グラディールの黄昏
裏口への経路はサイシェイが日頃話題にしていたため、システィナも知っている。
母が消えた方とは反対側へ廊下を抜け、階段を一階まで下り、廊下を曲がった突き当たりのドアから使用人控え室へ。使用人用の部屋が並ぶ廊下を駆け抜けて古びたドアから通用口へ入る。
走りながら、システィナの目からは涙が止めどなくこぼれていた。
母は、父はグラディールの未来を自分に託したのだ。右手に握りしめる書状の筒は固くて冷たくて、重い。まるでグラディールを背負う重さを示しているかのようにずっしりと重量を感じるそれは、システィナが今生きる意味。生き延びてグラディールを守るための手段。
やっと、母が昔のように優しい顔になってくれた。今まで素っ気なかった父も、意地悪な姉もシスティナのために敵を食い止めてくれている。
きっと、今まで家族が冷たかったのは訳があったのだ。母は言ってくれたではないか、システィナはグラディールの希望の星だと。
だから、生きなければならない。
ところどころ煉瓦が剥がれ落ちた狭い通路を抜けて最後のドアを開けると、涼やかな夜風が吹き込んできた。滅多に使わない足の筋肉を酷使して全力疾走したシスティナは火照った体が休息に冷えるのを感じた。
城の裏庭は不気味なほど静まりかえっている。普段は警備のためランプの明かりが点々とぶら下がっている裏庭は廊下と同じように、全てのランプが破壊されて火が消えている。サイシェイの情報では裏庭にも常に兵士が配置されているということだったが、兵士の気配はなくサイシェイの姿もない。ひょっとして先に堀へ入ったのだろうか、と後ろ手にドアを閉めようとすると。
「……システィナ!?」
閉じかけたドアから素っ頓狂な声が掛かり、はっとしてドアを開く。見れば、薄暗い廊下を駆けてくる亜麻色の髪の娘が。髪型こそはシスティナとそっくりだが、乱れた前髪から覗く目は鋭く尖っていた。
「……え? もしかして、サイシェイ……?」
「もしかして、じゃないわよ!」
サイシェイはいらいらしたように顔を歪め、被っていたかつらを引き剥がして通路へとシスティナの腕を引っぱった。
「王妃様の話を聞いていなかったの!? 早く、正面玄関に行きなさい! こっちは危険なのよ!」
「な、な……え?」
「ほら、大切な書類はちゃんと持ってる? それをしっかり握って、正面玄関へ! 今のうちにシスティナは城を脱出するの! 分かってるの!?」
「な、何言ってるのよ! わたしはお母様にこっちに行けと言われたのよ!」
どこに敵兵がいるか分からない状況であることも忘れ、システィナは声高く言い返した。正面玄関へ行かせようとするサイシェイに引きずられないよう、継承書を持たない方の手でドアノブを掴みながら。
「サイシェイと一緒に堀を伝って外へ逃げろって! この……この、王家の書状を持って……」
ぎちぎちと腕を握りしめるサイシェイに冷たい書状を突き出すと、サイシェイはその体勢のまま、鳩が豆鉄砲を食ったような表情でシスティナを見つめ返してきた。
「……何、それ? 私は陛下から、システィナに変装して裏口からアイカンラ軍を引き付けろって言われたのよ?」
「え?」
「システィナは正面口から逃げるって……今、アイカンラ軍は正面じゃなくて両側から攻め込んでいるからって……」
話が違う。そう言おうとシスティナは口を開いたのだが――
「……見つけた」
背後から、低い声が掛かった。と同時にシスティナの腕を掴んでいたサイシェイが呻き、よろけるように通路を後退した後、どさりと尻餅を付いて倒れた。
ぎょっとして裏庭の方を振り返ると、眩しいばかりの光りが目に突き刺さった。何十ものランプに一気に照らされ、目が暗順応していたシスティナは眩しさに悲鳴を上げて顔を背ける。
「……報告通りだな。第二王女と侍女一人。裏口から逃げるとは落ちぶれた手を使ったものだ」
先ほどと同じ声が掛かる。そしてシスティナもまた前方から何者かに腕を掴まれ、その場に組み伏せられるようにして倒れ込んだ。持っていた書状が芝生に転がり、システィナを拘束していた者の足元にぶつかる。
