蘇る思い出
システィナの機転やリリアーンの微笑みによって、一時騒然となった夜会はその後円満に続き、フォルスの閉式の言葉によって和やかな空気のままお開きとなった。
リリアーンはシスティナのことをいたく気に入り、「お互い結婚してもよい義理姉妹でいましょうね」とシスティナの手をしかと握って言ったのだった。
夜会から後は慌ただしく、二組の婚礼に向けてアイカンラとアルケセドナは様々な計画を進めていた。その計画の主となるのはフォルスとアルケセドナ公爵で、二人の姫や依然ぶうたれているアルケセドナ公子は特にすることがなく、そしてついにアルケセドナへ発つ日がやってきた。
「まずはフォルス様とリリアーン公女が式を挙げられるわ」
システィナの髪を梳かしながらサイシェイが説明する。
「システィナ、あなたはアルケセドナのセドリック公子と一緒にここでお二人と公爵をお見送りして、あちらで準備ができ次第後を追ってアルケセドナへ入るわ。式典用の馬車で向かえばちょっと日にちはかかるだろうけれど――護衛もたくさん付けてくださるし、心配することはないわよ」
システィナはサイシェイの仕事を邪魔しないよう、そうっと目だけ動かしてサイシェイを見つめた。
サイシェイの話しぶりを聞いていると、まるでアルケセドナへ行くのがシスティナ一人だけと言っているかのような気がしてくるのだ。一侍女でしかないサイシェイが同じ馬車に乗ることはないだろうが、それにしてもサイシェイもアルケセドナへ行くつもりがあるようには思えない。
考えれば、ここ最近サイシェイはややよそよそしく、仕事中も思い詰めたような眼差しをすることが多くなった気がする。「アルケセドナへ行ったら一回は観光したいわね」と言えば「ええ、きっとセドリック公子が案内してくださるわよ」と答え、「アルケセドナへ行くのは初めてだから緊張するわね」と言えば「システィナなら大丈夫よ」と答える。そして「イゴールもサイシェイがアルケセドナへ行くって言ったら悲しむでしょうね」と言えば「いえ、それはまずありえないわね」とあっさり言い返す。
ひょっとしてサイシェイは自分について行きたくないのだろうか、と思ってシスティナはぎゅっと唇を噛んだ。そんなはずはない。今までシスティナのどんな我が儘にもサイシェイは付き合ってくれた。ずっと一緒にいると約束してくれた。だから、一緒にいてくれるはず。側で支えてくれるはず。
サイシェイのブラシが髪に引っかかり、小声で謝られる。システィナは首を横に振り、ここ最近使用していない文机に目を遣った。
結局、フォルスから貰った本を読めないままだった。せめて、あれだけは思い出の品として――優しいフォルスからの贈り物としてアルケセドナに持って行こう。そう、システィナは誓った。
あらかたの事前準備を終え、とうとうフォルスとリリアーン公女の先行隊がアイカンラ城を発つ日になった。
彼らはフォルスと公女の他、アルケセドナ公爵や護衛騎士たちを率いてアルケセドナ公国へ向かい、国民への紹介や式の準備を行うそうだ。王族の結婚式となれば準備まで相当時間が掛かる上、システィナがアルケセドナ公子と共に公国へ渡った後も多忙なフォルスと接する機会は皆無と言っていいだろう。
そして二組の結婚式が済めばフォルスとシスティナはアルケセドナ公爵家姉弟を介しての義理兄妹となる。もう、ろくに話すこともできなくなる。
出発の朝、アイカンラ城門から城下町まで人払いがされ、飾り立てた四輪馬車がどんと城門前に腰を据えていた。馬六頭で曳く馬車は荘厳で、とにかく大きい。システィナは公子と共に城の大扉前に並び、目の前で公爵と話をするフォルスをぼんやりと見つめていた。
隣に立つ公子は結局、夜会でシスティナに暴言を吐いてから一言も会話することなく、今日もぽっちゃり太った体を子ども貴族服の中に押し込み、暑いだの足が痛いだのと傍らの侍女にぶうぶう文句を垂れていた。
システィナは視線を反らすことなくじっと、フォルスの背中を見つめていた。薄い桃色のドレスに身を包んだリリアーン公女の隣で真摯な表情をしているフォルス。これから自分から遠く離れた場所へ行ってしまうフォルス。
システィナはドレスの胸元をきゅっと掴んだ。フォルスとは結局仲直りする機会すら与えられず、二人の間もぎくしゃくしていた。
元々、自分とは縁のない人物なのだ。幼なじみであるユリーエと違い、システィナにはフォルスとの繋がりは何もない。ただ、敵国の王子と王女であっただけ。数ヶ月の間、同じ城で過ごしただけ。過去のちょっとした事情で一時、親しい仲になっただけ。
