記憶の子守歌を、あなたと
その後。近隣諸侯の同意を得て、ようやくフォルスの戴冠式が実現された。
約一ヶ月前、アルケセドナとの合同夜会が開かれたアイカンラ城の大ホールに諸侯や貴族たちが集められ、北の大国エルメジュナ王国国王の手でフォルスに王冠が授けられた。
もし、システィナにが本当のグラディール王女であったならば心おきなく式に参加できただろう。だがシスティナはフォルスの申し出を辞退し、フォルスの戴冠式もグラディール統治権の決定会議も全て参加を断った。
「……いいの? システィナも見たかったんでしょう? フォルス殿下――フォルス陛下の戴冠式」
その夜、ホールで新国王歓迎の宴が行われている中、自室でサイシェイに聞かれてシスティナは緩く首を横に振った。
「わたしはシスティナ王女じゃないもの。高尚な場へ出る権利はないわ」
「システィナ……」
サイシェイはシスティナのベッドを整えながら、文机に向かうシスティナの背に問いかける。
「……なら、これからユリーエとして生きていくの?」
「……」
システィナからの返事はいくら待ってもやってこない。これは長期戦になるだろうか、と古い枕カバーを抱えてサイシェイは主君の背中を見つめた、そこへ。
「……システィナ様、ご仕度を。フォルス陛下がいらっしゃいました」
ドアの外で見張りの兵が告げ、システィナは勢いよく立ち上がった。
急な訪問であったため、薄手のドレスの上に一枚カーディガンだけ羽織り、サイシェイに背を押されてシスティナはフォルスの待つリビングへ出た。
一方のフォルスも宴から抜けてきたばかりなのだろう、戴冠時に着ていた衣装そのままだった。動きにくそうな金地のガウンを羽織ってクリスタル製の王杖を手にし、縁に鉱石飾りがあしらわれた帽子を被っており、質素なシスティナの部屋の中でひときわきらきらと輝いて見えた。だがフォルスが眩しく見えるのは決して、衣装の効果だけではない。「亡国の王子」もしくは「アイカンラの代表者」から「アイカンラ国王」になったフォルスの内面から強い意志が輝きとなって溢れ出していた。
システィナには今のフォルスの姿は眩しすぎ、ソファにゆったり身を委ねているフォルスの前で慌ててグラディール風のお辞儀をした。
「陛下……今夜はおめでとうございます。アイカンラ王国の新しき国王の誕生を、心からお祝い申し上げます」
深く頭を下げるとフォルスは少し困ったように端正な顔をしかめ、王杖を手持ち無沙汰そうに指で弄んだ。
「そうかしこまるな。今まで通り接してくれたらいい」
「今まで通り……」
それは、ユリーエとして接してほしいということなのか。
しばしの空白の後、フォルスに促されて彼の対面に座り、システィナはもじもじとカーディガンの裾をいじった。ここ数日、どうもフォルスの顔を直視できない。
「……今後のことだが。システィナ、君はどうしたい?」
徐に尋ねられ、システィナは顔を上げて――はっとしてまた伏せ、しばし考えた後、口を開いた。
「……陛下が許してくださるならば、グラディールに帰りたいです」
フォルスの顔に影が差す。俯いているためフォルスの表情に気付かないまま、システィナは先ほどよりはっきりした声色で言った。
「グラディールの国民に改めて会いたいのです。今後、主を失ったグラディールはアイカンラの直轄地となるでしょう。その前に……グラディールの国民たちにわたくしの身の上を明かし、フォルス王の素晴らしさを説きたいのです。そして全てが終われば……もう一度ここへ戻って参ります。ここがわたくしの生まれた国。グラディールはわたくしを育てた国。育ててくれた母国に一言だけ、最後の挨拶をすることをお許しください」
そして、深々と頭を下げた。フォルスはシスティナのつむじを驚きの眼差しで見つめ――安堵のため息をついて口元を綻ばせた。
「そういうことならば、喜んで許そう。君は必ず、アイカンラに……私の元に帰ってきてくれるのだろう?」
「はい」
迷いのないシスティナの返事。そしてようやくシスティナは顔を上げ、まっすぐフォルスを見据えた。
「これからはユリーエ……昔のわたくしの影から逃げません。フォルス陛下との思い出が全て蘇ったわけではないのですが、これから時間を掛けてでも必ず、ユリーエの記憶を取り戻します」
これはシスティナが先日からずっと心に決めていたことだ。ついさっきサイシェイに聞かれた時は思わず黙してしまったが、フォルスだけにはしっかり伝えておきたかった。
だがシスティナの覚悟とは裏腹にフォルスは表情を曇らせ、王杖を脇に置いて顎に手を遣った。
