鉄人公女と、王女と侍女と
その直後。いくつかのことが同時に起こった。
ギャーッ! と尻尾を踏まれた猫のような声を上げてセドリック公子が猛然と突進し、そして彼の隣にいたサイシェイがとても滑らかで自然な動作で右足を横へ突き出し、セドリックを転ばせた。
公子がゴロンゴロンと庭を前転する中、呆然としていた公爵が我を取り戻し、息子よりは若干低めの雄叫びをあげて腰に佩いていたレイピアを抜き払い、いち早く事態に気付いたカークが素手でそれを叩き落とす。
リリアーン公女が手に持っていた華奢な扇子をばきっとへし折り、前転していた公子が庭の大木に激突して幹に頭を突っ込む形で停止する。
訳の分からない貴族たちが、グラディール王女とアイカンラ統率者の行動に口をあんぐり開ける中、イゴールを始めとするグラディールの客人たちは思わぬ展開に頬に笑みを浮かべた。彼らもまた、自国の王女がアイカンラの王子と結ばれることを密かに期待していたのだ。
公子は気絶するし公女は能面の表情のまま折れた扇子を構えるし、公爵はカークに掴みかかろうとしても軽くいなされるし、グラディールの王女とアイカンラの若君は抱き合ったまま動かないし。主君たちがあの有様なため、指示を仰げない貴族や騎士たちは戸惑うしかできなかった。
だが、そこへ侍女の気付けで目覚めたセドリック公子がとろんとした眼差しのまま、抱き合う二人を見て素っ頓狂な声を上げた。
「ティ、ティーリアの嘘つき! なんで、システィナがフォルス王子と……」
「ティーリア、というのはどういうことですかな?」
すっと音もなくセドリックの背後に忍び寄ったのは、禿頭眩しいイゴール・ミシェ。彼は公子の暴言をしっかり聞き止め、丁寧な物腰を崩さないまま、笑顔で問うた。
「まさかグラディール王国第一王女ティーリア殿下のことでしょうか。現在逃亡中の姫と接触があるはずがないのですが……」
「ティーリアが言ったんだ! 王位継承の証をくれるって! だからシスティナと結婚しろって……」
「セドリック!」
公子の問題発言を聞きとがめたアルケセドナ公爵が顔面蒼白で叫ぶ。彼は全ての隠し武器をカークに没収され、丸腰のまま彼の前に跪いていた。
「貴様、何度言えば……!」
「お黙り!」
ぴしっと鞭のごとく響いた声に、その場にいた者は凍り付いた。
若い女性の声。それはシスティナのものでも、ましてやサイシェイのものでもない。
中庭にいる者たちは皆、怯えた眼差しで麗しい公女を見つめていた。皆の視線を一身に集めるリリアーン公女はにっこりと、底冷えのする笑顔を浮かべてぽんぽんと手の平に真っ二つになった扇子を打ち付け、地に伏す父に歩み寄った。
「お父様……わたくしはそれこそ、何度も申し上げましたね。グラディール王家を匿うなど以ての外だと。フォルス様はこれまで長く苦しんだのだからせめて、結婚だけはご本人の意思を尊重しましょうと」
「そ、それは……だが私は、おまえがフォルスを好いているのを知っていた!」
公爵は娘に威圧されながらも言い返し、ようやく抱擁を解いてこちらを見つめるフォルスとシスティナを指さした。
「おまえは幼い頃から言っていただろう、フォルスの妻になりたいと! 娘の幸せを願って何が悪い! それにフォルスにとっても決して不公平な取引ではなかったはずだ……」
「まあ。娘の結婚を『取引』などと扱う父の言葉になぞ、耳を貸したくありませんし感謝もできませんわ」
誰もがリリアーン公女の言葉に聞き入り、その衝撃の告白に度肝を抜かれていた。ごく数名のみはアルケセドナ公爵の企みを事前に知っていたものの、それでも可憐な公女の豹変には内心恐れ戦いていた。
リリアーン公女はぐるりと辺りの者たちを見、そして足元にひれ伏す父を冷めた目で見下ろした。
「……グラディールがアイカンラに攻め落とされた件……お父様もおっしゃいましたよね? これは報いだと。かつてアイカンラを陥落させ、強大な軍事力で我らがアルケセドナを始めとする多くの国を脅迫していたその報復が来たのだと、手放しで喜んでらっしゃったというのに。グラディール王族が転がり込んで来たとたん手の平を返したようにごまをするのですから、わたくし目を疑いましたわ。これが、一公国を預かる身の者の行いなのかと。君主として恥ずかしくないのですか、お父様」
