ジュン姉の秘密
0723/18:15/成神さん・ジュン姉/境雲神社
春と違って、夏は日没の時間が遅くなる。あたりはまだ明るく、森の奥からはカラスの鳴き声がしていた。
ジュン姉はあと一時間弱はこの境雲神社にいるはずだ。今日の「夜のお役目」が始まるまでに、ここの調査を終えないといけない。
僕と成神さんはさらに神社の奥へと進んでいった。
「あっちに行こう」
「はい……」
成神さんの後につづいている僕は今、複雑な心境だった。
ジュン姉に会いたいのに……会いたくない、そんな矛盾した気持ちを抱えている。
たとえ出くわしたとしても、僕だけはコワガミサマから受けた天罰で、ジュン姉を見ることはかなわない。
それなのに……。
なんだか怖かった。
知らないことばかりが次々判明して。
ジュン姉とコワガミサマのことをあえて、いろいろ知ろうとしてこなかったっていうのはあるけど、でもそれは……こういう妙なことを急に知らされるんじゃないかって、そんな危機感があったからなんだ。
でも、見事に的中してしまった。
宮内あやめと園田が言っていたこと……。
それらが、さっきから頭の中でぐるぐるしている。
「この先、かな?」
成神さんが指し示したのは、細いしめ縄が天上からいくつもぶら下がっているゾーンだった。
その先には、障子戸が廊下の左右にずらっと並んでいる。なんだか気味が悪い。でも、おそるおそるそこを進んでいくと、やがて大きな暖簾が見えてきた。
藍染の、一辺が二メートルはある正方形の布。
その中央に白抜きでタコの絵が描かれている。
「これは……ジュン姉が被っていたお面と同じ絵、か?」
「…………」
近くに行ってよく見ると、それは正方形ではなく、縦に切れ目がある、八つの短冊の集合体だった。僕らはそれをめくろうとして……。
「いや、ちょっとそれには触れない方がいいだろう」
なぜか成神さんがそう言ったので、這うようにしてその下をくぐる。
奥は暗がりだった。
わずかな天窓からの光以外は、真っ暗な和室である。雨戸が締め切られているのだろうか。三十畳ほどの畳の中央には、真っ白な布団が敷かれていた。そこには……。
「誰も、いない?」
かけぶとんもなく、ただ敷布団だけが置かれていた。
周囲には誰もいない。
「いや、いるよ……。君に見えないということは……」
成神さんがそっとつぶやく。
見えない? だったらそれは……。
「ジュン姉? ジュン姉が、あそこにいるっていうんですか?」
「ああ。君にはやはり見えないのか」
「ジュン姉……今、どうしているんですか。僕の代わりに見て、教えてください。成神さん!」
「……しっ」
声が少し大きくなりはじめたのを、たしなめられた。
成神さんは前方を見つめたまま眉根を寄せている。
「矢吹君、コワガミサマというのも見えないかい?」
「え? コワガミサマも……あそこにいるんですか?」
「それも見えなくなっているのか」
「ええと……たぶん」
そう。僕には今、何も見えていない。
コワガミサマ自体も見えなくさせられている。だとしたら驚きだった。それもさっきの天罰に含まれて……。
いや。
目を凝らす。目を凝らす。目を、凝らす。
すると、どうにか……ああ、うっすらと見えてきた。
そうだ。昼間のコワガミサマはほぼ無色透明の姿だから、この暗い部屋の中ではよく見えなかったんだ。それだけのことだったのだとわかり、僕はホッとする。
「あ、ご、ごめんなさい。今ようやく見えてきました。透明で……大きな人が立ってます。あれは触手を……?」
「そうか。いや、それならば……それだけならば、いいんだが」
成神さんはなぜかそう言いながら口をもごもごさせていた。何か、とても言いにくそうに。
どうしてそうしているのだろうと思っていると、突如女性の悲鳴が聞こえてきた。
「ああっ、やだっ! やめてっ、うううっ!」
それは聞き慣れた女の人の声だった。
……ジュン姉。
ジュン姉が、あそこにいる!
何も見えない僕は必死で耳をすませた。
「あああっ、リ、リュー君、リュー君っ! うう~~っ、あああっ!!」
僕の名を呼んでいる。
そして、なぜか苦しみの声をあげていた。助けを求めているようにも聞こえる。早く、早く何とかしてあげなくちゃと、僕は――。
「ジュンね――」
呼びかけようとして、隣にいた成神さんにすぐ口を塞がれてしまった。
な、なにを……!
そう思いながら成神さんをにらみつけると、成神さんは押し殺した声で言った。
「落ち着くんだ。矢吹君。今は……『調査』をしなくてはいけない。君にとって、今これは辛い状況かもしれないが、しばらく黙って見ていてくれ」
「……」
僕は歯噛みをしつつも、ようやくコクリと頷いた。
すると成神さんは、そっと僕を離し、もう一度布団のある方向を眺めるよう促す。
僕には相変わらずひっきりなしにコワガミサマの触手が蠢いている様子しか見えなかった。いったい成神さんにはどんな光景が見えているのだろう……。
「むごい……。あ、あんな……」
ぽつりとこぼされた言葉に、僕は背筋が冷たくなった。
むごい、って? 何だ?