「……その覚悟は嬉しい。だが、無理にユリーエのことを思い出す必要はないと、私は思っている。もちろん私としては楽しかった幼少時代の思い出を共有したいと思っている。カークも態度は素っ気ないが、君がユリーエの記憶を取り戻してくれたならばきっと喜んでくれるだろう。だが……ユリーエの体験したことは君にとって、全てよい思い出であるわけではないだろう」
フォルスの言わんとすることが分かり、システィナは軽く目を伏せた。
あの時、去りゆくフォルスの背中を見てユリーエの記憶を断片的に思い出した。その記憶の中にあった、燃えさかる城下町の映像。十三年前、グラディールによってアイカンラが滅亡した時の記憶。
今はその映像が絵画のように一場面に固定されて映し出されるだけだが、ひょっとすれば本当の両親が殺害される現場を、住人たちが斬り刻まれる瞬間を、故郷が滅びる姿を、思い出してしまうかもしれない。フォルスたちと引き離され、怪我を負いながら一人、絶望の中を彷徨った時の苦しみも蘇ってしまうかもしれない。
だがシスティナは首を横に振り、緩く微笑んだ。
「おっしゃる通りでしょう。でも、辛い思い出も悲しい記憶も、それがユリーエ――わたくしの姿なのです。思い出の一つ一つがあなたと……フォルスと結びついてくれるなら、これ以上の幸せはありませんわ」
フォルスはシスティナの笑顔とその揺るがない言葉を聞き、しばし浅く呼吸を繰り返した後、そっと口を開いた。
「……私は小さい頃からずっと、君のことが眩しかった。王城では学べないことをたくさん教えてくれ、たくさんの冒険をした。いっぱい泣いて、いっぱい笑った……私はそんなユリーエのことが、大好きだった」
フォルスの真顔の告白を聞いてひとつ、心臓が不定期に脈打った。きっと、ユリーエの影を受け入れる前の自分だったならば、彼の言葉を素直に受け入れられず、嫌悪すら抱いてしまっただろう。自分はやはりユリーエの身代わりなのか、と。
だがシスティナは胸に手を当て、微笑みを絶やさないまま応える。
「ええ。きっと昔のわたくしも、あなたのことが大好きだったことでしょう」
「……私もそうであってほしいと願っている。だからこそ……もう一度、一から君のことを好きになりたい」
まっすぐな、フォルスの眼差しと言葉。いつもは鋭く細められた目を柔らかく緩め、口元に微笑みを浮かべるフォルスは一国の主でも、過酷な少年時代を送った不屈の強者でもなかった。
再会を果たした幼なじみを愛おしく思う、ただの少年の顔をしていた。
「きっと私は、何度でも君のことを好きになるんだと思う。今、私が想いを寄せているのは幼なじみのユリーエではない。健気で心優しい、可憐な姫君、システィナだ」
胸の奥から何かがこみ上げる。小さく鼻を啜り、システィナは熱を持ち始めた頬に手を当てて何度も頷いた。
「わた、わたくしも……わたくしもきっと、何度でもあなたを好きになります……これから先、何度記憶を失っても……また、あなたの強さと優しさに心奪われて好きになると……思います」
「……もう記憶喪失なんてなってほしくはないけれど」
フォルスは少しふてくされたように付け加え、そして立ち上がるとテーブルを回ってシスティナの横に立ち、静かにその場に跪いた。
「……好きです、システィナ。どうか、私の側にいてください」
今度こそ、側を離れないでください。
システィナは笑み、若き国王の差し出した手に己の手を重ねた。
「……わたしも好きです、フォルス。わたしをお側に置かせてください。あと……小説本、ありがとうございました」
フォルス王はその言葉を聞き、一瞬不意打ちを受けたように目を丸くし……そして、心から幸せそうに微笑んだ。
夏が過ぎた頃、復興に励むアイカンラ王城の門を一台の馬車がくぐった。
城の者が見守る中、まず馬車を降りたのは黒髪の女性。女性はアイカンラの若き国王に挨拶し、肩に腕を回しきた茶髪の青年に一撃お見舞いし、そして馬車のドアを開けた。
馬車から元気よく飛び出してきた亜麻髪の姫はまっすぐ、フォルス王の胸へ飛び込んでいった。フォルス王は彼女を受け止め、晩夏の柔らかな日差しを浴びて二人は幸せそうにほほえみ合った。
その日の夜遅く、アイカンラ王城から不思議な旋律が聞こえてきた。
テラスで一杯飲んでいた茶髪の青年と黒髪の女性は、たどたどしい女性の歌声と涼やかな男性の歌声を聞き、顔を見合わせて微笑んだ。
不思議な音色を奏でる約束の子守歌は空を駆け、アイカンラの街を静かに満たしていったという。