「システィナ!」
サイシェイの悲鳴は途中から咳き込みに代わり、システィナは驚いて顔を上げた。
自分と同じように床に転がされるサイシェイの上に乗っかるようにして彼女を拘束する、黒衣の人物。彼は手早くサイシェイを後ろ手に縛り上げ、廊下に潜んでいた男たちに引き渡した。
「本当に計画通りで拍子抜けだな……おい、国王とかはどうするんだ?」
黒衣の男に聞かれ、低い声は唸るように返す。
「……正面口は我が軍が確保した。非常階段や抜け道を探せ。奴らも捕らえなければならん。ただし無駄な命を奪うな」
「……だってさ」
黒衣の男に促され、通路にいた男たちは一礼し、素早く廊下を駆け戻っていく。システィナはぎゅっと唇を噛みしめ、思い切って背後を振り返った。
幾多のランプを持つのは見慣れない鎧を纏った男たち。つい先ほどまではしんとしていた裏庭だが、今は剣や槍やらを所持した兵士たちで埋め尽くされている。グラディール軍の者は全員統一された鎧を纏っているため、彼らが異国人――アイカンラ軍の者であることは考えずとも分かった。
そして彼らを率いるように一歩前に立つのは、年若い青年。夜風に薄い色の金髪を靡かせ、前髪の奥の青い目は研がれたナイフのように鋭く煌めいている。背後の兵士とは違う、上質なコートや軽鎧の様子からして、彼がアイカンラ軍の統率者なのだろう。
青年は恨めしげに自分を睨め付けるシスティナを見下ろし、ふっと小馬鹿にしたように笑った。
「よくもまあ、今日まで生き延びたものだ……どうだ、グラディールの姫。かつて己が打ち負かした弱小国に逆襲された気持ちは?」
「貴様、システィナに何という口を……!」
背後でサイシェイが唸るが、例の黒衣の青年がその声にかぶせるように言う。
「やめとけって。フォルスは怒ったら怖いから、黙っといた方が身のためだぜ」
そして青年はサイシェイの足元に転がるかつらに目がいったのだろう、あはは、と拍子抜けたように笑った。
「おったまげた。あんた、王女の身代わりになるつもりだったんだな。あんたたちぜーんぜん顔似てないのに、騙されると本気で思ってんの?」
「黙れ!」
くわっと青年に噛みつくサイシェイ。青年はそんなサイシェイを軽くいなし、サイシェイを拘束する縄を左手に、亜麻色のかつらを右手でくるくる回して廊下の奥へ放り投げ、金髪の青年に目を向けた。
「……んで、どうすんの? 王女は生け捕りでもいいだろうけど、この侍女は? なんかおっかないし、黙らせた方がいい?」
「……だめ、待って!」
言いながら黒衣の男はサイシェイの腰に腕を回し、マントの裾から細身のナイフを取り出してサイシェイののど元に宛っていた。システィナはとっさに声を上げて拘束された格好で膝立ちになり、相変わらず冷たい視線を寄越してくる金髪の青年をじっと見つめた。
「サイシェイは許してあげて! サイシェイはお父様に命じられただけなの! 本当はわたくしと一緒にここから逃げるつもりだったけれど、その、食い違いが起きただけで……罰するならばわたくしを!」
サイシェイが苦悩の声を上げる。金髪の青年は初めて、仮面のように凍り付いていた表情を崩した。
不可解そうに片眉を上げてシスティナを見返し、そして彼女の足元に転がっている書状を拾い上げる。
「……これは?」
「それは……グラディール王家の書状です」
青年はシスティナの許可を得ずに紐をほどき、中を見分しだした。システィナは母から託された書状を奪われてムッとしつつ、低い声で言う。
「お父様は……わたくしにグラディールの王位継承権を譲ってくださったのです。お父様方が斃れなさっても……わたくしが生き延びるように……」
そのはずだったのに、アイカンラ軍にいともあっさり捕まってしまった。これでは両親や姉に向ける顔がない。
青年は眼球だけ動かして書状の文面を見、うなだれるシスティナを見、なおもぎゃあぎゃあ騒ぐサイシェイとそれを取り押さえる黒衣の男を見、もう一度書状を見……ちっと、一つ舌打ちした。
