黒髪の侍女
味気ない朝食を取って自室に戻る。今日は侍女が言ったように午後からパーティーがある。
無論、姉ティーリアのために開かれる会であるため、システィナに参加権はない。
強引に参加したとしても、「あの娘は誰?」で終わるだろう。システィナの存在はあまり知れ渡っていないのだから。
俯きながらシスティナが自室に戻ると、それに合わせて部屋の奥からぱたぱたと靴の音がし、侍女服姿の黒髪の女性がひょっこり顔を出した。
「おはようございます、システィナ様」
侍女は布を裂いて作ったはたきを手に、恭しく頭を下げて挨拶した。
システィナの部屋を一人でせかせかと掃除して回り、第二王女の世話をしてくれる、ただ一人のシスティナの理解者。
固く凍り付いていたシスティナの顔が緩み、満面の笑みになって侍女に歩み寄る。
「おはよう、サイシェイ。今日もお掃除ありがとう」
「とんでもないです。これがわたくしの仕事ですから」
サイシェイははたきをぽんぽんと叩き、にこやかに応じてくれた。
サイシェイはここ、グラディール王国イグヴィル城に仕える侍女の中で唯一、システィナ付きに任命された女性だ。そもそも第二王女付きになりたいという侍女が公募してもおらず、ようやくグラディール軍の軍医イゴール・ミシェが自分の娘であるサイシェイを推薦してくれたのだ。
幼少期から両親や姉に冷遇されてきたシスティナは最初、この年上の侍女をも警戒したのだが彼女は笑顔で接してきてくれ、孤独なシスティナを誠心誠意支えてくれた。今やシスティナが普通に会話できる女性はサイシェイだけと言ってよい。
国王たちも当初、第二王女の世話係に任命された侍女を見て不審そうな顔をした。しかしシスティナがサイシェイに懐き、いっそう扱いが楽になったのでせいせいしたのだろう、システィナがサイシェイにべったりでも特に何も言わなかった。それが逆にシスティナにとっては有難かった。
「ああ、そうです、システィナ様」
「サイシェイ、二人っきりの時は敬語はなしでしょ」
「……ええ。システィナ、昨日街の本屋に行ったんだけど……」
書き物でもしようかと文机に向かっていたシスティナはその言葉にばっと振り返り、空っぽの花瓶を抱えるサイシェイを輝いた目で見つめた。
「ひょっとして……掘り出し物があったの?」
「あったあった。ほら、そこの袋に入れてるから」
サイシェイがはたきの先で示すのは、システィナのベッドサイドにちょこんと鎮座する紙袋。今朝起きたときはなかったはずなので、サイシェイが今日やって来て一番に置いてくれたのだろう。
システィナは嬉々として紙袋を抱え、ベッドメイキングのされていないベッドに腰を下ろした。
「わあ……! よかった、ちゃんと続編が出てたのね!」
「ええ。しかも店の掲示によれば、来月中に最新刊が出るそうよ」
「本当!? じゃああの、作者が急病で筆を執れなくなったっていう噂はデマだったのね?」
「いや、まんざらデマでもないけど……本人は肺炎だとか騒いだけれど実際はただの風邪で、翌月にはけろっとして執筆再開したそうよ」
「なんだ、せっかくファンレター送ったのに損しちゃった」
ぶうぶう言いつつシスティナは紙袋の中から件の小説を拾い上げ、花が咲くように微笑んだ。
サイシェイは掃除の手を止め、微笑む主君をじっと眩しそうに見つめる。
システィナの境遇はサイシェイも痛いほどよく分かっている。理由も分からず家族から冷たくされ、侍女や騎士からも邪険にされているシスティナ。大国グラディールの姫でありながら、姫としての扱いを受けていないと言ってもよい日陰の王女。サイシェイが奉仕を始めた頃は誰に対しても笑顔の少ない王女であったが、こうしてサイシェイが城下町で買った小説を読むときは年相応の娘の顔を見せてくれる。
