愚かな男の純情と馬鹿な女の願いと
俺の彼女は3ヶ月前に死んだ。
彼女の名は佐伯一葉。俺と一葉は職場の同僚で同期採用だ。元来、俺は無口で無愛想で表情も変わりにくい。だからなのか、他人が端正だと誉める相貌は冷たく機械的に見えるらしい。事実、感情の起伏が小さく、心動くことはほぼ無い。お陰で「マシーン野村」だなんていう、ろくでもない渾名を頂戴する羽目になっている。
そんな俺が好きになった女性が一葉だった。
彼女は明るくて、目立つようなタイプではないが周りを照らすような優しい輝きを持った人だ。木漏れ日を思わせる、そんな温かさがあった。出会った時から彼女といると、マシーンと呼ばれる俺の心がどうしようもなく揺さぶられた。それが恋だと気付くには時間はかからなかった。
正直、俺と一葉の性格は真逆で、好かれる要素は何も無い。光と闇、火と氷。決して相容れない関係だ。だから、この恋は叶わずに終わるはずだった。
それなのに、俺は一葉に告白された。
あれは珍しく同期で飲み会をした時のこと。次の日が出張だった俺と自宅が遠い一葉は、二次会をパスして駅までの道を歩いていた。二人きりということに柄にもなく緊張し特に会話も無い道程。
あと少しで駅に着くという頃だっただろうか。急に一葉が俺の上着を引っ張った。振り返れば、俺をじっと見上げる真っ直ぐな視線とぶつかる。一葉の目は街灯に煌めいて、そこに夜空があるみたいに綺麗だった。
『私、野村君が好きなの。付き合ってください』
一葉の瞳に気を取られていた俺に落ちてきたのは予想外の告白。理解できずに困惑する俺に、拒絶されると勘違いしたのか、一葉は言葉を重ねていく。
『ずっと好きだった』
『野村君の優しさを知って、もっと好きになった』
『傍にいたい』
俺にとっては到底理解しがたい言葉だ。確かに一葉は他の誰より傍にいて俺を見てきた。うまく表面を取り繕って関わるには近すぎた。だから、他の誰より俺を知っている、そう思う。
けれど、好かれていると実感できなかった。告白を素直に受け取ることができるほどの自信がなかった。なのに
『分かった』
俺の口は勝手に動いていた。意図せずに零れた了承に、頭が真っ白になる。
俺は今、何を言った?
『嬉しい…野村君』
自分の返事に戸惑う俺をよそに一葉は微笑んだ。強張った表情が花開くように綻んでいく。恥ずかしそうに、でも幸せそうに広がる笑顔に、俺は息を止めた。
胸が、たまらなく熱い。
初めての感覚この告白がたとえ幻だとしても、傍にいられるならそれでいいと思った。
だが、俺はそれを言葉にはしなかった。気恥ずかしさもあったし、初めての感情をもて余していたのもある。それにきっと、一葉なら言わなくたって分かってくれるんじゃないかと思った。
…それがただの甘えで、二人の歯車がずれていく序章になってしまったことに、その時の俺は気づけなかった。気づいたのは、もっと後。一葉が死んでからだ。
俺の配属されている部署は海外営業部という、言葉通り営業職だ。それも海外出張の多い部署で、頻繁に世界各地を飛び回る。
俺は営業には向いていないと思っている。しかし、父親がカナダ人であるため英語が母国語のように使えること、小さい頃は中国にいたから片言の中国語の読み書き、会話ができるので、それを生かすべく配属された。愛想笑いや営業トークを駆使し、なんとなく業務に就いて早5年。少しずつ結果を認められ、大きな仕事も任されるようになった。
4ヶ月前の中国への出向も、大口の取引先との商談のためのものだった。新規の取引先ではないから、簡単に話がまとまるとばかり思っていたのに、商談が思うように進まず、内心苛立ちが募っていた。
そんな時だ。一葉から電話があったのは。
今思えば彼女は様子がおかしかった。普段なら「野村君、仕事忙しい?」と窺うような声音で始まる会話が、その日に限って無かった。何だかんだと出張の多い俺は、携帯が留守番電話になっていることも多い。けれども、一葉の柔らかく温かい声に癒され、安堵していた。
それが今は無い。あるのは沈黙で、俺はそんな普段との違いに不安と焦燥に駆られた。その気持ちが仕事の苛立ちと相俟って、理不尽な怒りになる。
「佐伯?どうした?今、仕事が忙しいんだ」
八つ当たりのような言葉。自分でも分かっていた。それでも平然と吐き捨てたのは、間違いなく一葉に甘えていたからだ。彼女は朗らかですべてを許してくれる、そんな誤った考えが頭の中を支配していた。自分よがりな思考が、彼女の出した微かなSOSを取り零していたなんて思いもしないで。
「…だから、別れよう」
一瞬、何を言われたか分からなかった。ちゃんと耳に流れ込んだはずの言葉は、最後に付け足された最後通牒に因って全て霧散していく。
別れよう…?
