表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

おにぎり浅草 宿六

 遅野井氏には自論があった。この自論は確固としたものであり、他者の容喙は許されぬ類のものであった。平日、業務中は上司のプレッシャーに平身低頭、我が意を折って阿諛追従するがままの遅野井氏であっても、こればかりは曲げられぬ思想、主義と言って過言ではなかった。

 読者諸氏は次の問に答えを持っておろうか。

 つまり、――この世で最も美味しい食材とは何か、という問である。

 人類も生き物である。食事をせねば生きていけない。しかし、現代社会に生き多忙を極める我々にとって、食事などというものは単なる作業、生を延長するだけの無味乾燥な手続でしかない場合が多い。そう、我々は忙しいのである……明日を生きられれば、食事など、何だっていい。そう考えてはいまいか。

 遅野井氏は違う。断じて、違う。凡百の有象無象とは根本からして異なる人種なのである。つまり、氏は右記の問について、大変な労力と時間をかけ、一つの答を用意しているのであった!

 氏、答えて曰く、――この世で最も美味しい食材、それは「米」である。

 読者諸氏よ、驚いたであろう。私もまた、氏からこの答を受けた時、戸惑わずにはいられなかった。この世で最も美味しい食材を問われて、まさか、米などとは……しかし、ここにこそ遅野井氏の遅野井氏たる謂れ、畏敬の念をもって『駿河の麒麟児』と呼ばれた遅野井氏の思想の結実を見て取ることができる。確かに、考えてもみよ。米なくして肉は引き立つであろうか。野菜、それだけを食べて、読者諸氏よ、満足できようか。いや、できる――そう、言葉だけで強がることはできよう。私だってできる。だが、多くの人間は、米を失って初めて気づくであろう。ああ、私は米なくして生きてはいけぬ。米を噛みたい。米を飲み込みたい。米を、胃の中に収めたい……

 遅野井氏はその事実に自覚的であった。


 さて、本日。遅野井氏の休日が始まった。都営浅草線に乗った氏は、その場で小躍りしそうなほどに上機嫌である。浅草駅で降りた後も、ほとんどスキップに近い足取りであった。時刻、午後三時を過ぎた頃。二月の始まり、肌を突く冷気が厳しい時期である。しかし……読者諸氏よ、見てみたまえ! 遅野井氏のあの、ふやけきった表情を! 何故これほどまでに遅野井氏の機嫌がよいのか……

 答えてみせよう。氏はこの日を今か今かと待ち続けたのである。今日、この日、氏は必ずやそこへ行ってみせようという、確固として堅固なる、不退転の決意があった。一言言わせてもらえば、氏は人混みが苦手である。本日も浅草寺は大変な賑わいを見せており、外国人はもとより、美しく着飾った女性諸氏、ならびに、見せつけんばかりに腕を組む恋人たちと、周囲は遅野井氏の敵ばかりであった。だが、本日の遅野井氏は敵無しの無敵であった。天下に本日の遅野井氏に敵う者などあろう筈が無かったのだ。氏は本日のために平日五日間を耐え忍んだ。手の遅い遅野井氏を叱責する上司の声、苦しい環境下での顧客との折衝、難解な事務手続……全て、この日があったから耐えられた。そう、遅野井氏は解放されていたのだ。あらゆる艱難辛苦から、今日、この日ばかりは救われていたのだ。今さら、そんな些事に構う遅野井氏ではなかった。もう一度、声を大にして言っておこう――本日の遅野井氏は、無敵なのである。

 しかし乍ら、読者諸氏も疑問であろう。あの気難しい思想家、遅野井氏を夢中にさせる場所、それは一体何なのだろうか、と。

 遅野井氏は左右に並ぶ露店には目もくれず、浅草寺を突っ切っていく。背の大きい外人の後ろに隠れながら、人混みをずんずん前へ進む遅野井氏。思想家である遅野井氏は、戦略家でもあると同時に、実践家でもあった。浅草寺の境内で自撮りに勤しむ観光客を尻目に、遅野井氏の歩みは益々その速度を増していく。

 浅草寺を抜け、言門通り。そこに遅野井氏にとってのシャングリ・ラがあった。

 その名を、――おにぎり浅草、宿六。

 昭和二十九年、創業。献立は、おにぎりと味噌汁のみ。羽釜で炊いたコシヒカリを味わえる、究極のおにぎり専門店……ッ!

 喧噪なる都会、ビルの通り沿一階に入り口を構える。本日は日曜。昼の部はなく、開店は夜六時から。閑と静まった、その、佇まい。遅野井氏は店の前で仁王立ちし、満足気に頷いた。期待値は鰻上りである。興奮のために、遅野井氏の鼻息は荒くなっていた。場所を定めた遅野井氏は、その場を離れる。開店まで、残り三時間。

「どう、過ごそうか……」

 読者諸氏よ、遅野井氏の今の言葉を、まさか途方に暮れた末に発せられたものと勘違いしてはいまいか。とんでもない! 遅野井氏は嬉しさのあまり、打ち震えているのである! 残り三時間、氏は待ち続けるのである。今日、六時に食べるそのおにぎりは、一体どのようなものであろうか。甘いのか。いやいや、しょっぱいのか。いや、待て。苦いかもしれぬぞ? あッ、滅茶苦茶に辛いのかもしれない! 妄想は膨らむのである。その妄想を楽しむ術を、遅野井氏は既に持っていた。待つ時間さえ、遅野井氏には大変な愉悦なのである!