今年で十九歳になるシスティナは誰もが認める美人だ。緩く波打つ亜麻色の髪に、春の新芽をそのまま溶かしたかのような、艶のある明るい緑色の目。彼女を疎ましく思う使用人や王族でさえ、システィナの美貌には難癖を付けることはない。その代わりに「愚図だ」だの「鈍くさい」だの「可愛げがない」といった中傷を受けているのだ。確かにシスティナは要領がいいとは言い難く、おっとりした性格だ。だがそんなシスティナを「可愛げがない」王女にしたのはどこの誰だと思っているだと、サイシェイ名声を大にして言い募りたかった。
ふうっと息をつき、サイシェイははたきの先を空っぽの本棚に向ける。この部屋の主は姉姫とは違い、空想的な小説を好む。今日サイシェイが渡した小説のような恋愛小説が好みなのだが、この本棚に本が載る日は来ないだろう。イグヴィル城の侍女は国王に、極力システィナの面倒を見ないよう指示されている模様だが、あれこれ詮索したり家捜しする許可は与えられているようだ。サイシェイが小説を持ってくるようになった当初はこの本棚に小説を並べていたのだが、家捜しをしに来た侍女が小説を全て捨ててしまったのだ。「陛下の許可のない俗な書物を所持してはならない」と。
それからしばらくはベッドの下や文机の中、絨毯の下など幼いシスティナなりに工夫して本を隠していたのだが、重箱の隅をつつくのが生き甲斐のような侍女にことごとく発見され、見せしめのように焚書されてしまった。
その後はサイシェイの父の許可を得て、システィナの本をサイシェイの実家に置くようになった。サイシェイの父も国王から圧力を受けているが、システィナの希望には快く協力してくれる。おかげでシスティナはお気に入りの小説をストックすることができるのだ。
しばらく、サイシェイが部屋の中をはたきで掃除する音とシスティナが小説のページをめくる音のみが部屋の中に響いた。きっと城内は昼過ぎから開かれるパーティーに向けて大忙しなのだろうがシスティナの部屋までその騒音は届かない。この部屋は城の一番外れにあるのだ。
まったく、こんな時期にパーティーなんて暢気なものだ、とサイシェイは思う。こんな時期に――
システィナはしばし、顎に手を当てて真剣な眼差しで小説の文字を目で追っていたのだが、ふと思いついたように面を上げた。
「そういえば……サイシェイは知ってる?」
「何を?」
「アイカンラのこと」
天窓を開けようと開閉用の鎖を引っぱっていたサイシェイの動きがぴたっと止まる。約二秒後、解凍されたサイシェイはぎこちない動きで振り向いた。
「……気になるの?」
「なるわ」
システィナは腰を上げ、文机から手製の栞を取って小説に挟むとベッドに寝そべってサイシェイを見上げた。
「お父様たちは安気でいらっしゃるけれど……わたしも噂くらいは聞いてるもの。アイカンラが体勢を立て直し始めたって」
アイカンラとは、ここグラディール王国と東の国境を共にする国である。
グラディール王国が軍事力で優れているのに対し、アイカンラ王国は豊かな自然と大地を擁する自然の国で、領土面積の割に兵力は高くない。グラディールとアイカンラを比べてアイカンラが勝てるのは自然文化財の数ぐらいだろうと言われている。
だが内陸に位置するグラディールにとって、北と東に海が広がるアイカンラの土地はのどから手が出るほど羨ましいものだった。この大陸は東に行けば行くほど自然が豊かになり、新鮮な海産物が獲れる湾岸地方は内陸の国家にはない魅力を持っている。さらに海路を確保すれば海を挟んだ向こう側の諸国との流通も盛んになる。かつては海辺の小国家に過ぎなかったアイカンラが栄えたのも、海上航路を駆使した貿易産業のおかげなのだ。
そして今から十三年前、システィナの父王は兵を率いてアイカンラに攻め込んだ。アイカンラはよく言えば穏和で、悪く言えば平和ボケしている国であった。強力な騎士団を持たない国はあれよあれよという間に攻め込まれ、国王夫妻は処刑された。それに飽き足らずグラディール軍は城下町を火の海にし、他国へ逃れようと亡命していたアイカンラ国民を背後から追撃して血祭りに上げたと言われている。
