思い出の歌を
初めて出会ったのは、いつのことだっただろうか。
父も母も、自分が城の外に出てもちっとも叱ったりはしなかった。それどころか、毎日泥だらけで帰ってくる自分を満面の笑顔で出迎えて、今日は何をして遊んだのかとか、どこに行ったのかとか、新しい友だちはできたのかとか、心底楽しそうに聞いてくる。
だから自分も正直に話した。今日は城下町の子どもとちゃんばらごっこをした。今日は初めて城壁際の街道を歩いた。今日は……元気な女の子と友だちになった。
「彼女」はいつも明るかった。王子である自分にへりくだったりせず、普通の友だちとして扱ってくれた。女の子だからちゃんばらごっこをしたり、泥だらけになって走り回ったりはしなかった。大抵彼女は男同士で遊ぶ自分たちを笑顔で眺め、一緒に日向ぼっこし、花を摘んだり歌を歌ったりして遊んだ。
基本的に自分は自由に過ごした。それでも、辛くなることはあった。王子としての責任に潰されそうになったり、両親に叱られたり、剣術の練習でボロ負けしたり。
城にいるときは大抵カークが一緒にいたから、カークとも一緒にいたくないときもあった。彼に罪はないが、どうしても城で起こった嫌な出来事を思い出してしまうから。
そういう時、自分は彼女の家に転がり込んだ。勉強が分からなくて辛い、両親に怒られて辛い、はたまた将来国王になるのが嫌だ、など、彼女や彼女の両親に泣き付くこともあった。
そんな時、必ず彼女は黙って自分の話を聞いてくれた。優しく頭を撫で、大丈夫だよ、大丈夫だよと慰めてくれた。
そして、歌ってくれた。
あの歌を。
優しい、思い出の歌を――
「セイシェール・ミシェ嬢。すぐさまフォルス殿下の元へ参上してください」
朝、システィナとサイシェイが仕度を調えるなり兵士が押しかけてきた。いつも見張り役や呼び出し役をしてくれる穏やかな青年兵士だが、今日ばかりは引きつった表情で忙しなく長靴のかかとを鳴り合わせている。怒っているというよりは、予想外の出来事に彼自身も驚いているように見えた。
かといってまさか自分が召し上げられるとは思ってもいなかったサイシェイはシスティナの寝間着を畳む手を止め、吊り気味の目を丸くした。
「私に? システィナではなくて?」
「はい、殿下からのご命令です」
サイシェイは一瞬戸惑ったものの、システィナの視線を受けてすぐに部屋を出て行った。
一人部屋に残されたシスティナは自分とサイシェイの寝間着を畳んで籠に入れながらもやもやと不安に胸を押しつぶされそうになった。
兵士の様子からしてただの茶会の誘いでも近況報告でもなさそうだ。それにグラディールに何か起きたならまず、サイシェイより王女であるシスティナを呼ぶはずだ。
自分ではつつがなく大人しく生活しているつもりなのだが、ひょっとして何かフォルスの機嫌を損ねるようなことをしでかしてしまったのだろうか。その責任がサイシェイに回されたのではなかろうか。
サイシェイの無事を願いながらうろうろと部屋の中を歩き回っていたシスティナだが、拍子抜けるほどあっさりサイシェイは帰ってきた。
帰ってくるなりサイシェイは渋面で口を開く。
「えーっと……システィナ、今度はあなたが呼ばれたのよ」
「わたしが?」
問い返され、サイシェイは何とも微妙な表情で首を捻る。
「いや、それが昨日の子守歌が何か引っかかったらしくて……陛下に聞かれたのよ、あれは誰から教わったんだって」
「それで、わたしから聞いたのだと答えたのね」
「ええ。そうしたら陛下は血相を変えて、今度はシスティナ王女を呼べ! って。あんなに取り乱したフォルス王を見たの。初めてだわ」
システィナはサイシェイと留守を交代し、先ほどの兵士に連れられてフォルスの執務室へ向かった。
文机に向かうフォルスは朝日を背に浴びて金髪をきらきら輝かせているが、青い目には覇気がなく、寝不足なのか若干まぶたが腫れぼったい。だがフォルスほどの美形は少々の寝不足で美しさを損なわれることはないようだ。参上したシスティナを毅然とした態度で出迎え、自分の前の席に座らせた。