「……そう来たか。まったく、あのもうろくジジイは……」
通路の方から足音が迫ってくる。振り向くと、先ほど青年に命じられて国王の後を追っていったアイカンラ兵士が戻ってきていた。
「……どうだった。国王は見つかったのか?」
サイシェイを俯せにして黙らせていた黒衣の青年に聞かれ、兵士は肩を落とした。
「……すまない。全員で捜索したら王座の間の裏に隠し通路があった……巧妙に隠されていてなかなか気づけなかった。すぐに隠し通路に入ってくまなく探したがもぬけの殻。大半の貴族共々、逃げおおせてしまったようだ」
「……そうか。ありがとな、ジェミン」
システィナとサイシェイは信じられないものを見た表情で兵士の報告を聞き、そしてサイシェイは震える声を絞り出した。
「……どういうこと? 陛下は逃げたって……アイカンラ兵を食い止めて戦ってらっしゃったんじゃ……」
「それは誤解だ。我々は正面を突破したとき以外剣を振るってはいない。むしろさっさと逃亡した国王たちの潔さに感服したくらいだ」
答えたのは金髪の青年。彼は書状をポンポンと手の上で転がし、どこか哀れむような眼差しを二人の娘に注いできた。
「……おまえたちは騙されたようだ。見てみろ、この書状。王女は王位継承権の書だと言っているが……」
目の前に書状を広げられ、システィナは驚きの眼差しのままそれを読み上げる。自分が思っていたのとは全く違う文章を。
「……グラディール敗戦時の、全ての責任を……システィナ・ファベリア・グラディオスに託す。国の責務、敗戦金、和解会議全てをシスティナ・ファベリア・グラディオスが務めることをここに示す……グラディール王国第十六代国王……」
「そういうことだ。つまり、王位継承ではなくてただ単におまえに敗戦の責任を擦り付け、国王は自分たちが王権を持ったまま逃亡したわけだ」
『この国の運命を託しましたよ』
母の言葉が脳裏に蘇る。
つい十数分前は身に余る光栄だと思っていた言葉が、今は正反対の意味を伴ってずっしりと体にのし掛かってきていた。
青年は書状を元のように巻き、開いた口が塞がらないシスティナと、真っ青になって震えているサイシェイを見て眉間に指を当てた。
「……だが、当の本人やその使用人が騙されていたとなると面倒なことになった。システィナ王女。おまえは一族が逃亡し、国を捨てたことに一切関与していないのだな」
「……はい」
「星女神に誓って、関与していないと言えるか?」
「……はい。星女神様に誓います」
システィナの返事を聞き、青年は心得たように頷くとコートを翻して背後の兵士に命じた。
「グラディール王国第二王女システィナとその使用人を我が国に連れて帰る。話は聞いただろう。彼女らは被害者だ。決して傷つけたりするな」
屈強な男たちは細身の青年の前に跪き、静かにそれぞれの行動を始めた。
数人の男たちがシスティナとサイシェイを抱え上げ、後の者は城内へと散り、驚くほどの手際の良さで男たちは中庭から立ち去っていった。
残された金髪の青年はどこか寂しそうな眼差しでイグヴィル城の裏庭を見渡した。
「……予想以上の寂れ具合だな」
その言葉に、サイシェイを倒した黒衣の男が顔を上げてこっくり頷いた。
「だな。おまえの手腕の見せ所、って感じだな」
青年の軽い調子の言葉に同意するように目を伏せ、金髪の指導者はマントを翻して暗い夜空を仰ぎ見た。
天蓋に輝く無数の星。故郷で見たものと何ら変わりない、天空の奇跡。
「……これでいいのだろうか? ユリーエ……」
若き指揮官のつぶやきは、風に乗って消え去っていった。
星女神暦二百二十五年。星女神暦元年から栄光の道を辿ってきたグラディール王国は、アイカンラ王国の前に一夜のうちに倒れた。国王と王妃、第一王女を始めとする国の首脳たちは全員国外へ逃亡し、第二王女とその侍女のみが人質としてアイカンラへ護送された。
十三年前、アイカンラを殲滅したグラディールはそのアイカンラによって、栄光の歴史に幕を閉ざすこととなった。