ミシェ家の父娘
夜会までの日々は飛ぶように過ぎ去っていった。
システィナとサイシェイはシスティナがアルケセドナ公子に嫁ぐための勉強やドレスの調達に忙しく、カークはフォルスと共に夜会の会場を整備し、来賓客を名簿にして全員に急遽招待状を送りつけた。多くの来賓は急な催し物に必ず文句の一言添えてきたが、ほぼ全員が出席の旨を返信した。
彼らとしては二組の婚約成立を祝うためというよりもアイカンラ城のくたびれ具合を堪能し、料理に文句を言いながらもたらふく食い、めぼしい娘がいれば妾にして連れ帰ろうと企んでいたりとろくな思考は持ち合わせていないだろう。何にしろ、夜会に出席してアルケセドナ公爵のご機嫌を取れられたら一番の目的を果たせたと言えるのだろうから。
招待状はグラディールにも送った。これにはフォルスも渋面していたがアルケセドナ公爵に指示を仰いだところ、「是非グラディール貴族も招待しろ」とお達しがあったため、数人の要人に向けて招待状を送ったそうだ。
結果、それを受け取ったイゴールが激怒して予定より数日早くアイカンラを訪れ、城に着くなり娘の横っ面を張り飛ばしたのにはさしものシスティナもあっけにとられてしまった。
図書館帰りで侍女を引きつれて、和気あいあいと小説の内容について語っていたシスティナの目の前でサイシェイが殴り飛ばされ、中庭は騒然となった。
「おまえは! 一体何のために王女のお側に残ったというのだ!」
旅着のままのイゴールは頬を殴られてうずくまる娘に怒鳴り散らし、側で呆然とするシスティナの目の前で勢いよく土下座した。
「姫殿下、申し訳ございません……! アイカンラに残りたいと我が儘言う娘をお側に付けながらも、政略結婚から御身をお守りすることができず……」
「い、いえ! そんなことありませんわ、イゴール・ミシェ!」
はっと我に返り、腕に抱えていた図書館の本を側にいた侍女に押しつけると、システィナは俯くサイシェイを庇うように抱きしめた。
「サイシェイはずっとわたくしの味方をしてくださいました! それにサイシェイにも選択肢がなかったのです! 我が儘を言っていたのはわたくしの方です!」
「娘を庇う必要などありませぬ、システィナ様! よりによってアルケセドナへ嫁がせるなど……不出来な娘をお許しください!」
そしてむっくり体を起こした娘をもう一度殴り飛ばそうとするイゴールにすがりつき、システィナは声を裏返させて叫んだ。
「違います! わたくしがサイシェイを振り回しているのです! サイシェイは悪くありません!」
「それによぉ……おっさん、仮にもこいつの父親なら、ここまで姫さんを守った娘を褒めてもいいもんなんだぜ」
そう言ってぬっと柱の影から現れたのはカーク。
彼は侍女たちの悲鳴を聞いて敵襲だと思ったのだろう、仕事用の黒衣を羽織っており、手持ち無沙汰そうに腰に下げた剣の柄を指で弾いている。背後に引きつれた親衛隊を廊下に残し、カークは冷めた眼差しでイゴールに詰め寄った。
「俺が見る限り、あんたの娘がいたからこそお宅の姫さんは今日まで元気でいられたんだ。こいつがいなけりゃあ、姫さんも早々にくたばってただろうよ。それを殴るのか? おまえが土下座する相手は姫さんじゃなくて、おまえの娘だろ」
イゴールはいきなり登場して娘の肩を持つ青年の存在に毒気を抜かれたようだが、今にも泣きそうなシスティナを見てぎょっと飛び退き、そして親衛隊の背後からやって来た青年の姿を見て再び、頭を垂れた。
「ふぉ、フォルス殿下……」
「カークの言った通りだ。それにこの政略結婚を持ちかけたのは本を正せば私だ。どうしても誰かを殴りたいのならば、私を殴ればいい」
そう言い放ち、フォルスは自分の白磁のように白い頬をイゴールの方に向けた。イゴールはひとつ息をつき、緩く首を横に振った。
「いえ、そのようなつもりは毛頭無く……」
「……はん、たしかに毛頭無かったでしょうねぇ……実際にあんたの頭にも」
ドスの効いた低い声。
いつぞや聞いたことのある声にフォルスはぎくっと身を強ばらせ、カークも引きつった笑みを浮かべ、システィナは「またか」とばかりに嘆息し、騒ぎを聞いて中庭に集っていた野次馬たちは声の主を求めてきょろきょろした。
ゆらり、とサイシェイが立ち上がる。彼女は乱れた黒髪をそのままに、巨大な青痣の浮いた頬を引きつらせて笑い、一歩一歩父親に向かって歩きだした。
「あんた、いっつもそうよねぇ……私はねぇ、クズクズ言われて育つような純真な心は持ち合わせていなくってよ」
「……やっと本性を出しおったか」
イゴールもまた落ち着いたもので、亡霊のごとき形相の娘を前にして深いため息をつき、娘の言う通り「毛頭無い」箇所を手で撫でた。
「そういえばおまえは怒るたびに私の頭髪を引き抜いたな……おかげでこの様だ」
「……はっ、そりゃあ残念だわ。もうそろそろ引っこ抜ける分までなくなりそうねぇ」
「そうだな。そうすればおまえの怒り爆発も収まるだろう」
「いーえ? そうなれば鼻毛でも臑毛でも引き抜かせてもらいましてよ?」
そしてサイシェイはくすくすと可愛らしく笑い――
