夜のバルコニーにて
フォルスの気変りに戸惑っていたのは何も、女性陣だけではない。
最近の主の挙動不審っぷりにはカークもいい加減うんざりしてきていた。近頃のフォルスは執務中も落ち着きがなく、よく考え込むように思案顔になる。元々感情の起伏に乏しい顔立ちのため、カーク以外の使用人には気付かれていないだろうが、彼がシスティナに現を抜かしているのは手に取るように分かった。
それに加え、やたら茶会を開きたがる。前はカークの取りなしで渋々茶席に向かったというのに、最近ではシスティナと会う口実が欲しいのか、「茶の用意をしてくれ」「テーブルに生ける花を持ってきてくれ」「手紙を届けてくれ」「王女は元気か」「手紙を届けてくれ」と、とにかくやかましい。そして鬱陶しい。
カークとて、幼い頃ユリーエと遊んだ仲だ。三人の中では一番年長のカークは二人のお守り役になることが多く、彼もユリーエの下手くそな子守歌が好きだったし、そのユリーエが生きていたと知ってとても嬉しくはある。
カークは何とか言い訳を作って執務室から脱出し、片手に酒瓶を持ち夜の王城を歩いていた。鬼の居ぬ間に洗濯だ。今日はどこか静かな場所で一人晩酌でもしようと、彼は二階バルコニーに向かった。
ここは風通しがよく、幼少期にはフォルスたちと日向ぼっこをしたこともある場所だ。晴れた日には月を拝みながら酒を飲むことができ、フォルスと一緒に飲むこともあったのだが、今日は一人酒に興じようと、ガラス戸を開けた。
だが、先客がいた。
バルコニーのど真ん中にどんと腰を据えて座っているのは、見慣れた黒髪の女性。アイカンラでは珍しい、短めの髪が夜風を受けてさらさらと流れている。
意外な人物を見て、我知らずカークの頬が緩んだ。
「……よっす、おまえもここが気に入ったか?」
明るく声を掛けて歩み寄ると、黒髪の頭が一瞬揺れ、そして床にあぐらを掻いたまま顔だけこちらへと向けてきた。
「……あなたは、変態男……」
「カーク」
「そう、カーク」
興味なさそうに言い、サイシェイはふいっと前に向き直って膝に頬杖を突いた。そんな彼女の隣に立ち、カークはやれやれとばかりに肩をすくめる。
「おい、うら若い女があぐらなんて掻くもんじゃねぇぞ」
「あなたに何か不都合でもあるの?」
「おまえ、生物学上は女なんだからその辺気にしろよ」
「結構。あなたが見なけりゃいい話でしょ」
「まあ、俺もあんたみたいなつるぺた女の下着よりかぁ、姫さんの方が見たいけど……うおっ!?」
突然振り上げられた拳をかわし、カークはぽりぽり頭を掻いてサイシェイの隣に座った。
「あんた本当におっかないな。……あー、そう怒るなって。ほら、ここで会ったのも何かの縁だ。一杯しようぜ。どうせ姫さんの護衛はちゃんと付いているんだろうし、たまにはあんたも息抜きしろよ」
その言葉にサイシェイは反応し、拳を収めるとカークが掲げる酒瓶を見て気まずそうに目を細めた。
「それ……お酒?」
「ああ、アイカンラの名産酒。俺、こう見えて酒豪なんで」
「……でも、私お酒は……」
「……ひょっとして弱いのか?」
サイシェイは答えないが、沈黙が肯定を表していた。つい、好奇心がむくむくと頭をもたげてカークはニッと笑った。
「そうかー。さては酷く酔ったことがあるんだな。うんうん。女はそれくらいが可愛いんだよなぁ。んで、おまえは酔ったらどうなる派なんだ? 脱ぐか? 甘えるか? 泣くか?」
「吐く」
「……」
「一度、夜会で先輩にきっついお酒を飲まされたことがあって。元々いけ好かない嫌みな侍女でね、酔ったから部屋まで私を送れ! って言われて。で、先輩の部屋に着いたらいよいよ気分が悪くなって。遠慮なくそこで撒き散らせてもらったわ。先輩も相当酔っていたから何も言われなかったし、部屋に放置して帰ったんだけど……続き聞きたい?」
