鳥つね 自然洞
夜空から白い破片がひらひらと舞い降りる。今日、東京には雪が降っていた。凍える手を擦り合わせながら、遅野井氏は秋葉原駅に到着した。電気街のけたたましいネオンの渦に、遅野井氏はしばし、目を細める。雑踏が耳を打つ。白く染まった吐息を空気中に拡散させながら、遅野井氏は人を待った。
「やあ、待たせたね」
十分も経たずに、鬼生田氏は現れた。
切れ長の細い目に、闘魂が漲っている。遅野井氏は黙って……しかし、満足気に頷いた。
「行こうか」
中央通を北へ進む両氏に言葉は無い。あえて言おう。必要ないのだ。両氏は高校で知り合い、もう七年の付き合いになる。高校時代、両氏の瞳には光があった。未来への憧憬があり、飽くなき活力があった。今はどうか。遅野井氏の思想は螺旋状にひねり曲がり、厭世的、頽廃的、加えて悲観的で、暗黒属性ここに極まる。翻って鬼生田氏は歳を重ねるごとにその闘争心を燃え立たせ、その双眼は炯々と殺意を光らせている。両氏は世界を倦んでいるのだ。無邪気に日々を過ごしていた時代はとうに去った。両氏の眼前には、絶え間ない業務の連なり、人々との摩擦、胃を鷲掴みにするプレッシャーが横たわっていた。両氏の魂はとうに擦り切れていた。涙など、とうに枯れた。
「ここだ」
中央通から一本入った小道にひっそりと忍ぶ佇まい。寂しげに光を放つ看板が店の所在を明らかにしていた。
--鳥つね 自然洞。
「親子丼か」
ただでさえ長細い鬼生田氏の目が一等細くなる。殆ど睨むように店外に置かれたお品書きを眺め、眉間に深い皺を刻んで氏は言った。
「遅野井よ、俺はがっかりだ。まさかお前が親子丼などという醜悪な食べ物を俺に勧めようとはな」
「醜悪とは心外だな」
「何を言うか。親子丼ほど醜悪な食べ物はこの世に無いよ。親は皮を剥がれ丼の上に転がり、子は形も定かならぬ状態で黄身と白身をかき混ぜられ、親に被せられる。何と非道なることか。近親相姦に近い嫌らしさを感じるね」
「君は何も分かっていないようだな」遅野井氏はやれやれというように首を振った。「親子丼ほど神秘的で優雅な食べ物はないよ。親と子が手を取り合い、口の中で奏でるハーモニーは素晴らしいことこの上ないね」
「くだらないね。儒教的で気味が悪い」
「まあ、外は寒いことだし、中に入って暖まろうや」
戸を引くと、暖色に染まる店内。木の風合いが目に嬉しい。暖かな雰囲気に、両氏、思わずほっとする。
カウンターに着座。開店してまだほどないというのに、カウンターは既に満席であった。両氏、喧喧諤諤の上、小丼セットを注文。
店主、無骨のもの。白くなった長髪を後ろで結っている。言葉少なに店員へ指示を飛ばすその様に、両氏、見入る。
「時に、遅野井よ」鬼生田氏の声。「小丼セットについてくる、この、鳥しんじょなるものは一体何か?」
「はて? 私にも分からないな」
読者諸氏よ、絶望してくれるな。両氏に教養を求めてはならぬ。両氏は比較的頭の悪い人種なのだ!
「はい、先に鳥しんじょですね」
男性の店員が持ってきたもの--親指大の揚げ物が、三つ。これが、鳥しんじょ……なのか? 両氏、初めてしんじょと対面す。
両氏、店員にこれが何かを聞く勇気さえ持ち合わせていない。恐るおそる、箸を伸ばす。持った感触、非常に柔らか。カニクリームコロッケに近い料理か。しかし、それにしては小さすぎるぜ。
塩をつけて召し上がれ。
両氏、顔を見合わせ、頬張る。
サク………………………………………………ッ!