そのことを父王は「戦の価値をアイカンラ国民に知らしめるためだ」と平然と言うのだが、現にアイカンラは国王を失い、国民も虐殺され、王都は焼き払われ、グラディールの統治下に置かれたのだ。さすがに度を超していると、システィナやサイシェイはこっそりと論議していた。
だがグラディールはアイカンラの土地を奪ったことに非常に満足したようで、最近はめっきりアイカンラへちょっかいを出すことが少なくなってきていた。昔は生き残りの王子を捕らえて監禁していたそうだが、今はそれすら興味を失い半ば放置状態になっているとか。アイカンラの自然や海が欲しかったというより、自国より優れた面を持つアイカンラが妬ましかっただけなのだろうと、システィナは考えている。だから奪うだけ奪えたら満足し、面倒な海上警備や土地の保護、王都の修復には関与しなかったのだろう、とも。
それで終わればまあいい。アイカンラ国民にとっては悲劇だが、グラディールの者にとっては特に毒にも薬にもならない事件で済んだはずなのだが。
最近になってアイカンラが力を付けていると、市民の間で噂になっているのだ。先日アイカンラへ行った際、元王都だったところに城が建っていた。城下町が復活していた。人が行き来していた。荒れ果てた大地に木の芽が芽吹いた。アイカンラからの逃亡者を見なくなった。など。
国王はこの噂を聞いてとりあえず視察員を派遣したものの、「確かに城が修繕されていた」という驚くべき報告を前にしても悠然と笑い、「逆襲してきたならば返り討ちにすればよいこと」と一蹴してしまった。父のみならず母や姉もアイカンラについて軽く見ているが、そのことをずっとシスティナは気に揉んでいたのだ。
サイシェイは真面目な顔でしばし黙し、やがてこっくりと頷いた。
「……私も商人の噂くらいは聞いているわ。武器商人の話では、近頃アイカンラが他国へ武器を購入しに来ることが多くなったそうよ。もちろんグラディールに繋がる商売ルートは避けているみたいだけれど、その数は半端じゃなかったんだって」
「でも、立て直した市民の一揆ってことも考えられるでしょう?」
市民が噂する「アイカンラが立て直した」がどのスケールのものなのか知るすべはないが、住民の反乱くらいならば今のグラディールでも容易にはね除けられるだろう。
だがサイシェイははたきで手の平を叩きながら首を横に振る。
「……これは先日、知り合いの武器商人に聞いたんだけれど……アイカンラからの客は妙に武器選びに慣れていたそうよ。彼はグラディール国民であることを偽って商売している身なんだけれど、ほら、やっぱりアイカンラが攻め込んできたら困るから、念のためと思ってわざと質のよくない武器を勧めたそうなの。同じ剣や弓でも、旧式で使い勝手が悪いものをね。でもアイカンラ人は騙されなかったの。ずらっと並んだ剣の中から一番質がよくて丈夫かつ軽いものを真っ先に選んで買っていったそうよ。彼も商売人だからしぶしぶ剣を売ったそうだけど、穏和なアイカンラ人とは思えない目利きだったって」
父親がグラディール軍の軍医で、そこそこ戦術慣れしているサイシェイと違ってシスティナは戦や武器の知識に乏しい。それでも、数ある剣の中から最も上質なものを選ぶのは並大抵の目では叶わないことだと推測できる。その道のプロである武器商人が巧妙に、良質な剣を見つけられないように工作した上でならばなおさらだ。
「じゃあ……どういうこと? ここ数年の間にアイカンラでは戦争に対する見解が変わってきたというの?」
「そうね……あなたの糞お父様はアイカンラの表面しか見ていないみたいだけれど、実際はかなり根っこからアイカンラは変革しているようね」
サイシェイは一国の主をさらりと貶し、何か着火したように顔をしかめてはたきを振るった。
