とんかつ はせ川
遅野井氏、両国に降り立つ。両国国技館を横目に、遅野井氏は横綱横丁に足を踏み入れる。細い通りには、両側に魅力的な店店が軒を連ねている。目移りしてはならぬと、遅野井氏は頭を振る。ポケットに手を突っ込み、ああでもない、こうでもないと独りごちながら歩みを進める。そして、遅野井氏は目的地に着いた。
--とんかつ はせ川。
中は大変混み合っており、外にまで入店を待つ人の列ができていた。はせ川とんかつ、上ロースの二品には既に完売の文字。遅野井氏、嘆息。この日、氏は自身の車を車検に出し、洋画を見ながら洗濯をし、部屋を出たのは12時を過ぎてからだった。行動するのが遅すぎた。いつだってそうだ。仕事だって、さっさと手をつければいいものを、糠漬けにでもするかのように放っておいて、後で大惨事を引き起こすのだ。洗濯なんて帰ってきてからにすべきであった。車検なんて、来週にしたってよかった。遅野井氏、後悔。深甚なる後悔……
仕方なく列の後尾に立つ。忌々しいことに、遅野井氏の後ろに並んだのは仲睦まじげなカップルであった。しかもこのカップル、後から来た老夫婦に席を譲る有徳のつがい。嫉妬心に身を焼くばかりの遅野井氏とは雲泥の差、月とスッポンと言って過言ではない。遅野井氏、完全敗北。
しかし乍ら、遅野井氏にも一縷の希望が射した。メニュー表、はせ川とんかつの横に、でかでかと「限定」の二文字が躍る。なんぞ、これ。遅野井氏、目を丸くして文字を追う。
限定、極上ロース……二千八百円(税抜)。
「これだ……」
まさしく、天啓である。朝一番に車検に行ったのも、一大サスペンスアクション映画を見ながらチマチマと洗濯をしたのも、これ、この極上ロースを食べるためだったのだ! 遅野井氏、卓に着くや否や迷わず注文。フィリップ・K・ディックの『高い城の男』を開くが、まるで内容など入ってこない。相席となり、目の前で中年男性が楽しそうに咀嚼しているが、完全に意識の埒外に置かれている。視界にチラチラと映りこんでくるカップルなど、もはや興味さえ失せた。遅野井氏、思わず口角が上がる。読者諸氏よ、笑ってくれるな。遅野井氏の内に沸き起こる期待、その喜びを思えば許してやったってよいではないか!
「後ろから失礼します。極上ロースです」
キタッ、キタッ、キタッ!
きつね色に染まった衣……ああ、既に香ってきている……優雅な脂の香りだッ! 千切りキャベツとの色の対照が実に鮮やかである。米、とんかつ屋の例に漏れずおかわり自由のもの。遅野井氏、食べる前からおかわりの算段をつけている。
手始めに遅野井氏が手を伸ばしたのは、卓に置かれた岩塩。ロースカツの上に、サッと一振り。遅野井氏、高まる胸の鼓動に終始興奮しっぱなし! この瞬間を待っていた!
いざ、実食……………………………………
その肉を、その脂を舌に乗せた瞬間、世界が流転した。なんだ、この甘みは? なんだ、この旨味は? 舌を柔らかく包む温かな肉汁。岩塩がその要素要素を十分すぎるほどに引き立てている。その素晴らしき幸福の充溢! 咀嚼……その一噛み、一噛みで心身に滲んでいく、歓喜を叫ぶ生命の唄。遅野井氏、目蓋を静かに閉じる。その姿は神に祈りを捧げる信者のよう。遅野井氏の内奥を占めていたのは、この世に生を受けた感謝、氏を取り囲む宇宙への果てしない畏敬の念。ありがとう、その言葉だけでは遅野井氏の心理を何も表現できないであろう。今に至って、言葉はあまりにも無力に過ぎる……
続いて米を頬張る遅野井氏。これがまた反則的に美味い! 米の一粒一粒が自らに主役を任じ、口内で遊び回っていやがる。いや、嬉し嬉し。遅野井氏、満足げに頷く。一杯目の米など一瞬で消費し、遅野井氏、二枚目を注文。もちろん、大盛。
キャベツ。読者諸氏よ、信じられるか? キャベツの千切りで米が進むなんてことが! シャキシャキとした歯応えは勿論のこと、キャベツそのものが持つはっきりとした味わいが引き立っている! 実に美味。
遅野井氏、再びロースに箸を伸ばす。今度は山葵をチョイス。実は遅野井氏、静岡県出身。山葵については一家言ある。そんじょそこらの山葵じゃ俺を口説けないぜ? そう、遅野井氏は一人、念じた。ほとんど宣戦布告と言ってよい。遅野井氏、姿勢を正し、再度食す。
う……ッま。
遅野井氏、二言目が出ない。本日二度目の完全敗北。いや、この場合むしろ勝利か? 読者諸氏よ、私には判定できないが、しかし見よ、あのふやけきった笑顔を! 頭から生花が萌えんばかりの笑い顔だ! 山葵がキュッと口内全体を引き締め、汪溢する味覚の乱を芸術的なまでにまとめあげている。その素晴らしき芸当に、遅野井氏、沈黙するより他はない。
遅野井氏、徐に手を伸ばしたのは……辛口ソース。ロースの一切れに、サッと一筋、ソースを引く。何と鮮烈な……何と美的な……その一線。
遅野井氏、噛む。
落雷か? バットで殴られたのかな? 頭蓋の奥まで響く圧倒的な衝撃! ほとんど犯罪的だし、はっきり言って暴力的でさえある極上の旨味! 瞬間、遅野井氏の頭に降りてきた言葉。
「超・ぶた理論……」
読者諸氏よ、たぶん超ひも理論のことだ。遅野井氏は文系だから内容についてはサッパリなのだが、しかし遅野井氏が言いたかったのは、つまり……美味いってことだ。
遅野井氏、会計。昼時はカード決済NGだって? 何のその。遅野井氏、笑顔で札を振り出す。ああ、もう顔面に花が咲いちゃってるよ! 顔面お花畑だよ!
遅野井氏、退店。外にはまだ順番を待つ人の列。遅野井氏、訳知り顔で頷く。氏が伝えたかったことは、こうだ。
「待って、損はないぜ」
遅野井氏、足取りが軽い。灰色だった世界に色が戻ったような……とにかく、そんな気分だった。
そろそろミシュランガイド以外からも情報を仕入れたいですね笑