どうして。
自分の中で疑問ばかりが膨らんで、考えがまとまらない。脳が正常に機能していないことを感じながら、とにかく言葉を探す。
「分かった、でも」
理由を教えてくれないか。
咄嗟に紡いだ言葉は掠れていて、想像以上に自分が動揺していることを知る。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、彼女は一方的に涙混じりに何かを話すと通話を切ってしまった。通話終了を示す無機質な音に、俺の焦りは増幅していく。
急いで折り返した電話は繋がらず、彼女が携帯電話の電源を切ったことを告げるメッセージだけが耳に届いた。
「くそっ!!」
俺は近くにあったベッドのサイドボードを蹴った。ここは会社が借りているホテルの一室だから、物を壊したら会社が弁償することになる。そうなると、自分にも上司からの訓戒があるわけで面倒なのは解っていたが、沸き上がる不安を掻き消すためには何かに当たらずにはいられなかった。
サイドボードからは腕時計やらさっきまで見ていた資料が落ち、無惨な状態になっている。
それを見て、どうしてだろう…別れを切り出されて動揺しているくせに、腹の裡には、彼女しか自分の心を動かせないのだと冷静に観察する俺がいる。いや動揺しているからこそ、冷静な自分が際立って見えるのかもしれない。
「とにかく、帰らないと」
混乱を極めた頭が導き出したのは、迷子になった幼子が思うことと大差ないことだった。
半ばごり押しで契約を奪い取った俺は帰国するとまず、人事課に行って彼女の連絡先を教えてもらうことにした。恥ずかしいことだが、俺は彼女についてほとんど何も知らなかった。住んでいる所も生い立ちも、好みも。何も知ろうとしてこなかった。知ってしまえば、ストーカーのようにとことん彼女を知りたくなる自分が怖かったし、何よりそのことで彼女に嫌われたくなかったからだ。…今となれば、そんな矜持など捨ててしまえば良かったと思う。彼女に自分の心を伝えられないことや彼女を失うことに比べたら、大したことではなかったのだ。
最近はプライバシーの保護とやらで人事課どころか、彼女の在籍していた課でもなかなか教えてもらえず、粘り勝ちして彼女の実家の住所を手に入れた時には既に別れを切り出されてから3週間が経っていた。
俺は急いで彼女の元へと向かうことにした。入社してから一度も有給を使ったことのない俺が鬼気迫る顔で半日休を願い出たものだから、上司は驚きを露に俺をまじまじと見回した。
「身内に不幸でもあったのか」
ようやく口を開いた上司の第一声がこれだから、普段から如何に俺がどう思われているのか指して図るところだ。曖昧に笑えば、それが真実だと思ったらしい、俺が一言も発しないうちに受理され、驚くほど簡単に早退することができた。
歩き慣れた駅までの道を早足で進んでいく。職場で聞いた話だと一葉はオーストラリアに留学すると言っていたらしい。確かに最後の電話でも本人から聞いたような気もするが、何せ動揺しきっていたから記憶は酷く曖昧だ。…けれど何故、仕事にも慣れてきた今になって一葉は留学しようと決めたのだろうか。
こうして考えていると、今まで知った気になっていた彼女が急に得体の知れないもののように感じられて背筋に冷たいものが走る。彼女が不気味だとかそういうわけじゃない。ただ俺と彼女の関係性があまりに希薄なことを突き付けられて、その関係の不安定さに慄いたのだ。
どうしたら彼女を失わずにいられるだろう。
