ヌーベル・ボーン・マサカー
砂漠の底で
「この!このクソ餓鬼が!この!奴隷にして!ボロ雑巾のようになるまで!ぶち犯してやるぞ!」
餓鬼を蹴る。自分の目に涙が浮かぶのにも構わず、何度も蹴りつけて地面を這わせてやる。アジアのどことも知れぬ国の、遥かに裕福な国の、餓鬼だ。異邦人、異教徒の餓鬼なのでいくら蹴っても大丈夫だ。我らの神の教えは異教徒に対する一切の行いを許す。
だが、殺しはしない。殺せば楽しみが減ってしまうから。アジア人は皆幼い顔をしているが、その子供となるとまるで幼児のような顔をしている。
奴隷にするには持ってこいだ。そして、その為には痛みでもって服従させるのが手っ取り早い。
だから、蹴る。
「ギギィ、ギギィ」
餓鬼が歯軋りをしていた。暗いガス灯の光の陰で痛みを堪えて床を見ている。足を縛られ手を後ろに回されて、額を地面に押し付けている。
餓鬼は見るも無惨な姿で這いつくばっている。だが、俺の心は微塵も痛まない。我らの神がそれを許し、俺の心は怒りに燃えているからだ。
いや、違う!俺の心が痛まないのは、正確には神の許しや怒りからではない。こいつが、この餓鬼が!
「ギギィ、ギギィヒヒヒ、ギギィヒヒヒ」
――――嗤っているからだ!!
「笑うんじゃねぇ!!死ね!死んじまえ!クソ!クソが!」
痛みを堪え歯を食い縛り、地面に這いつくばりながら、この餓鬼は俺を、床から見下ろしている。
幾ら蹴っても、髪を掴み殴り付けても、餓鬼の顔から薄笑いが消えない。
餓鬼は、捕まえた時はこんな顔をしていなかった。
こいつの父親が間抜けにも我が組織の領地に敵対国を経由して入ってきたので、異教徒として処刑した時もまだこんな顔をしていなかった。
この薄笑いが餓鬼の顔に張り付いたのは、「あれ」からだ。
俺はもう一度餓鬼の顔を殴り付けた。眉上の皮膚が裂けて餓鬼の顔は血塗れだ。なのに、餓鬼は嗤っている。
「何故笑う!何を笑っている!Why you laughing!(何故笑っている!)」
俺は拙い英語で叫んだ。いつの間にか縄で縛られた餓鬼を相手に余裕を無くしていた。
「ギギィヒヒヒ、Mine, and daddy's. I've done(僕とパパの分。僕はもうやり終えた)」
餓鬼は薄笑いを片時も止めずに謎かけのようなことを言った。
そうだ、この餓鬼はずっと嗤っているのだ。何者も何人も、もうこの餓鬼から何も奪うことが出来ないと知っているからだ。
傾いた天秤をもはや戻すことが出来ないと知っているからだ!
この餓鬼は俺の仲間を二人も殺しやがったのだ!
二人は餓鬼の父親を処刑した後、すぐに餓鬼に手を出そうとして殺されたのだ。一人はのし掛かった瞬間に首を刺され、もう一人は様子がおかしいことに気付いて近付いたところを不意を突かれて胃袋を刺されたのだ。
俺が止めようとした時にはすでに手遅れで、この餓鬼は胃酸に内側から溶かされてのたうち回る様をお馴染みの薄笑いを浮かべながら見ていやがった。
そうだ、それからこの餓鬼は薄笑いをやめない。
「死ね!FucX u!I fucx'n kill u!I will make u hell, painful than death!(クソ野郎!ぶっ殺してやる!死ぬよりも辛い地獄をくれてやる!)」
もはや死では釣り合いが取れない。
この餓鬼は自分と父親の二人の命を俺の仲間二人の死であがないやがった。俺の仲間は簡単に殺されていいような奴じゃなかったのに!何一つ間違ったことはしていなかったのに!なのに、この餓鬼に殺された。それじゃあ、俺の仲間はまるで無駄死にだ!
「You can't.(無理だよ)ギギィヒヒヒ」
「異教徒め!お前には死後は来ない!我らとは違う異教徒だから!」
だが、何も思いもつかない。
この餓鬼に対して俺は何ができる?