「……私がなぜおまえを呼んだのか、セイシェール・ミシェからあらかた聞いているだろう」
フォルスは一度、傍らのカークと目配せしてシスティナに向き直った。
「昨夜、セイシェールが眠れぬおまえのために子守歌を歌った。その歌は元々、おまえが彼女だけに教えた歌である……これに間違いはないか?」
「はい」
システィナは正直に頷く。フォルスの意図はまだ、ちっとも分からない。
「ではその歌をおまえはどこで知った? セイシェールはおまえが幼少期、王妃から教わったと答えたが……」
「サイシェイが説明したとは思いますが……幼い頃にお母様の膝の上で歌ってもらった記憶があるのです」
子守歌のことはサイシェイにしか打ち明けていない。冷たくなった母の様子を見ているととても子守歌のことなんて口に出すことができないし、姉に相談しても鼻で笑われるだけだろう。
幼い頃、夜寝るのが怖いと駄々をこねたシスティナはサイシェイに、子守歌を歌ってとせがんだ。優しく、温かかった頃の母を思い出せる子守歌は、そうしてサイシェイにも伝えられることになった。
だがフォルスは高い鼻の横に皺を寄せ、文机に肘を突いてシスティナに問う。
「しかしおまえの母……グラディール王妃はグラディールの貴族出だと聞いている」
「はい、お母様もお父様もグラディール王都で生まれ育ちなさいました」
「……その歌は本当に王妃から教わったのか?」
念を押すように再度問われるとどうしても、自分の発言に自信が持てなくなる。
だがシスティナに「母」という名の者は一人しかいない。幼少期は乳母に育てられたらしいが、その辺りの記憶は一切ない。当然のようにシスティナはあの歌を歌ってくれた優しい女性を母である王妃だと信じていたのだ。だからこそ、「本当に母から教わったのか?」と聞かれて即答することはできなかった。
フォルスは俯き、不可解そうな面持ちで「おまえが歌ってみろ」と命じた。
正直、システィナは歌は得意ではない。政界の花よ蝶よともてはやされた姉は歌や踊り、絵画に器楽と何でもこなしていたそうだが、システィナはそもそも芸術に触れる機会を与えられなかった。
それに事実音痴らしく、数年前サイシェイに促されて子守歌を歌ったことがあるが一瞬絶句され、そして「あなた、とんでもない音痴ね」と初めて彼女の毒舌を食らったのだ。
ためらいつつも、システィナは数回のどを鳴らして調子を整え、フォルスとカークが見守る中すうっと息を吸った。
我が愛し子よ 眠れ 眠れ
愛の御手の元 心静かに
空の女神の 腕に抱かれて
眠れ 眠れ 我が愛し子よ
汝が手に夢を 抱いて眠れ
震える声で歌いきり、システィナはかあっと赤面して俯いた。我ながら音痴だった。昨夜のサイシェイの方がずっと上手だったのでフォルスも幻滅したのではないか。
だがフォルスはシスティナのつむじを見、隣のカークに声を掛けた。
「……なあ、カーク。どうだった」
「……ん、同じだな。全く」
「歌詞にも間違いはないな」
「ああ。おまけに、ど下手くそだし」
珍しくもカークも渋い顔でなにげに失礼なことを言い、男たちはしばらく無言で唸った後、とりあえずシスティナを退出させることにした。
「……もう、その歌を歌うんじゃない。セイシェールにも言っておけ」
ドアを開けて去ろうとするシスティナの背にフォルスはそう投げかけた。システィナは一度、驚いたように振り返ったがフォルスの厳めしい表情とカークの気まずそうな顔を見、渋々頷いた。
「了解いたしました。では失礼します」
「……ああ」
システィナが護衛の兵士に連れられて部屋を去っていく。二人分の足音が完全に消え去ってから、徐にカークは口を開いた。
「……なあ、フォルス」
「カーク、グラディールの管理部に連絡を送れ」
フォルスはシスティナが出ていったドアをじっと見つめたまま命じた。
「グラディール王家の内情を徹底して洗い出せ。高位貴族も全員捜査しろ」
主の言わんとすることを悟り、カークは口を閉ざすと暗い眼差しでひとつ、頭を下げて退出していった。