ジュン姉とプール
0723/14:45/ジュン姉/日向家の庭
一瞬、何を言ってるんだと思ったけど、ジュン姉はさっそく手招きして、僕を庭の方へと案内してきた。僕はしぶしぶそれに従う。
日向家の庭――。
ここへ来るのは久しぶりだった。
最近はもっぱら僕の家でゲームするだけだったから。
小さな頃はよく遊びに来ていた、「懐かしい空間」。
一面芝生に覆われていて、子供用のブランコやジャングルジムなどが錆びついたまま置かれている。家の南側には花壇があって、ジュン姉のお母さんが育てているであろう花々が美しく咲き乱れていた。
でも今、その庭の中心には意外なものが出現している。
水色のビニールプール。
こんなのは一度もこの家で見たことがなかった。
僕らはこれで遊んだことは無い。
その見慣れぬプールには、なみなみと水が溜められていた。
「さっ、時間もないし、入ろー!」
ジュン姉はそう言うと、ホップステップジャンプの要領でそこへと大きく飛び込む。
ばしゃーんと水しぶきが高く上がって、僕の方にまで水滴が飛んできた。
「あははははははっ!!」
盛大にプールの底に尻餅をついたのか、ジュン姉は空を見上げながら大笑いしていた。
さらにばしゃばしゃとバタ足をしながら、ジュン姉がこちらにくるっと体を向ける。
「ねえ、リュー君も入ろ?」
「え……」
息がしずらくなったのか、ジュン姉は白いタコのお面を少しずらす。そして、その隙間からいたずらっぽい目を僕に向けたのだった。
相変わらず、おぼろげな顔のジュン姉。
でも、目や鼻や口の「パーツだけ」は何故かちゃんと認識できるのだった。
それにしても、なんて透き通った目なんだろう……。吸い込まれそうだ。
「暑いしさー。プール入りたいなーって思ってたの。で、コワガミサマにお願いしたらさ、叶えてもらったんだー。このプール、梅木さんって人に貸してもらったんだよー。ね? だからリュー君も一緒に遊ぼー!」
「えっと……」
梅木さんってあの梅木さん?
東の山のふもとに住んでいる梅農家の人だ。
たぶん神社経由でビニールプールを所持している人を探したんだろう。
この件にはきっと、あの宮内あやめたちも関与してるはず……。
僕は周囲を警戒しながら、一歩ずつプールへと近づいた。
一緒にってことは、一緒にこのプールの中へ入る、ってこと……だ。そうだ、そうだよな? そう頭の中で反芻しながら、服を脱ごうか迷う。
ジュン姉は、布のような白いタコのお面をぺらっと手でめくると、それを頭の後ろにかけた。もう完全に顔が露わになる。ぼんやりした顔。
「リュー君。あーそーぼ?」
ダメ押しでそう言われると、僕はくらくらしてきてしまった。
それはこの暑さのせいだけではなく。
ジュン姉は今やプールの中で体育座りをして、甘えるように僕を見上げていた。
「……っ」
こんなの、反則だ。
可愛すぎる……。女神か!
ジュン姉をあまりそういう目で見ないようにしていた僕だけれど、これは……危険だった。よく見ると白いビキニは水を吸って少し透けはじめていたし、そして全身も……水に濡れてテラテラと光っていた。
「……っ」
僕は思わず下を向いてしまった。
これ以上は刺激的すぎる。ドキドキしすぎて死んでしまいそうだ。
「どしたの? リュー君。せっかくなんだから早くー」
そんな僕の状態など知る由もないジュン姉は、少し焦れたように急かしはじめる。
ああもう。どうにでもなれっ!
そう思った僕は……おもむろに服を脱ぐと、トランクス一丁になってプールに飛び込んだ。
「わーい! リュー君も入ってくれたー! そーぉれー!」
笑いながら、ジュン姉が手で水鉄砲をしてくる。
「うわっ、ちょっとジュン姉!」
「あははっ。ごめんごめーん。それにしても……ちょっと見ない間にまた白くなったねー」
「え? 白く……?」
水が顔にかからないように手で遮っていた僕は、そう言われて改めて自分の体を見下ろしてみた。
「完全夜型人間になっちゃったからねー、わたしたち。どうしてもそうなっちゃうよねー」
そう言うジュン姉も、雪のように真っ白な肌をしていた。
普段は服に隠れている部分の素肌が、目にまぶしい。
「ねえ、リュー君」
「ひ、ひゃいっ」
じーっとジュン姉の胸元を見てしまっていた僕は、急に呼ばれて裏声を出してしまった。
ぴゅーっと、手でまた水鉄砲の水がかけられる。
「さっき……誰かと会ってた?」
「……」
僕は心臓がきゅっと締め付けられたみたいになった。
見透かされて……いる。
「コワガミサマがね、またわたしにそう言ってきたんだー。でも、どんなやつなのかわからない、とも言ってた。ねえ、どんな人なの? リュー君」
「……」
僕は答えない。
これは、成神さんの言っていた、相手に知られないようにする「術」とやらの効果だろう。コワガミサマは誰かが僕と会っていた、ということまではわかっていても、その相手がどんな人物なのかまではわからないようだ。
「答えてくれないんだ……」
「ご、ごめん。ジュン姉」
ジュン姉がしょぼんとしている。
なんとなくうなだれた姿からそう判断したのだけど、次の瞬間、ジュン姉は驚くべき行動に出た。
ぐいっと突然僕の右手首を掴んだかと思うと、そのままその手を自分の乳房へと押し付けてきたのだ。