俺はまず人差し指を折ってやった。所詮はたかが10才程度の子供だ。小枝程の脆さで折れた。
餓鬼は悲鳴をあげて、あげながら嗤った。
「It pains! Isn't it?(痛い!そうだろう?)」
痛くないわけがない。だが、まるで嬉々として笑っていた。歯を食い縛りながらも目元に笑い皺を作って口角を吊り上げて、まるで迫り来るかのように嗤っていた。
「うあああああ!これでもか!これでも笑ってられるか!」
俺は餓鬼の手を掴み、ナイフを振り上げて小指から中指までを根元から叩き切った。突き刺すように振り下ろしたので小指はまだ繋がっていたが、中指と薬指はポトリと断ち切れた。
「ギギィィィ」
餓鬼は一際大きな歯軋りをした。だが、相変わらず嗤いながら挑戦するように見上げている。
「そ、その目をやめろ!やめろぉ!」
ナイフを何度も餓鬼の腕に振り下ろして、最後に思いっきり餓鬼の顔を殴り付けた。
餓鬼の腕が真っ赤に濡れていて、俺は正気に戻った。出血が酷いことに気が付いた俺はすぐに餓鬼の腕を包帯で縛って止血した。
それから俺は4歩下がってパイプ椅子に座り込んだ。テーブルの上に置かれた金属製のコップに写った俺の顔は酷く憔悴していた。
自分が追い詰められていることを自覚せずにはいられなかった。
人間一人の命の重みは他の誰かの命と同じ重さをしている、とはよく聞く話だ。
いいや、そんなことはない。奴隷の命は自由人よりも軽い。女子供の命は男よりも軽い。異教徒の命は我らよりも軽い。少なくともこの餓鬼や、この餓鬼の親の命よりも、俺の仲間たちの命の比重は重いはずなのだ。それが人間というものだろう。
俺はそんなことが信じられなくなり始めていた。
人間の命は不平等だ。神がそう定めたのだ。そうではないのか。
それなのに、何故目の前の子供が浮かべる歪んだ笑みに、圧倒されるような正当性を覚えてしまうんだ。
その考えに囚われて俺は疲弊していた。
重いはずの仲間の命と釣り合わせるために、餓鬼を痛め付けた。餓鬼の死と餓鬼の苦痛を合わせてやっと仲間の命と釣り合いが取れるはずだ、と信じての行動だった。
だが、餓鬼の嗤いが突き付けるのだ。死と苦痛では永遠に釣り合いなんて取れない、と。苦痛は生きているからこそ感じるものだ。苦痛に呻く声こそが生の謳歌である。赤子の産声は空腹と痛みの声なのだ。
故に、死は苦痛ではあがなえない。死は死をもってしかあがなえない。
そして、死を残して他の一切を取り払ってしまえば何が残るだろう。残るのは純粋な「死」という現象である。そこに優劣は存在しない。
俺が殺してきた幾人もの命は一つ一つが俺と同様に重いのだ。
脳味噌の奥から煙のように立ち上るこのような論理の影は、神の教えに反していて俺は拒絶しなければならなかった。自分の無意識的な思考に対する意識的な否定である。それは俺に重大な疲弊を強いた。
僕は何度も蹴られた。
あらゆるところで。今回は中東の砂漠にある隠れた洞窟の中だった。
蹴られる度に僕は笑みを浮かべた。怒りに任せて僕を蹴る男の姿があまりにも滑稽だったからだ。
もっと蹴ってこい。僕はそう思った。僕に向けられる一つ一つの暴力が僕に首筋にナイフを滑り込ませた時の感触を思い出させた。僕に胃袋に穴を開けたときの感触を思い出させた。人間の命を奪うときの完璧な充実感を思い出させた。
彼らはとある宗教的思想を背景にして組織された軍団であり烏合の衆だった。
僕のパパは彼らに共感し、僕を連れて中東に渡り、彼らの支配圏に西側から侵入した。だが、国境を跨ぐところを彼らに見つかり、僕とパパはすぐに拘束された。パパはこれ幸いとばかりに、神を讚美する枕詞を付けて「力になりにきた」と流暢なアラビア語で伝えた。
無意味だった。
それならば何故敵国から来るのか、と反論されてパパは大いに殴られ、そして洞窟に連れていかれた。
そして、そこでパパは首を切られてあっさりと殺された。
正直なところ、僕はパパを殺した男たちが羨ましかった。
どうしてかと言うと、僕は人を殺したことがなかったからだ。人を殺したことがなかったし、人を殺してはいけないと信じていた。学校教育でそのように習ったからである。そして、人殺しは死刑に処されるべきだ、とも思っていた。
何故なら、殺人者には嫉妬してしまうからである。
僕は人を殺さないし、人を殺す人に怒りを覚える。どの漫画を読んでも人間は尊く、生きることには価値があることを懇切丁寧に情熱的に語っていた。僕もそう思う。人は社会に拘束されて、殺人は罪となっているが、社会の拘束がなくっても人の価値に照らして人殺しは罪なんだ。
だから、僕は人を殺してみたいという欲求を精一杯我慢していたのだ。一生我慢するつもりだった。なのに、僕がこんなにも我慢しているのに人殺しがいるなんてことは、嫉妬で物凄く腹が立つことだった。