コワガミサマに、ジュン姉が何かされてるんだろうか。いったい、何を……。
しばらくすると、うめき声を上げていたジュン姉の声がぱたりと止んだ。そして突如、何もない布団の上の空間からたくさんのミツメウオが湧いて出てくる。
「え?」
ボタボタとそれは布団の上に落ちて、布団の後方へと飛び跳ねていった。
「なっ? えっ……?」
一瞬何が起きたのかわからなかった。
やがて、部屋の奥から水音がしはじめる。十匹以上はいたであろうミツメウオたちは、すべてその水音がした方向に移動していた。
暗がりに目が慣れてくると、その水音がしたのは大きな丸い桶であるというのがわかる。
ミツメウオたちはその桶の中で元気よく跳ねまわっていた……。バシャバシャ、バシャバシャと。和室には本来ありえない物音が辺りに響きわたっている。
【今日の対価は、以上だ。明日も我の子を孕み、その産みの罪悪感を我に捧げよ】
コワガミサマの低い声がした。
え?
今……何、を……罪悪感?
「成神、さん……。今『子を』とか、『産みの』とか……聞こえたような気がするんですけど……」
「ああ、そうだね」
「どういうこと、ですか? ジュン姉は何を、して……されてたんですか?」
「…………」
成神さんはほとんど呆然自失の僕を、部屋の外まで連れて行ってくれた。
「矢吹君……」
「ねえ……あの、成神さん?」
軽く失神しそうになるのをこらえながら、成神さんに訊ねる。
「なんで……答えて、くださいよ。僕には見えなかったんだから。僕の代わりにちゃんと説明してくれなきゃ、困るじゃないですか……?」
「本当に、聞きたいかい。矢吹君」
「はい……聞きたい、です」
「本当の本当に?」
「しつこい、ですよ。いいから早く……早く話してください!」
キッとにらみつけてつめ寄る僕に、成神さんはしばらく目を伏せてから言った。
「彼女は……君の幼馴染のお姉さん『ジュン姉さん』は……あの触手の化け物に、犯されていた」
「犯さ……え?」
「何かを孕まされ、そして結果、あのような魚を……出産させられていた」
「……えっ? 待っ……」
理解が、追いつかない。
そんな……そんなことが……。成神さんは僕の状態を見ながら、それでもさらに言いにくそうに続ける。
「そんな非現実的なこと、信じたくはないだろう。でも、現に、魚は……」
僕はそこまで聞くと、声にならない悲鳴をあげた。
口元を両手で押さえ、足踏みをしようとしてバランスを崩す。すぐ目前に廊下の木目が迫ってきた。それを見た瞬間ぶわっと涙があふれ出す。
なんで。
なんでジュン姉が……!
なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで!!!!!
わけもわからず、疑問をひたすら繰り返す。
「できれば伝えたくは……なかった。でも、あれは異常だ。神の子を孕むなんて、まるで苗床――」
「……!!」
なんてことを言うんだ。
あまりの言い方に、僕はついカッとなって成神さんの胸ぐらを掴む。
「ジュン姉、をっ……! ジュン姉のことをそんな風に言うなっ! たとえそれが事実であっても、そんな、そんなこと……!」
「ああ、いや、すまない。俺だってまさかあんなことが起きるなんて……あまりの衝撃につい……」
「ああああっ、ううう~~~っ!!」
僕はパッと両手を離すと、またすぐにうずくまった。
どうして、どうして。ジュン姉がこんな真似をさせられなきゃならないんだ? どうして、どうして……。
そう思っていると、奥の部屋からジュン姉の嗚咽が聞こえはじめてきた。
「リュー君……リュー君……。ああっ……ごめん、ごめんね……あなたを救うためにはこうしないと……あなたに会うためには、こうしないと……ううっ、ごめんなさい。いや! 嫌われたくないっ。死んで……ほしくない! リュー君、リュー君~~~~っ!!」
最後の方はもう絶叫と化していた。
今、ジュン姉がどうなっているのか……成神さんにもう一度訊いてみたかったが、その勇気は出なかった。
ジュン姉はかつてこう僕に言っていた。「どうやって叶えてもらったか、なんて……それを知ったら、きっとリュー君に嫌われちゃうよ」と――。
その頃から、こんなことを強要されていたのだろうか。
たしかに、これは相当の罪悪感を抱く行いだ。好きでもない人……というか神様と、セックス……するなんて。絶対誰にも言えないことだろう。
どんなに辛かっただろうか。
それを思うと、強烈に胸が痛んだ。
「ジュン姉、ジュン姉……」
僕は自分の無力さを呪った。今度こそ呪った。
どうして何もできないのだろう。ジュン姉がこれほど苦しんでいるというのに。なんてていたらくだ。死にたい。死んで詫びたい。能天気に、夜のお役目をデートだなんて言いかえたりして。その間も、ジュン姉は毎日辛い思いをしてきたのに――。
「さあ、矢吹君。立って」
成神さんは僕の手を取ると、強引に立ち上がらせてきた。
「これが最後の『調査』だよ。これから、例の『夜のお役目』とやらを見にいく。そこで、いよいよあのコワガミサマと対峙しようと思う」
「え……コワガミサマ、と……?」
「ああ。まだ、ついて来てくれるかい?」
僕は涙に濡れた目で彼を見上げた。
唯一の希望は、もうこの人だけだ――。そう思った。
成神さんは優しい微笑みを浮かべている。僕にはそれが、まるで天使か神様のように見えた。