 近場のカフェに入り、ラテを含みながら読書。三時間など、あッという間に過ぎてしまった。遅野井氏、本日はお昼を抜いている。この日、この時、この瞬間のために、氏は全てのコンディションを整えているのである! 歩みは軽い。もしかして靴など履いていないのではないかしら。履いていたとしても、その靴って、羽毛で出来ているんじゃないかしら。そんな頓珍漢なことを思いついては、遅野井氏は一人、笑っていた。薄気味悪いか? 読者諸氏よ、許し給え。これはもう、ほとんど恋なのである。

 宿六、その前に戻ってきた遅野井氏。暖簾がかかっている。看板にも灯りがともっている。遅野井氏の胸の鼓動が、読者諸氏よ、痛いほど感じられるであろう。私もだ。

 ゆっくりと、戸を引く遅野井氏。

「いらっしゃい」

 店内。L字型のカウンターに八席、左手側にテーブル卓八席がある。温かな照明が、遅野井氏には嬉しい。店内は開店したばかりだというのに、もうほとんど満席であった。唯一残されていた、出入り口にほど近い一席に座を占める。カウンターにはおにぎりの具財が、丁度お寿司屋さんのように並んでいるではないか。遅野井氏、ここに来て大きく深呼吸。ああ、確かに香ってくる……羽釜で炊く米の匂いだ! 遅野井氏、大興奮。

 壁にかかった御品書きを見て、悩むこと二十分。長いだろうか? そんなことはなかろう。遅野井氏にとって、この、悩む時間さえ至福のひと時であるのだ。いくら。いいじゃないか。口の中でぷちぷちと弾け、米に滲むその甘みは絶品といって間違いないだろう。いや、待て。こんぶ、だと? 捨てがたいぜ、これは……待て待て待て、梅干し、だと? おにぎりにとって、定番中の、定番。おにぎり専門店で食べる、梅干しおにぎり。美味いに決まっているじゃないか!

 結局、遅野井氏が頼んだのは、なめこの味噌汁、お新香、おにぎりは葉唐辛子、塩辛、鮭の三つだった。苦渋の決断だった。できることなら……全部、食べたいッ!

「はい、おまちどお」

 ざるに乗った、江戸前の海苔に包まれたおにぎり。遅野井氏、恐るおそる手を伸ばす。口を開き、……勢いよくかぶりついた。

 瞬刻、海苔が小気味よく音を立てる。刹那、前歯が、羽釜炊きのコシヒカリ、あまりに柔らかなその感触に驚愕する。須臾、奥歯で噛みしめる、その甘さ……口の中を駆け巡るその香りといったら……延髄に響く、その官能たるや。

 楽園は地上にある――そう言ったのは、オーギュスト・ロダンだったか。遅野井氏は、今、この瞬間にその言葉を思い出した。一種の霊感である。遅野井氏は楽園を見つけてしまったのだ。形而下の、この世界に! 震撼、なんと言う神髄ッ!

「まあ、よく噛みしめる人だねえ」

 遅野井氏、顔を振り上げる。前には、さっきまでおにぎりを握ってくれた女将さん。

「いやあ、こんなに美味しいおにぎりを食べたの初めてで……」

 遅野井氏、照れる。見れば、横のカップルも怪訝そうに遅野井氏を見ているではないか。遅野井氏、赤面。顔が熱くなるのを感じた。

 続いて、赤だしのなめこ味噌汁。ああ、ほっとするその味わい。遅野井氏、肩の力が抜けきる。お新香も味が染みていて実に美味い。

「はい、塩辛」

 遅野井氏、迷わず食らいつく。おお、これぞまさしく塩辛ッ! 丁度いい塩梅。これがまた絶妙に米に合うのだ。遅野井氏、絶句、悶絶ッ! 目を閉じ、噛む、噛む、噛む。ああ、その作業が、今日ほど嬉しく、また愛おしく、狂おしいまでに、味わい深かかったことがあろうか! 噛むほどに、米が、コシヒカリが躍るのだ。口の中で囃子が鳴っている!

 遅野井氏、瀕死である。肩は小刻みに震え、歓喜のあまり、咀嚼することさえ忘れている。もはや恐怖といってよい。これ以上噛めば、人間に戻れなくなる。遅野井氏には、そんな気さえしていたのだ。

「はい、最後、鮭」

 出てきた――出てきてしまった。おにぎり界のビッグエース、鮭。

 平衡感覚さえ失いつつある遅野井氏。歯を立て、がぶりといく。

 ……達してしまった。エクスタシー。遅野井氏、ここに来て思考を放棄する。鮭が、米と、握手している。そして、マイム・マイムしている! ああッ、遅野井氏、涙ぐむ。この感動を伝えるのに、言葉など要るだろうか。あえて言おう……要らぬッ! もはや蛇足と言ってよい! ああ、この情景を過不足無く読者諸氏に伝えられたらなあ! ここに至って、言葉などでは何も伝えられぬのだ。読者諸氏よ、恨むなら私の無能非才、その浅薄貧弱な語彙を恨むがよい! 甘んじて批判は受けよう!

 遅野井氏、震える手で会計を依頼。ここでマメ知識。遅野井氏は今、五百円玉貯金をしている。こういう会計時に、普段明朗な遅野井氏はお釣りで五百円ぴったりになるように画策、調整していた。しかし、今の遅野井氏にそれはできない。思考が、震えている。波打っているのだ。今の遅野井氏では、九九も怪しい……

「また、来ます」

 遅野井氏が言うと、女将さんは笑った。その笑顔が、遅野井氏には嬉しかった。


 夜気が冷たい。しかし、遅野井氏は幸福であった。今日は日曜、明日からまた仕事である。だが、今の遅野井氏は無敵だ。遅野井氏はスキップする。ホップ、ステップ、ジャンプ。遅野井氏の表情には笑みがある。

 明日はきっといい日になる。そう信じてやまぬ、遅野井氏であった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