終わる世界と始まる世界
????/??:??/成神さん/???
野球のバットはよく見ると、なんだかごつごつとしていた。
金色のいびつな四角形が規則正しく表面を覆っている。それらはキラキラと僕の手の中で輝いていた。
「なんだこれ……。輝くトラ……なんとか……?」
僕が訊くと、自称霊能力者でニャルなんとかっていう神の子孫でもある成神さんが答えた。
「輝くトラペゾヘドロン、だよ。トラペジウムっていう平行な辺の無い四角形からなる多面体が、異次元から出現するとそう呼ばれる。普通は俺の祖先である、ニャルラトホテップ神を召喚するために使われるんだけどね……」
「召喚?」
「ああ。でも、君の場合は逆だ。俺という存在と『出会ってから』、それをこの場に顕現させた。まるでコワガミサマと同じだね。全部逆だよ」
「よく、わからないですけど……どうして僕は今、これを手にしているんでしょう?」
「さあ? それは君自身の中に答えがあるんじゃないかな。それは面の数だけ『ifルート』に至れる力があるからね」
「……ifルート」
僕はしっかりとバットの柄を掴むと、何がしたいのかをもう一度強く思った。
僕は……かつての日常を取り戻したい。
ジュン姉とずっとゲームをしている日々を。ジュン姉と、あの平和な日々を過ごしていたい。それ以外は何もいらない。
僕は海岸沿いの道路以外何もない村の前に立ち、バットを振り上げた。
「ジュン姉を……返せ! 僕の日常を、返せ!」
ガツンと、バットを地面に叩きつける。
すると、そこからぶわっと得体の知れない黒い闇が噴出した。
「なっ……!」
闇の奔流にもまれながら、僕は後ろを振り返る。
そこには、ふらつく成神さんがいた。崩れゆく足場を必死で回避して、僕の所までやってくる。
「あははっ、ついに成し遂げたね。これには編集長もびっくりだ」
「成神さん……」
「さあ、この闇がすべてを塗り替える。どんな世界が、君を待っているのかな?」
そう言うと、がくんと成神さんは体勢を崩して、足元の闇に吸い込まれてしまった。
あとにはバットを持った僕しかいない。
「成神さん……?」
声をかけるが、返事はない。
「成神さん!?」
声をかけるが返事はない。
「成神さん!!! これから、僕は、どうすればいいんですか! 成神さーーん!!」
返事はない。
「な、なんで……なんで……?」
相変わらず、あたりには闇が侵食していく。
僕の周りには闇しかない。
現実はどこへ行ってしまったのだろう。今となっては、ほとんど何もなくなってしまった境雲村の風景すら、懐かしい。
母さん。
母さんとは、この異常な日々が始まってからは、あまり話すことがなくなってしまった。
いままでもあまり会話する方ではなかったけれど。
母さんはいつも仕事で、僕は母さんがいない間はジュン姉と一緒に遊んでいて。
母さんが帰って来てからは少しだけ一緒に食事をとるだけで、あとはいつも別々の行動を取っていた。
それが、あの異常な日々が始まってからは、それすらも無くなってしまった。
夜が来れば一緒にいられたのに。
夜のお役目の間は、また別々に過ごすことになってしまった。
愛されているのは、ずっと、変わらない。
でも、何もかもがコワガミサマによって変えられてしまった。
「母さんにも、会いたいな……。やっぱり、また元のような日々に戻るのが一番いい……」
辺りは全て深い闇の中に沈んでしまった。
手にしたバットだけが光り輝いている。
そうだ、このバットをくれたのも母さんだった。
――待ちなさい、龍一。一応、これ持っていきなさい。
――あんただって男なんだから、自分の身くらい自分で守らないと!
そう言ってくれたのが、もうずいぶん昔のことのような気がする。
あんまりこれが活躍することはなかったけれど、今も、これをちゃんと活躍させられているとは言えないけれど、母さんが言っていた意味が少しわかったような気がした。
そうだ。
僕はこれを、自分の身を守るために使わなくてはいけないんだ。
理不尽な世界からもう攻撃されないために。
「僕は、僕でありたい。どうかこれからも……僕でいさせてくれ」
そうつぶやくと、バットにピシリと亀裂が入り、まるでガラスの破片のようにそれが一枚ずつ剥がれていった。
破片はすべて足元の闇の中に吸い込まれ、すっかり辺りは暗くなってしまったが、最後の一辺だけが手元のところに残っていた。
そこには笑顔のジュン姉と母さんが……映っていた。
「ジュン姉……! 母さん……!」
破片の中のジュン姉と母さんは、不思議そうに僕を見ている。
「どうしたのーリュー君、早くこっちにおいでよー」
「そうよ龍一。もう純ちゃん待ちくたびれちゃってるじゃない。早く。ぐずぐずしない!」
ジュン姉? 母さん?
僕に、話しかけているのか? それは、こんな破片越しじゃなくて……。
そう思ったら、気づけば自宅のダイニングにいた。
「へ?」
手にはあの黄金色のバットが握られている。
「どうしたのリュー君。それで本物の野球でもしたくなったのー? でもやっぱりこっちのゲームだよー。ようやくこの球団が、強くなってきたんだからさー。もうすこし育成しよー?」
そう言って、ジュン姉はリビングのテレビの前でくつろいでいる。
床には見慣れたゲーム機が置かれていた。
テレビ画面には……「プロ野球チームをつくろう」というゲームの映像が流れている。ピコピコと、コントローラーを動かすたびに軽快な音が室内に流れていた。
「ふふふ、純ちゃん、このバットねー、うちの主人が若い頃草野球で使ってたやつなのよー」
「え? そうなんですか?」
「ええ。懐かしいわぁ。龍一も小さい頃はよくこれで主人と遊んでた気がするけれど」
「へえ……でもなんで今? リュー君、これからわたしたち出かけるんだよー? 早く早くー」
ゲームを進めながら、ジュン姉がそんなふうに言ってくる。
「ほんと……急にそんなもの出してきたりして、なに考えてんの? ずいぶん長いこと庭の物置に入れておいたのに。龍一、どうでもいいけどそれ、ホコリっぽいからそのまま家の中に入れないでくれる?」
バットはよく見るとうっすらと土埃が付いていた。
僕は急いでそれを玄関に置いてくる。
「ゆ、夢……じゃないよな?」
ダイニングに戻ってきた僕は、手の甲をつねりながらそんな風につぶやいた。
「ちょっと龍一……大丈夫? 今日、これからどこに行くか解ってる?」
「え……?」
コンコンと指の背で軽く僕の頭を叩いてきながら、母さんが言う。
「あんたが晴れて中学三年生になったんだから、そのお祝いをしようって話だったでしょ。これから『海女』に行くの。そのためにわたしも早く帰って来たんだから……早く支度なさい!」
どういうことだ?
中学三年生になった? 僕が?
キョロキョロとあたりを見回すと、食卓の上に置かれた新聞がちょうど目に入った。
「四月、一日?」
日付を見て愕然とする。
どうやら僕は、「中学三年生の始業式の日」に舞い戻ってしまったようだった。




