第二話 秦 光矢
天気予報では今日の静岡県御殿場市は雨のはずだった。
しかし。住宅地に朝日が差し込み地面に結露していた水は蒸発し、光に照らされた水蒸気は天使の階段を作っている。
照らすのは水蒸気だけではない。
東富士演習場がある御殿場市では人も車も戦略機動歩兵も等しく朝の光を拝む、寝坊した者は戦略機動歩兵の砲撃か、輸送ヘリの爆音で起こされるだろう。
しかし、今日は住宅地の道路で戦略機動歩兵の砲撃に勝るとも劣らない怒号が響く。
「こりゃあああああ! もっと丁寧に拾わんかああああ」
「なんで手伝ってあげてるのに図々しいんだよおおおおお」
少年と老婆が叫び合っている。ただ、因縁をつけられているのは少年のようだった。
黒い髪に中性的な顔立ち、学生服のブレザーを着た少年。落ち着かない様子で額には青筋が立っている。
少年の周りにはみかんや山菜が散乱していた。それもひとつやふたつではない。
これをすべて拾うのは相当手間がかかりそうだ。
「バカ者! 傷がついたミカンなんて食えるか!」
老婆の身勝手な立ち振る舞いは、老人の悪いところを濃縮したようだった。
「こっちは遅刻しそうなんだよ! 親切で拾っているのに注文が多すぎる!」
「早起きしないからじゃ、バカモノ!」
怒られているが、少年に非はない。
たまたま大量のみかんと山菜が入ったカゴを落とした老婆に、たまたま高校に行く途中に出会ってしまったのである。
恨むべきは理不尽な説教をする老婆に出会った少年自身の運勢だろう。
「まったく、最近の若者は礼儀がなってないね、わしが若いころは古いものを大切にしたもんじゃ」
「ばあちゃん、今の時代にまだそんなことを言ってるのか。上を見てごらんよ、戦略機動歩兵が飛んでるだろ……なんか腕が取れてるけど」
少年が指をさした空には、自慢の金属ボディーも煤で汚れ、腕が取れた、どこか哀愁が漂う雰囲気の戦略機動歩兵が甲高い音を奏でながら富士山の麓へと飛行していた。おそらく戦略機動歩兵の整備拠点がある東富士演習場の基地へと移動している最中なのだろう。
「とにかく、あの巨体を飛ばすための電磁場推進も強度を保つためのゴータニウムも、この何年かで御殿場市に研究拠点を置いている企業が実用化した最先端技術の固まりなんだ。世界がバンバン技術革新をしている時代に古いもんにこだわっていたらあっという間に化石になっちゃうよ」
「あんたもそのうちわかる時が来る」
「はいはい、遅れちゃうからまた今度ね」
転がった老婆の物を集め終わり、少年が学校へ向かおうとすると老婆が説教をはじめた。
しかし、時間的余裕がない少年は老婆の説教を遮り歩み始める。
「こりゃ待たないか」
老婆が少年の前に立って制止する。
「おばあちゃん、道を譲ってくれ」
そう言って少年は困った顔をしながら、なんとか老婆から逃げようとする、が。
「お礼にほら、一個あげるよ」
少年は思っていたものとは違う反応に少し驚く。
老婆は片手にみかんを持ち、少年に渡した。
「……ありがとう!」
「遅刻してもわしのせいにするなよ」
みかんを手に取り、走り出す少年。
「だ、大丈夫だよ、時間通りだから」
久しぶりの晴天。
風を切れば雨上がりの心地よい空気が肌をなでる。
適度な湿度を含んだ空気を吸い込みながら、少年は自分に言い聞かせた。
「大丈夫、何も起きずに全力で走れば間に合うはず……」
学校への道のりはそこまで長くないが、少年が人助けをしたせいで、正直間に合うかどうか怪しい。
しかし、今日の少年は運が良かった、道の角を曲がれば目の前には学校がある。
「やったぁ! 今日は遅刻しなくて済むぞ!」
息を切らしながら少年は勢いよく門を曲がろうとした。
しかし。
「うがっ」
「キャッ!」
門を曲がった瞬間、何かに衝突された。
まるでダンプカーにひかれたような衝撃に、少年の体中に大きな鈍痛が襲いかかる。
「うぉおおぉ……っ!」
身を悶える少年。
「私にひかれて生きているなんて、信じられない……あなた、大丈夫?」
少年が声のするほうに目を向けると、そこには大きな荷物を背負い、女子高校生のような服装をした少女が尻もちをついていた。
髪を後頭部の高い位置でひとつにまとめて垂らした、ポニーテールの薄い茶髪の少女。
とくに少年の目を引いたのは、彼女のまるでルビーを埋め込んだかのような赤い瞳だった。人というより猫のような縦長の瞳孔を見つめるあまり、自然と彼女と目が合う。
少女の目と雰囲気は少年にどこか異国の地を連想させた。
(なんだ今の衝撃は……車にひかれたかと思った)
衝突した時の痛みが続く中、ぶつかったときに散らばった少女の荷物を拾い始める少年。
「ありがとう、あなた名前は?」
ポニーテールの少女が珍しそうに少年を見つめながら名前を聞いてきた。
「光矢、秦光矢だよ」
名前を聞いた少女は頭の中で覚えるために目を閉じ、自分に言い聞かせる。
「光矢、光矢ね。覚えたわ、荷物を拾ってくれた恩は必ず返すから!」
「荷物を拾っただけの恩で何をするんだ?」
首をかしげる光矢、彼にとっては当たり前の事をオーバーに受け取られ、表情には出さないが大きな衝撃だった。
「あなたが小さなことと思っても、私はすごくうれしいの」
彼女の一言を光矢は理解できなかった。
「それにしてもすごい荷物だな、よく持てるね」
彼女の荷物をちらりと見たところ、少なめに見ても大人が数人がかりで持つ荷物だ。どう考えても少女の華奢な腕で持てるようには見えない。
「大丈夫、鍛えてあるから」
少女も荷物を拾うが、その紅い瞳は光矢の顔から離さなかった。
因縁でもつけられるのかと心配した光矢だが、双方言葉を発さず、しばし鳥のさえずりだけが響き渡る。
「ねぇ米軍基地ってどこにあるか知らない?」
「ああ、軍事技術博物館のバス停から行けばすぐだよ。古い戦車とかが展示されてるからすぐわかると思う」
光矢が博物館の方角へ指をさした後、少女はお礼を言い、歩きだした。
しかし、本当に基地まで行くのだろうか、彼女の荷物で米軍基地へ行くには少し、いやかなり大変だ。
女の子は心配そうに彼女を見つめる光矢にウィンクを返し、
「あなた、きれいな目をしているわね」
「えっ?」
すれ違い際の彼女の言葉の意味が理解できず、聞き返そうと振り向いたが、彼女の姿は消えていた。
「……せめて名乗ってから消えてほしかったな」
夢でも見たのかのような出来事に少しの間、呆然と立ち尽くす光矢。
台風一過、一人残された光矢の脳裏に今、なぜここに居るのか思い出した。
「あぁ……遅刻だ」
光矢はチャイムが鳴っている学校へ、トボトボと歩いて行った。