ポツリと落ちてきた切実な疑問は俺の中で瞬く間に広がっていく。彼女を失いたくない、それが素直な感情だった。
ふと、鞄の中に彼女にプレゼントをしようと思っていたものがあったのを思い出し、俺は乗り込んだ電車の座席に座るとすぐに鞄を開けた。
それは鞄の底にあった。
ベルベットの小さな箱を開けると、ダイヤが光を反射して煌めいた。一葉と付き合い出して柄にもなく舞い上がって買った指輪。生まれて初めての衝動買いだったから、自分で自分に驚いたのだ。とはいえ恋人に初めて贈るプレゼントにしては重いだろうと思い、いつか渡そうと考えながら忘れてしまっていた。
そうだ、結婚したらいい。
それなら彼女の隣にいられる。
彼女がどう答えるかは想像したくなかったが、結婚しようと即決できるほどに彼女を愛している自分を俺は自然と受け入れることができた。
一葉を愛している。
それだけでこんなにも胸が熱い。焦げそうなくらい熱くなる。初めての感情は戸惑いよりも幸福を与えてくれた。
…この後すぐに、一葉がこの世のどこにもいないという事実を知らされて人生のドン底に叩き落とされるとは知らずに。
一葉が死んだと知ってからも俺の生活は何も変わらなかった。元々マシーンと呼ばれる俺が無表情でも、周りは気にも止めない。俺も心が凍りついて何も感じなくたって、それは一葉に会う前の自分に戻っただけのことで、生きていくには何の支障もない。
ただ、時折無性に死にたくなる。
一葉がいないことをふとした瞬間に感じてしまうと、心が溢れ出してしまいそうになる。そして何もできずに彼女を失った現実に絶望する。
今の俺にとって、生きることは罰を受けていることに等しい。
生きていれば辛い現実を見なければならない。生きていれば心が行き場のない想いを溢れ出させる。生きていれば、一葉を思い出すのだ。
「死んでもいいかな…」
唇から零れた言葉には誰も気づかない。俺が何を言っても誰も気にしない。気にしてくれたのは一葉だけだった。そんな彼女がもういないのなら。
休日、俺はとある海岸に来ていた。ここは生前の一葉と休みに来ようと約束した唯一の場所だ。静かな海の景色が目の前に広がっていて、微妙な光の具合で変わる色を、俺はぼんやりと眺めていた。
幸いなことに冬場にこんな場所へ来ようと思う人はいないらしく、俺は誰に咎められるでもなくそこに居座り続けた。
朝から昼、そして夕方へと時間が過ぎても俺は海を眺めた。一葉とのことを一つ一つ思い出しては海に溶かし込んでいく。それが全て終わったら、俺もこの海に流されていこう。
「…あの」
夕日が沈み終わる頃、誰かが俺の肩を叩いた。ゆっくりと緩慢な動作で見上げれば、一葉と同じくらいの女性が立っていた。
「貴方の名前を教えてくれませんか」
唐突な質問に面食らいながらも俺は素直に答える。
「野村正道です」
「やっぱり…。一葉の彼氏さんですよね」
「…?はい」
「良かった。やっと来た」
突然、華やいだ声を出した女性を、呆気に取られて見上げていると、女性は手に持っていた封筒を差し出してきた。
「私、そこにある雑貨屋の娘で、一葉の大学の友人です。…あの子が死ぬ前に、その手紙を託されたんです。もしも野村正道という人がここを訪れたら渡してほしいって」
その言葉に俺は封筒を凝視した。一葉から最後にもらったのは別れの言葉だけだった。この手紙には何が書かれているのだろう。恨み節なのだろうか。