「……一遍地獄行けやこのクソ親父ーーーーーーーー!」
絶叫と共に、唸る鉄拳を父親の腹部にお見舞いした。
侍女たちが悲鳴を上げ、イゴールの体が吹っ飛んでいく。だがイゴールは芝生を転がりながらも踏ん張り、腹部を押さえながら苦々しく笑った。
「……ほう、やるではないか。アイカンラに来てさらに腕力が上がったな、我が愛娘よ」
「そうでしょうとも! あんたにビシバシ扱かれたものねぇ!」
「うむ、強くなって嬉しいぞ、娘よ」
「ええ、今日こそあんたをぶっ潰してやるわ!」
その一声が戦いの火ぶたを切り落とした。
父がビンタし、娘が蹴る。娘が父の髪を引っこ抜くと、父は娘の頬をびよーんと引っぱる。
ぎゃあぎゃあ叫びながら王城の中庭で乱闘を起こす父娘を、侍女たちはなぜか輝いた眼差しで見つめ、兵士たちは二人を止めたいのだが命が惜しいので足踏みし、フォルスは感心したように眺め、カークは乾いた笑い声を上げて、そしてシスティナは。
「……まあ、久しぶりに拝めましたわ、ミシェ父娘の大乱闘。お城の皆さんと一緒に観戦していたのが懐かしい……」
ころころと楽しそうに笑い、芝生に座り込んで観戦モードに入った。フォルスはおもしろそうに二人を見つめながらそっとシスティナに声を掛ける。
「……よく喧嘩していたのか?」
「え? ……え、ええ、そうです」
システィナはフォルスの急接近に戸惑ったものの、その端正な顔がサイシェイらに向けられているのを知って幾分落ち着いて頷いた。
「わたくしが幼い頃はしょっちゅう。わたくしがいたずらをしてサイシェイを困らせると必ずと言っていいほど、イゴールが飛んできてサイシェイにげんこつを食らわせますの。サイシェイもサイシェイで、決まってお父様に反撃をしてましたの。サイシェイが子どもの頃はいつもイゴールが勝ってましたが、彼ももうお年なのでしょう」
侍女の甲高い悲鳴が上がる。見れば、サイシェイが父親を引きずり倒して数本の髪の毛を右手に、高らかに勝利を宣言したところだった。そして彼女は父親の尻を蹴って「夜会まで顔を見せるなハーゲ!」と吐き捨ててこちらへ戻ってきた。
「あ、お帰りなさい、サイシェイ。なんとか勝てたようね」
「ええ。父さんは近頃腰痛だから、腰を狙えばこっちにも勝機があるのよ」
そう答えるサイシェイはすっかり戦闘モードから帰還し、いつも通り冷静な侍女の顔をしている。彼女は自分を見つめるフォルスの視線に気付き、ああ、と手の中の髪の毛を差し出した。
「戦利品です。少しお分けしましょうか?」
「いや、要らん」
「でしょうね」
サイシェイはころころ笑い、痣だらけの顔を綻ばせた。いつも通りのサイシェイの顔を見て、自然とシスティナの顔にも笑顔が灯る。
「まあ、サイシェイったら酷いお顔。図書館からいい本は探し出せたことですし、一旦お部屋に戻りましょう。顔を冷やさなくては」
「いや、私が自分でしたことだし……それより誰か、あのもうろくジジイに湿布でも送ってあげてちょうだい。あいつ、医者のくせに自分の体には鈍感だから」
サイシェイは周囲で固まる侍女たちに言い残し、システィナに腕を引かれて中庭から立ち去っていった。
嵐が去った中庭はなおも騒然としていて、兵士たちは「あんな凶暴な侍女は見たことがない」「まるでケダモノの父娘みたいだった」と青い顔で囁き合い、侍女たちはなぜか恍惚とした眼差しでサイシェイの背中を見送る。そして一拍遅れ、サイシェイの頼みを受け付けるべく我先にと湿布を取りに救護室へ駆けていった。
「……いやぁ、まさかあそこまでじゃじゃ馬だとは思わなかったな」
あははは、と笑いながらカークはフォルスの肩を叩く。
「姫さんも楽しそうだったし、まんざらでもないな、こういう余興も」
「……ああ。サイシェイがいればアルケセドナへ嫁いでも、システィナ王女は楽しく過ごせるだろう」
親友の一言に、カークは不意を突かれたように沈黙した。そして呆れたような、落胆したようなため息を吐いてぽんぽんとフォルスの背を叩く。
「なーんだ、やけに楽しそうにしてると思ったらんなこと考えてたのかよ」
「もちろん純粋に観劇としても楽しませてもらったが……だが、サイシェイは私にはない力を持っている。私には……あそこまでシスティナ王女を楽しそうに笑わせることはできないし、そんな自信もない」
中庭はようやく人が疎らになってきた。兵団長の号令を受けて兵士たちはそれぞれの配置に戻り、侍女たちは先を争いながらイゴールの客室へ向かっていた。
普段通りに戻りつつある中庭を見回してフォルスはふっと自嘲気味に笑い、軍服のマントを靡かせてカークに背を向けた。
「私にはシスティナ王女も、ユリーエも幸せにする力はない。サイシェイと同じように、アルケセドナ公子にもその力があることを――何よりも願っている」
カークは静かに立ち去った主君をしばし見送り、そして背伸びして吹き抜けの中庭から青く広がる空を見上げた。
「……どいつもこいつも、たいした犠牲精神だよなぁ……まあ、俺も人のこと言えないか」
そして腕をぐるぐる回すと自分の仕事をするべく、城内へ戻っていった。