何という、ことだろうか。今までにない歯触り、舌触り、喉触り。完全完璧なタイミングで油から取り上げられた衣は、悪魔的なまでにサックサク。中、その鶏肉。そぼろ状に細断された鶏肉。あまりに柔らかなその感触。重力下に、何故あの形を維持できていたのか、遅野井氏には不思議でならない。一噛み、一噛みする度に、口の中で鳥が羽ばたいている!
「美味い……ッ!」
遅野井氏、震撼。冒険小説を読み切ったときに似たカタルシスが、遅野井氏を襲う。目を閉じ、三拍、精神世界に閉じこもる。呼吸が、止まる。
「お待たせしました。親子丼の小です」
君を、待っていたんだ--遅野井氏の口が、声にならない言葉を発する。
ああ、私にその煌めきを読者諸氏に伝えられようか。暖かな照明を全身に受け、親子丼、今ここに、着丼。黄金色に輝く、その総身。感動が、肌の一枚下を電撃のように走り抜ける。
箸で、一口目をすくい上げる。ああ、読者諸氏よ、見てみたまえ。その美しき親子の共演を! 食べてしまうのがもったいなく思われてしまうほどに、優雅な、その瞬間よ。その刹那、その瞬刻、その須臾に、永遠への扉が開かれていた。ハッハッと呼吸が荒くなるのを、遅野井氏は押さえられなかった。
実……………………………………………………食。
天使、降臨。遅野井氏の背中に、今、翼が生えた。今なら飛べる。鳥人間になれる。遅野井氏には、その確信があった。
その弾力的な鶏肉の柔らかさと言ったら、あらゆる表現を置き去りにしてしまう。文化文明への挑戦であり、いっそ暴力的でさえあった。その肉に刻まれた旨味といったら……言いようのない深度、言いようのない、高度!
だが、それと同等、いや、それ以上に深甚なる感動をもたらしたのは、玉子であった。この濃厚、芳醇な味は一体何だ? 口内いっぱいに広がる、甘く、自然で、狂おしいまでの、愛しさ。おお、読者諸氏よ、その神秘的な心象を想像してみたまえ! 遅野井氏は、今、世界平和の何たるかを悟った。それは玉子だった。玉子の形をしていた! 読者諸氏よ、世界平和の表象は玉子であるのだ!
奇跡のような親子共演。これが何故地上で起こりえたのか。とりもなおさず、それは店主の神業的技量によるもの。親が、子が、今、その瞬間で放つ最高のパフォーマンスを、丼の上で表現してみせた、してみせてしまった! ああ、こんなことが許されてよいのであろうか! 神の沈黙……ッ! その厳かな沈黙……ッ! 遅野井氏は恐怖さえ覚え、頬を涙で濡らしてしまった……
「遅野井……遅野井よ……」
自身を呼ぶ声に、遅野井氏は横を見た。そこには、口いっぱいに親子丼を頬張り、涙する鬼生田氏があった。
「何と美味い親子丼だろうか……」
「ああ、」遅野井氏も震える躰で頷いた。「大変、美味である」
会計をしながら、鬼生田氏は言った。
「しんじょというのは……調べたのだが、肉をすりつぶしたものに、山芋や卵白、だし汁などを加えて茹でたり揚げたりして調理したものを言うらしいぞ」
「そうか……」
恐らく、二人が今手に入れた新しい知識は、明日には忘れてしまっているだろう。二人の記憶力は、信頼に足るものではない……
外はまだ雪が降っている。夜空を見上げ、遅野井氏は言った。
「美しい……」
鬼生田氏が、それに応えた。
「ああ、とても美しい……」
その美的体験は、両氏に一種の霊感をさえもたらした。その麻薬的陶酔に、両氏の思考は、この後一時間ほど溺れてしまった。二人はたぶん、休日明けの仕事でまた修羅と化すであろう。だが、今この時間だけ、両氏は救われていた。それは、神が沈黙の中に肯定した時間であった。