震える手で受け取ると、女性は微笑んで「冷えますから、そろそろ温まった方が良いですよ」と言ってカイロを俺に渡すと去っていった。
『拝啓 野村正道様
こうして手紙を書く日が来るなんて、正直今の今まで思ってもみませんでした。
私は胃ガンを宣告されています。あなたがこれを読む時には、私は死んでいるはずです。
あなたに別れを告げてから、やっぱり最後に贈る言葉が別れの言葉だなんて嫌だと思い直して手紙を書きました。直接言わなかったのは、きっとあなたの声を聞いたら「助けて」って言いたくなるから。あなたの心の中に私がいないと解っていても、どうしてもすがりたくなるから。だから止めました。…本当はこの手紙も、あなたのためを想うのなら読まれずにいた方が良いのでしょう。けれど諦めの悪い私は手紙を残します。私との約束をあなたが覚えていることを期待して書きます。もし読んでくれているなら、それは私のことを少しでも想ってくれた証だと思うので嬉しいです。
野村君、私はあなたといられた日々は悲しいことも多かったけど、やっぱり幸せでした。好きな人の隣にいられる幸せをくれてありがとう。
私は野村君のことがとても好きです。新卒の時、よく黙って仕事を手伝ってくれたよね。遅くなると駅まで送ってくれたり、机に缶コーヒーを置いてくれたり。野村君にとったら取るに足らないことだったかもしれないけど、私は嬉しかった。皆はあなたをマシーンだと言うけれど、私にとっては優しい血の通った男性だった。だから好きになっていったの。
野村君ともっと一緒にいたかった。もっと話がしたかった。抱き締めてもらったりキスしたり、そういうこともしたかった。
これ以上思い出を作れないのは残念です。片想いでも良いから、野村君と生きていたかった。
私はどんな時でも野村君の幸せを祈っています。不幸になるなんて許さない。だから、私のことは忘れてください。私よりもずっと素敵な人が野村君にはお似合いです。あなたの優しさ、不器用さを解ってくれる人がきっといます。
私があなたを好きになったように、あなたも他の誰かを好きになってください。それが私の最後のお願いです。
今までありがとう。幸せになってね。さよなら。
一葉』
ポタリ、と水滴が落ちて手紙の文字が滲んでいく。
想いが、言葉にならない。
「一葉、一葉、一葉…」
何度も彼女を呼んで、俺は声を上げて泣いたのだった。
一葉の手紙を読んでから、俺は仕事を辞めた。実家に帰り、農家を継いだ俺は、毎日泥まみれで働いている。会社で働いていた時より体はキツイはずなのに、確かに生きている自分を感じられる。
一葉が俺に託した願いはまだ叶うことはないけれど、見合いをした女性と少しずつ歩み寄っていく努力をしている最中だ。いつか、一葉を愛した時のように彼女を愛せたらいい。そう思っている。
「正道さん!」
彼女が向こうで大きく手を振る。実は彼女が一葉によく似た面差しと性格だから、時々一葉がそこにいるような錯覚をしてしまう。けれども、やっぱり一葉は一葉で、彼女は彼女だ。一葉だったら多分、あんな風に器用に畦道を走って来ない。二人の違いを確かめながら、少し淋しく、そして嬉しく思う。
手を振り返せば、彼女は笑顔を見せてくれた。
なぁ、一葉。
俺はお前を愛してるよ。
でも、もう一人。
愛する人ができそうなんだ。
だから見守っていてほしい。
いつかまた会えるその日まで。
この結末で良かったのかと正直迷いましたが、一応ハッピーエンドかなぁ?と思います。
お読みくださりありがとうございました。