「これでもー?」
「えっ? じゅ、ジュン姉!?」
じっと、僕の顔を見ている。
でも、その確固たる意志に僕は違和感を抱いた。
こんなの……。
「こんなの、ジュン姉じゃないっ! どうしたんだよジュン姉。こんなことするなんて……変……なんだかおかしいよ!」
僕はとっさにその手を振りほどこうとしたが、それこそ馬鹿みたいな力でジュン姉は僕の手を掴み続けていた。
「ふふふふ……。いいんだよー。触ってもー。ほら、やらかいでしょう?」
そう言って、さらに手を押し付けてくる。
僕はドキドキしていたけれど、それ以上におかしいなと思っていた。こんなことするジュン姉なんて、僕は知らない。
「やめてくれ……ジュン姉。こんなの変だよ。どうしてこんな……」
気付けば僕は泣きそうになっていた。
僕は、ジュン姉が好きだ。
それは恋心という意味で。ずっと友達とか、幼馴染として、家族みたいに好きだったけど、ある時からものすごく好きになった。
でも、いつだってジュン姉とは……こんな雰囲気にならなかったんだ。
それは本当で、こんなことをしなくたって、一緒にいるだけで幸せな気分になっていた。だから、こんな不埒なことをしたり、考えるヒマさえなかった。
いや、正確にはひとりでいる時、ちょっとそういうことを想像もしたりもしたけど……。
ジュン姉だって、僕を男として見てくれてるって思うときがあったけど、でもこんな風に急に距離を詰めてくるようなことはしなかったんだ。
本当に、僕は大事にされていて……。
だから、こんなジュン姉は知らない。
お前は……いったい誰だ?
そう思いながらきつくジュン姉を睨みつけると、ジュン姉はパッと僕の手首を離した。
そして、うううっと頭を押さえながらうめき始める。
「やめ、て……下さい。リュー君を……傷つけないで……」
「ジュン姉?」
そんなことをつぶやくジュン姉に、僕はハッとした。
もしかして……コワガミサマに操られている、のか?
「嫌……リュー君に嫌われたく、ない。ごめん。リュー君……」
「ジュン姉!」
僕は、相変わらずぶつぶつと呟くジュン姉を見て、妙に思うと同時に、すぐに猛烈な怒りが湧いてきた。
それはコワガミサマに。
コワガミサマがこんなことをさせた。
僕が誰と会っていたのかを吐かせたくてこんな催しを企てた。もしそうだったとしたら……。
許せない――。
そう思ったら……いろいろ消化しきれない感情が、ぶわわっと湧いてきた。
僕はコワガミサマに向かって言った。
「コワガミサマ……。ジュン姉に、こんなマネさせたのはコワガミサマだったんですか? なんで……ひどいですよ。僕はジュン姉が大好きです。でも、だからといって……こんなジュン姉が嫌がるようなマネをさせるなんて……」
「リュー君……?」
「ジュン姉、ごめん。僕やっぱり許せないや。ジュン姉は僕を大事にしてくれてたのに、僕もジュン姉を大事にしたいのに、コワガミサマがそうさせない。こんなの、絶対間違ってる!!」
僕はプールから立ち上がると、ジュン姉、もといコワガミサマを見下ろして言った。
「僕はジュン姉の付き人をもうしない。降りる。ジュン姉だってもう、こんな神様の言う事なんて聞かなくていい。夜のお役目だってやらなくていい。コワガミサマのお嫁さん? そんなの……そうなる前に僕が……ジュン姉のことをお嫁さんにしたかったよ!」
そう叫ぶと、ジュン姉の口から低い声が出た。
【そうか。ではお前はもう用済みだ。日向純はとっくに夜を克服している。もっと早くこうするべきだった。それなのに……この娘が我にそうしないよう願っていた。だがそれももう終いだ】
庭の奥から、わらわらと黒服が出てくる。
やっぱり頭地区の人たちが近くにいたようだ。宮内あやめは……なぜかいなかった。かわりに園田が一歩前に進み出る。
「ようやく、ここまで来ましたか。むしろ早かったというべきですかね。お嬢様もお喜びになるでしょう。あなたが自ら破滅を選択したのですから」
「くっ。園田……」
相変わらずムカつく。
園田はまた僕を殴りたそうに両手の指をぽきぽきしていた。だが、もうその拳は食わないぞと心の中で強く誓う。
ジュン姉がまたコワガミサマの声でしゃべった。
【では、天罰を与える……。お前はもう、この日向純を見ることは叶わぬ】
「え?」
次の瞬間、僕の目の前から水着姿のジュン姉が「消えた」。
僕は周囲をキョロキョロと見回す。
「え? ジュン姉? 消え……?」
「リュー君? いるよー、わたし、ここに……!」
ぱしゃぱしゃとプールの水面が跳ねる。
ということは……そこにまだジュン姉がいる? でも、僕の目にはまったく映らなくなっていた。これが、天罰か。あまりにも僕には酷過ぎる罰だ。
「では……さらにあなたにはふさわしい場所に行ってもらいましょうか」
そう言って、園田がゆっくりと近寄ってきた。
処分。
いつかの言葉が脳裏をよぎる。
「ごめんっ! ジュン姉!」
僕は服を掴むと、とりあえずその場を離れることにした。
ジュン姉に渡したお守りを途中で取り落してしまったが、拾っている暇は無く、急いで僕は庭を出た。表には他にも黒服がいた。でも、どうにか巻いて僕はとある廃屋に逃げ込んだ……。




