疑わしい。遅野井氏は懐疑主義の深い闇を抱えるようになり、鬱屈とした日々を送るようになった。これではいけない、分かってはいるが、ずるずると決着を先延ばしにしてきた。つまり、真に王道を征くのは、ケチャップ派なのか、それとも、デミグラス派なのか……
そして、今日、遅野井氏はついに決着をつけるべくこの場へ赴いた。ケチャップ派オムライスよ、私を転ばしてみるがよい。そう言わんばかりに、本日の遅野井氏、いつにも増して前傾姿勢。自らの人生を賭したこの大一番に、遅野井氏の興奮は極に達していた。鼻息は怒り猛った猪のごとく、身体の揺れは武者震いのもの。
「お待たせしました。オムライスです」
視界に鮮やかな黄と赤の対照。紛う事なきケチャップ派オムライス、ここに対面。遅野井氏、深呼吸。震える指でスプーンを掴む。
卵、その上のケチャップをスプーンの底で押し広げる。ああ、伝わってくる。柔らかな乙女の肌を滑るような、甘美な感触! いっそ性的なまでの妙なる官能。
さあ、準備は整った。
卵、チキンライスを掬い、いざ……
はむっ。
おお、読者諸氏よ、今までにこれほど温かな接吻があっただろうか! 唇が一目惚れ、乃至、一口惚れ。恋の沼地に一瞬にして突き落とされた! そして、口内に広がったのはケチャップの優しい酸味。それは遅野井氏に絶対的な信頼を与えた。引き出される記憶。生まれ落ちた時、母に抱擁された感覚。野を駆け、太陽に手を伸ばし、ケタケタと笑っていた童子の頃。首筋を撫でる柔らかな風。草花の香り。高い空。もう、春は近い。そう信じさせるに足るだけのイメージ、圧倒的なそのボリューム。それは、第一にこのオムライスによってもたらされたもの。大人の薄汚れた垢が、今や、一つ、また一つと削ぎ落とされ、イノセンスへと還っていく……
卵。噛む必要さえないよ。舌先に乗せただけでトロトロと溶けていってしまう。舌が卵にハグされているのだ。舌、完全に卵の虜。加えて、チキンライスの完成度たるや、神髄というより他はない。決して悪目立ちしない、かと言って脇役に甘んじることもない。噛むほどに口内を広がる、心地良い豊かな甘い響き! 口で感じる音楽そのものである。
オムライスに備えられた福神漬。昔ながらの赤いもの。オムライスが備える完全完璧な色の均衡、その緊張を壊すことなく、素晴らしいまでの一体感で同居している。奥歯で噛みしめる感触が実にカンフォタブル。率直に言って、好き。
大盛を頼んだが、量は至って少。だが、満足感は十分。遅野井氏、食後の紅茶を注文。香りつけにブランデーを垂らす。膨らむ香りに、遅野井氏、感服。
会計を済ませ、退店。空をふり仰いだ氏の表情に、もうアルコールの影はない。
「ケチャップも、デミグラスも、美味いな」
結局、ケチャップであろうが、デミグラスであろうが、美味いオムライスは、美味い。読者諸氏よ、オムライスの流派など、所詮上辺の争いでしかない。決着など、元々つけられるようなものではなかったのだ。
遅野井氏、この後は六本木にて美術館に行く予定。文化人である遅野井氏に、立ち止まる暇はない。