「い、いんや……俺が悪かった、すまん」
冷めた目で淡々と語るサイシェイに恐れをなし、カークはアハハ、とごまかし笑いして酒の栓を抜いた。ぷしゅ、と軽い音を立ててコルクが弾け、芳醇なブドウの香りが夜のバルコニーに広がる。
「じゃ、俺一人で晩酌でもするか」
「……注ぐだけならできるけど、しようか?」
「おっ、サンキュ」
サイシェイが豪快に注いだワインを一気に煽り、カークはぷはーっと大きく息をついた。隣のサイシェイが顔をしかめて軽く顔の前で手を振った。
「酒臭い」
「そりゃそうだろ……ああ、フォルスから解放された後のこの酒がいいんだよ。隣には晩酌してくれるそこそこ美女がいるし、俺って幸せ者ぉ」
「それはどうも」
しばし、二人の間を沈黙が包み込む。三度カークの杯にワインを注いだ時、サイシェイがぽつりと言った。
「……あまり声を大きくできないけど、その……陛下はやっぱり」
「……ん、まあそうだな」
サイシェイもカークと同じことを考え込んでいたのだろう。カークは後ろ手を突き、サイシェイの横顔を伺った。
「お宅の姫さんがいたく気に入っていて……あんまりにも分かりやすすぎるし国家間の問題もあるから止めろって言ってるんだけど」
「システィナは一応、陛下の好意は受け取っている様子よ」
酒瓶を指先で摘んで揺らしながらサイシェイは言う。
「自分の過去についてはそれなりに昇華しているつもりみたいよ。あの子は元々立ち直りは早い方だし、今までの疑問が解消できたし本当のシスティナ王女が辛い目に遭わなくて、よかったんだって」
「なんだそりゃ、随分頭ん中がお花畑な姫さんだな」
「私もそう言っておいたわ」
サイシェイは薄く笑い、瓶を傍らに置いて膝を抱えて丸くなった。
「……だからこそ心の中ではきっと、悩んでいるのよ。自分がシスティナなのか、ユリーエなのか……どっちとして振る舞えばいいのか」
「そりゃ、グラディールの……」
「お宅の指導者様の振る舞いを見れば、そうは思えないけれど」
そこでサイシェイは咎めるように声を鋭くさせ、首を捻ってカークを睨んだ。
「あの子も微妙な気持ちなのよ。もしユリーエの記憶が戻ってきたなら話は簡単になるでしょうけど、システィナは子守歌のこと以外、ユリーエとしての記憶がないの。だからシスティナからすれば、フォルス王は自分を見ているんじゃなくて、自分の影にいるユリーエを見ているんだって思ってしまうの。システィナとしての自分は必要ない、大切にされているのはユリーエの方なんだと……」
不満顔のサイシェイに対し、カークはきょとんとして彼女を見返した。
「だめなのか? そりゃあ最近のフォルスはいつも以上におかしいし相手するのも面倒くせぇけど、好意は好意として受け取ればいいだろ?」
「……あー、これだから単細胞馬鹿と話すのは嫌なのよ」
ケッ、と嫌みを吐き、サイシェイは足元に転がっていた瓶のコルクを拾ってしっかり封をし、カークの手の届かないところへ押しやった。
「あっ、俺の愛する地酒……」
「いいから聞きなさい変態単細胞。男からすれば好意は全部同じに見えるんだろうけど、全ての人があなたたちと同じ見解だと思うなら間違いよ。フォルス王は確かにシスティナに贈り物をするなり茶に誘うなりしているけど、本当に誘いたいのはシスティナじゃなくてユリーエなんだって、システィナは分かっているのよ」
「同じだろ」
「違うわよ! さっきも言ったけどシスティナはほとんどユリーエの記憶がないの。だから……言ってしまえばシスティナとユリーエは赤の他人。心の整理は付けているにしろ、他人の身代わりに自分が大切にされていても、心から喜ぶことはできないのよ」