そんなわけで、僕は彼らに嫉妬し、怒りを覚えたのだ。パパを殺した男が僕に何かをしようと覆い被さってきた瞬間に、かねてから妄想してきたようにパパから護身用に貰ったナイフを突き立てた。それは、正当な行為と思えた。ナイフは易々とは相手の喉に入っていかなかった。先の方はあまり抵抗もなく入ったが、奥はゴリゴリしてて少し力が必要だった。強い手応えに僕はうっかりナイフを落としそうになり、ナイフの柄を自分の胸の上に置いて支えた。すると、ナイフを通して相手の体重を感じ、相手は重力に沿ってズブズブとナイフを首筋で咥え込んでいった。
僕はその感触をナイフを通して自分の胸と手のひらで、短い時間だったけど、存分に余すところなく味わった。
相手は喉に刺さったナイフを取ろうとして、手を地面に突っ掛けて姿勢を起こしたので、僕に体重がかからなくなった。その間に僕は自分のナイフから手を離して相手が腰に差していたパパの首を掻き切ったナイフに手を伸ばした。そして、ナイフを引き抜いて近付いてきたもう一人の男のお腹に目掛けて突き出したのである。柔らかい内臓の詰まったお腹だったことと、ナイフがかなり重かったことが幸いしてするりと奥まで滑り込み、何かゴムのような大事な袋に大きな穴を開けたのを感じた。
僕は男をどかして立ち上がると、今しがた腹を刺した男が腹を抱えて悶えるのを眺めた。そうしているうちに男たちは死んだ。僕が殺したのだ。
大きな充実感が僕を包み込んだ。それは僕の全存在と同じ程に大きい途方もない充実感だった。
その後、僕は抵抗することもなく捕まった。
少年を何度も蹴った中東風の男はパイプ椅子に座ると、すぐに寝息を立て始めた。
少年の側には少年の右腕を滅多刺しにしたナイフが落ちていた。彼はそれを無事な左手で拾い、縄を切って拘束を解くと、パイプ椅子に座った男に近付いた。そして、歩調を緩めることなく進みナイフを前に突き出した。ナイフはあっさりと男の首筋に突き刺さった。
男は目を開くとゴボゴボと血液混じりの泡を吐いて、そのままゆっくりと目を閉じた。暴れることもなく眠るような死に方だった。彼は疲れていたのだ。
少年はナイフをズボンに隠すと捕まっていた小部屋を抜け出した。彼が捕まっていた小部屋は洞窟の内の奥の方にある脇道の一つで、抜け出すには他の兵士達が屯している部屋の側を抜けなければならなかった。
少年は出口とは逆に更に洞窟の奥に向かった。
洞窟の奥は倉庫だった。番兵が一人座っていて、酒を飲んでいるのが見えた。
番兵は少年に気付くと「Oh, boy! U look really xuxked so hard. So, is it my turn now? Nice timing, I'm fxxxi'n bored of whiskey. Time to xxxx!(坊や!ずいぶんヤられた様じゃねぇか。で、もう俺の番か?よく来たな、ウィスキーに飽きてきたところだ!ヒャッハー!)」と言った。
「They told me to come here(あいつらがここに来いって)」
少年はそう言いながら近付いて男が抱き締めようとした瞬間にナイフを突き立てた。
何不自由なく生きてきたであろうアジア人の子供がまるで無造作に人を殺す、などと誰が想像するだろうか。
男は自らの腹に抉り込むように刺さったナイフを触ると怒るような悲しむようなはたまた困惑するような表情を浮かべて倒れた。
少年はその表情の変化をつぶさに観察した。
少年の体をまたも充実感が貫いた。だが、初めて殺した時のそれには及んでいないことに少年は気付いた。
倉庫に入り少年は武器を物色しながら、充実感が足りなかった理由を考えた。
彼は自らの手で他人に死を与えることを渇望していた。暴力的な性格を理由とした欲求というわけではなく、嗜虐的な性癖というわけでもなければ、破滅願望の転嫁というわけでもないのだろう。
彼もそれをはっきりと認識していたわけではないが、彼はただ自己同一性の発露の一つとして「死」に触れたかったのだ。触れて、撫でて、掴み、味わい、崩れていく様を心の底から感じたかった。
そして、彼は他人の鼓動がゆっくりと静かになっていくのを通して「死」を感じた。渇望は満たされた。それにより、確かに彼は満足を得た。だが、それは束の間のことだった。人間は欲張りで、一つの欲望が満たされれば自動的に次の段階を欲するようになる。
新たな渇望が少年の心中に渦巻き始めた。純粋なまでに他者の死を望んでいた彼の心中に正当な不純物が混ざり始めた。
それは「死」に向かう渇望と同一の性質と方向性を有するものであったが、同時に真逆の方向性を有する矛盾したものであった。
未熟な彼は自らに生まれたそれをまだ知らない。そして、それは混沌の中にこそあった。
RGD-5手榴弾をポケットに入れ、グロック17自動式拳銃を手にし。
他者の死を渇望し、洞窟の出口とその向こうにある青空に向かって、彼は歩き出した。
死体の山を作り洞窟の外に出た少年は、ついに人の「死」を知り、「生」と「死」の瀬戸際を知り、自己の「生」を知った。
彼は吹き荒れる砂嵐が空を塞いでもなお立ち尽くした。
砂粒が彼の体に雨霰と痛いほどに降り注ぐ。それでも、彼の中からもう充実感は消えなかった。
命の重みと生きることの尊さ