公爵の耳が真っ赤に染まる。彼の様子からして、娘の言うことは全ては図星なのだろう。グラディールを一度は謗ったものの、彼らを匿う報酬の美味しさに目が眩んでしまったことが。
「おまけにティーリア王女と密約までして……わたくしは再三再四申し上げましたわ。グラディールが力を取り返した際、真っ先に狙われるのはアルケセドナ、ひいてはお父様です。お父様の計画にはいくつも、危険がございました。一つでも破綻すれば身の破滅だと……申し上げたでしょう?」
そこでリリアーンは父をなじるのを中断し、いつものように柔らかな眼差しでシスティナを見つめた。
「その破綻の一つがあなたです」
「わたくし……?」
「ええ。ユリーエのことはわたくしも存じておりました。フォルス様と一緒に遊び回る城下町の子ども。その一人であり、フォルス様の初恋の方であると」
「はつ……!?」
はっと、システィナは顔を上げてフォルスを見た――が、それより早くフォルスは顔を逸らし、くっと悔しそうに呟いた。
「リリアーン……余計なことを」
「余計とは心外な。わたくしはフォルスが初恋の方と結ばれるよう、ずっとお祈りしておりましたのよ」
リリアーンは先ほど自分でへし折った扇子を脇にいた従者に押しつけ、父公爵の横を通り抜けてシスティナの前に立った。恋敵の前に立ったというのにリリアーンの目は澄んでおり、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
それを見て、システィナは悟った。この女性には、勝てないと。
「確かにわたくしはフォルスに恋しておりました……でも、恋する相手が望まぬ相手と婚姻を結ぶ、その悲痛な顔を見るのがわたくしにとっては大変な苦痛でした。その婚姻相手がわたくしだったとしても、とてもとても喜ぶことはできなかったのです」
ふっくらした手がシスティナの手を取り、労るように優しく撫でつけた。
「わたくしは幼少の頃、ユリーエと会ったことがありましたの。ですからわたくしは夜会の席ですぐに、あなたがユリーエであることに気付いたのですよ。時折監視させていただきましたが、あなたがフォルスを想う姿は本物。だからあなたの存在はお父様の計画の『破綻』の一つとなり……見事、わたくしの希望を成就させられたのです」
そこでリリアーンは表情を引き締め、フォルスに凛とした眼差しを向けた。
「……フォルス殿下。先ほど申し上げたように我が公国にはグラディールの王族が匿われております。お父様との計画が成功すればすぐにグラディールに舞い戻り、再び王座に就くつもりだったようです」
「……だからお母様はグラディール陥落時、わたくしに王位継承の用具を授けてくださらなかったのですね。元々、わたくしに王位を継がせるつもりはなかったと……」
納得したようにシスティナが言うと、リリアーンは頷いた。
「そうでしょうね。あの方々があなたに望んだのは敗戦時の責任転嫁。ほとぼりが冷めるまでアルケセドナに潜伏し、王位奪還に必要な用具を携えてグラディールに帰るつもりだったと、ティーリア王女の口から聞きましたの。もちろん、強力な後ろ盾となるアルケセドナの公子……わたくしの弟を携えて」
リリアーンはなおもぎゃあぎゃあ叫んではイゴールに睨まれる弟を見、そしてフォルスに向き直った。
「殿下、どうかご判断を。お父様にはもう、あなたに逆らう力はございません。わたくしはあなたに全面協力いたしますわ」
「……何から何まですまない。感謝する、リリアーン」
フォルスはこっくり頷き、いつの間にか公爵とアルケセドナ騎士を縛り上げていたカークに声を掛けた。
「カーク、すぐに第三隊を率いてアルケセドナへ向かえ。グラディール王族三人を捕らえ、アイカンラまで連行しろ」