「んー、そうなんか?」
サイシェイの背後に隠れた地酒に意識を注ぎつつも、カークはサイシェイの持論が上手く飲み込めないのか、ひょいっと首を傾げた。
「他人の身代わりって言っても、過去のユリーエであり現在のシスティナ姫さんなんだから、同一人物じゃないのか? まあ、フォルスも意外と馬鹿だしカッとなったら周りが見えなくなる質だけど、あいつに大切にされるなんて滅多にないことだぞ。姫さんもそんな深く考えずに、もっと喜べばいいのに」
「あなたの頭の中の辞書には『感傷』や『乙女心』っていう項目がないの?」
「むしろあんたの口から『乙女心』が出たことに俺ぁ驚きだけど」
二発目の拳は過たず、標的の額にめり込んだ。杯を放り出して悶えるカークを一瞥し、サイシェイははあぁ、とため息をついた。
「……フォルス王の気持ちももちろん、分からなくはないわ。それに王もユリーエのことは……その、普通の幼なじみ以上として見ていたんでしょうし」
「ん、それは俺も察してた」
「だから、私に王を止める権利はないし、それくらいは……我慢すべきだとは思っているのよ」
一気にしおらしくなり、サイシェイは酒瓶を引き寄せてコルクを抜き、空っぽの杯に残りの酒を注いだ。
「それに……祖国が壊滅的な時に不謹慎かもしれないけど、私はシスティナに幸せになってほしいから」
「おう」
「だから、その……二人のことは私が出歯亀せずに流れに任せた方がいいかな、って思っていて……」
「それは俺も同意だ」
腹筋を使って上半身を起こし、生ぬるくなったワインを煽ってカークはしみじみと頷いた。
「幼なじみとして……臣下としては主の暴走を止められないのは失格かもしれないが、事情が事情だ。俺も愚痴ったけど、結末は二人に任せるべきかと、そう思うな」
「……ええ」
「俺もできることなら協力するよ。こうなったら同じ穴の狢だ。お互い大変な主君を持ったな、ってことで同盟結ぼうや」
そう言ってカークは杯を傍らに置き、サイシェイに右手を差し出した。サイシェイはその節くれ立った大きな手をじっと見、微かに眉をひそめた。
今まで気付かなかったが、月明かりの中で改めて見る彼の手の平は大きくてゴツゴツしており、傷まみれだ。戦いに疎いサイシェイでも、傷のいくつかは遥か昔に付けられたものだと察せられた。きっと、十数年前のアイカンラ陥落時にグラディールの者によって付けられた傷も少なくはないのだろう。
サイシェイは面を上げ、微かに微笑むカークの顔を真摯に見上げた。
「……あなたはそれでいいの?」
「おう」
「……分かった、ありがとう」
サイシェイは素直に頷いて軽くカークの手を握り、すぐに離した。そしてしばしの沈黙の後、重そうに腰を上げる。
「帰るのか?」
「ええ、そろそろ他の侍女たちが下がる頃だし」
そしてふと思いついたように振り返り、バルコニーに寝転がったカークを見て微かに微笑んだ。ふわりと、夜風を受けてボブカットの黒髪が翻る。
「……今度は私でも飲めそうなワインを用意してくれる? そうしたら晩酌に付き合ってあげてもいいわ」
「おっ、折角ならベッドで夜のお相手もするけど? 今なら特別サービス付きで」
「どうぞ。ただしあなたが私に手を出す前に、あなたの大切な箇所を機能不全になるまで踏みつけてあげるから」
「うわぁ、そのプレイちょっとときめくかも」
「変態も風邪引く前にさっさと部屋に戻りなさいよ」
お誘いをさらりと躱し、サイシェイは肩で風を切ってバルコニーを出ていった。
残されたカークは愉快そうにカラカラと笑い、腕を枕にして夜空を見上げた。欠けつつある白い月が惜しみなく、柔らかな光をアイカンラの大地に振りまいていた。