それなのに。どうしてこれほど胸が痛むのだろうか。
システィナをユリーエとして扱っていた頃、時折見せてくれた微笑みをこれからは、リリアーン公女に向けるのだと思うと息が苦しくなるのは……どうしてなのだろうか。
システィナの心の不安は、彼女の数歩後ろに控えているサイシェイもひしひしと感じていた。父含むグラディールの客人たちと共にフォルスの出立を見送ることになっているサイシェイは、何とも言えない思いで主君の背中を見つめていた。時々、自分のエプロンのポケットの中を確認するように撫でながら。
公爵との話が終わったのだろう。フォルスは頷き、傍らに控えていたカークを手招きするとリリアーン公女に手を差し出した。どこか寂しそうな笑顔でその手を取るリリアーン。
フォルスは振り向き、システィナとセドリック公子を筆頭にして見送りに出ている面々を見ると、薄い唇を開いた。
「……しばし城を空ける。留守は頼んだ」
いつも通り、感情の薄い声。システィナがぐっと唇を噛みしめたのを見、フォルスは春の風の中でわずかに目を細め、そしてくるりとシスティナたちに背を向けた。
隣で公子がフン、と鼻を鳴らす。システィナはともすればフォルスの後を追いかけてしまいそうになる体に鞭打ち、じっと彼の背中を睨むように見つめた。
フォルスが行ってしまう。システィナに背を向けて、未来の妻の手を取って、光り輝く馬車の方へと。
……行かないで。
その叫びは、声にはならない。声に出してはならない。
……行かないで。
……もう、わたしを置いていかないで。
もう? もう、とはどういうことだ?
システィナはくるりと目を回転させ、先ほどまでの悲愴に満ちた眼差しから一転、眉を寄せて考え込むようにフォルスの背中を見る。
知っている。自分はかつて、叫んだことがある。
……助けて、フォルス。
……行かないで、フォルス。
ふっと、システィナは振り返った。青々と広がる芝生と、懸命に咲く色とりどりの花。半分崩壊しつつも逞しくそびえるアイカンラ王城。
知っている。この王城が崩れた姿を。
もう一度、フォルスの方へ向き直る。彼の前方に立ち並ぶ、アイカンラ城下町の家々。
知っている。この街が炎の生みに包まれた姿を。
目の前の平和な風景が一瞬、真っ赤な炎に埋め尽くされてシスティナはひゅっと息をのみこんだ。
隣でセドリック公子が不満げに自分を見上げているのにも気付かず、システィナは目の前の光景に釘付けになっていた。
幻の炎は消え、目の前には穏やかなアイカンラの街並みが並んでいる。しかし、今のアイカンラ城下町とは少し様子が違う。もっと建物が多く、人が大通りを忙しなく行き交っている。街中に瓦礫は積まれていないし、建設途中の家もほとんど見あたらない。
金髪の少年がゆっくり、歩いていってしまう。半歩後ろに茶髪の少年を連れて、彼は行ってしまう。システィナを置いて。
ユリーエを置いて。
気付いてしまえば後は早かった。
システィナののどがその名前を叫ぶ。行かないで、とあらん限りの声で訴える。
セドリック公子が目をひん剥き、サイシェイが目を見張るのも視界に入らず、システィナは駆けだした。
待って、行かないで、と心が、のどが、訴える。
……もう、わたしを置いていかないで、フォルス!
フォルスが振り返る。フォルスは七歳の少年の顔から二十歳の若者の顔へと移り変わり、驚いたように目を丸くした。
ユリーエが不意打ちで飛び付いた時、フォルスはいつもそんな顔をしていた。
フォルスも、その名を呼ぶ。ずっと想い続けた、幼なじみの名を。
長いドレスの裾を絡げながら勢いよく飛びかかってきたシスティナの体を易々と受け止め、フォルスはブルーの目に熱い炎を宿してじっと、システィナを見つめた。
「……ユリーエ?」
「……フォルス……」
「本当に……ユリーエなんだな」
くしゃっとシスティナの顔が歪む。それを見、フォルスはくくっとのどで笑い、風で乱れたシスティナの前髪を優しく指で払いのけた。
「……その顔、昔と全く同じ。おかえり、ユリーエ」
おかえり。助けられなくてごめんね。
「……好きだよ、ユリーエ……いや、システィナ……」
なぜだろう。あれほど嫌い、拒絶していた名前だというのに。フォルスに優しく呼ばれただけでこんなに、すてきで愛おしい響きの名前になるなんて。
ユリーエは、満面の笑顔で頷いた。
「わたしもよ……ただいま、フォルス……」