「ういっす……といっても案内役がほしいんだけど。それに他国人の俺だけじゃアルケセドナに入れねぇよ」
「それならばわたくしが」
フォルスが人選する前にリリアーンが名乗り上げ、きりっと表情を引き締めて胸に手を当てる。
「お父様がグラディール王族を住まわせているのはアルケセドナ辺境の離宮です。馬車ならば数日もあれば往復できる場所です」
「……分かった。ではすまないが頼む、リリア」
リリアーンはフォルスの言葉に振り返り、そして心から嬉しそうに微笑んだ。
「……そう呼んでくれて嬉しいわ、フォルス。どうか、ユリーエ……システィナ様を大切に」
「……ああ」
慌ただしく婚礼の行列が撤去され、アルケセドナの要人たちはフォルスの指揮でアイカンラ城に拘留される。そしてリリアーン公女を乗せた馬車が勢いよく、アイカンラの城門をくぐり抜けていった。
システィナは困惑していた。
「……えと、それは一体……何?」
自室に帰り、走ったせいで泥だらけになった衣装を着替えさせられた後、システィナはサイシェイが跪いて差し出した手紙を見て首を傾げた。
「手紙? 何か言いたいことでもあったの?」
「……辞任書です」
手紙に触れかけたシスティナは指を止め、そしてサイシェイのつむじを驚きの眼差しで見つめた。
「辞任? もしかしてサイシェイ、わたしが嫁ぐ際に職を退こうと思ったの?」
「それは……いえ、はい。その通りです」
サイシェイは面を上げずに、くぐもった声で肯定する。
「わたくしは……夜会の時に偶然知り得たのです。アルケセドナ公爵の企みを全て……そして、システィナが公子との結婚後に殺され、公子がティーリア王女と再婚されるつもりだということも」
システィナは微動だにせず、忠実な侍女の告白を聞き入れた。
「……このままシスティナについて行けばわたくしもきっと、口封じで殺されていたことでしょう。だから……殺されるくらいなら家族の元へ戻ろうと、あなたを見捨てる覚悟で辞任するつもりだったのです」
二者の間を痛いくらいの沈黙が流れる。
ゆっくり瞬きし、システィナは徐に口を開いた。
「……でも、わたくしはユリーエの記憶を取り戻した。そしてセドリック公子と結婚することも、あなたが殺されることもなくなった」
「……」
「だから、あなたはこれからもわたくしの側にいてくれるのでしょう?」
システィナの言葉にはっとサイシェイは顔を上げた。そしてにこにこ笑顔の主君を見上げ、恥じ入るように顔を赤らめた。
「そ、それは……しかし、わたくしは命惜しさ故にあなたを見殺しにするつもりで……父に百殴りされても足らない罪を負うところだったのです」
「ですから、もうその心配はなくなったのよ。あなたがお父様に殴られることも――いえ、それは今後も続くにしろ、恥じることはありません、セイシェール・ミシェ」
「システィナ様……」
「命令です。これからもわたくしの側にいなさい。わたくしの一番の侍女でかつ親友として、勝手に離れることは許しませんわ」
サイシェイは初めてシスティナの口から発された命令に目を丸くし、しばし考えるように黙し、徐に口を開いた。
「……今後も雇用してくださるのですね」
「ええ」
「わたくしの罪を許してくださるのですね」
「もちろん」
「分かったわ」
言うなりすっくと立ち、サイシェイはシスティナに差し出していた手紙を両手に持つと、気合いの鼻息と共にそれを真っ二つに引き裂いた。そしてそれらを重ね合わせ、もう一度二つに引き裂く。
「あーあ、よかったわ。これで私は大切な主君も仕事も親友も失わずに済んだのね。こんな紙っきれをずっとポケットに入れて緊張していただなんて、ミシェ家の名折れね」
ぶちぶち言いながらさらに細かく手紙を引き裂き、大体十六分割したあたりでそれを部屋の暖炉の中に押し込んだ。今夜火を付けた時にはさぞよく燃えることだろう。
「じゃあ、これからもふつつか者ですがよろしく、システィナ」
ぴっと右手を上げるサイシェイにほほえみかけ、システィナは頷いた。
「ええ……よろしくね、サイシェイ」