「あーっ、それにしても腹立つわね、あなたのおとーさま! 何がティーリア王女の婚約相手探しパーティーよ! そんなことよりもっとすべきことはあるでしょうに! アイカンラへの警戒はもちろん、辺境の整備とか! 失業者手当の方策とか! 劣化建造物の保護とか!」
「そうね……でも今だからこそ、お姉様にお婿さんを捜すべきだとお考えなんじゃないかしら」
「はっ、あの性格悪な王女に婿入りするなんて、よっぽどの木偶の坊か悪趣味男でしょうね!」
サイシェイは鼻で笑い、はたきの柄の方で見えない何かをぼかぼか殴りだした。きっと、彼女はシスティナの目には見えない国王を殴っているのだろう。
「大体何よ、朝食にシスティナが遅れるのをシスティナのせいにして! 私がシスティナを起こすって言ってるのにあの性悪女を派遣して。私、あいつ嫌いなの。厨房で一緒に卵の殻剥きしていると失敗作ばかりこっちに寄越すのよ。しかもご丁寧に『コック長、サイシェイがまたこんなに卵ダメにしてますぅ』なんてアナウンスまでして!」
システィナは激昂するサイシェイをおもしろそうに見つめ、口添えした。
「この前は確か、掃除中にモップで殴られそうになったって言ってたよね」
「そう! こうやって、モップの柄の先の方を持って振りかぶってきたのよ。多分私の背中を狙ったんだろうけど、水を吸って重くなったモップを振り回して命中させるのって難しいのよね。当然こっちは避けるしあっちはぐらついて足元のバケツ倒すし。すごかったよ、真っ黒な水が廊下中に撒き散らされるんだから」
やれやれ、とサイシェイは窓の桟によかって肩をすくめる。
「で、またそれを私のせいにするんだから。侍従長に怒られたら『サイシェイが引っぱったんです!』だって。まあ、それをまるっきり信じる侍従長も侍従長だけど」
そこではっとサイシェイは面を上げ、にこにこと自分の話を聞くシスティナを見て慌てて首を振った。
「あ、でもね! システィナは気にしなくていいから! ほら、私がシスティナに仕えているからというより、私の口が悪いからなんだろうし……」
「大丈夫。気遣ってくれてありがとう、サイシェイ」
事実、サイシェイが嫌がらせを受けているのはサイシェイがシスティナ付きの侍女だからなのが一番の理由だろう。確かにサイシェイは毒舌で、システィナ絡みのことになるととたんに口が悪くなるがシスティナはそんなサイシェイの話を聞くのが好きだったし、いびられてもなお自分に付いてきてくれることに、深く感謝していた。
それでもサイシェイは腹の虫が治まらないのだろう。はたきを仕舞ってベッドメイキング用のシーツを取り出しながらぶちぶち言う。
「それに何よ、このカーテンの解れ具合! カーテンの洗濯係はマリアだったわね。あの子、ただでさえ意地が悪いのよ。可能な限り仕事の手を抜こうとするし……」
「いいのよ、サイシェイが毎日シーツを取り替えてくれるからわたくしは快眠できるのだから」
「そういう問題じゃないわ。起床係のベネッタだって、わざわざシスティナが朝食に間に合わない時間に起こしに来るのよね」
「それはお父様がそういう風に指示しているから……」
システィナの指摘に、サイシェイはぐっと唇を噛んだ。
なぜ、国王を始めとする王家がシスティナを明らかに差別するのか。姉王女ティーリアを蝶よ花よと溺愛する傍らで妹王女を貶すのか。なぜ、システィナにはろくな侍女を付けてくれないのか。なぜ、家族として扱ってくれないのか。
その事実は誰も知らない。システィナが冷遇されているというのは、ずっとずっと昔から変わらない日常茶飯事なのだから。城の者でさえ、大半の者はこの空気に麻痺されてしまっている。過剰に妹王女の面倒を見ると国王の不興を買う、というのが一般常識になっていた。
サイシェイはこの事実に憤っているが、システィナは黙って事実を受け入れるしかなかった。それに、確かに自分は家族から愛されてはいないが食事を与えられ、寝る場所があり、心を許せる侍女もいる。そして、記憶の奥底には、優しかった頃の母親が生きている。それだけで十分だった。