節黒仙翁(後)
それから……。
(!)
目を覚ますと、再び同じ部屋のベッドの上にいた。小さい窓にかかったカーテンの隙間から眩しい朝日が筋となってユキオの顔を照らしている。
慌ててシーツを剥ぎ取って起き上がる。裸だ。服は簡単に畳まれて一人がけのソファに置かれていた。
(裸……ハダカ!?)
半分パニックになりながらベッドから降りようとして、まだ疲れが抜けていない足がもつれて腹から床に落ちた。鈍痛が半分眠っていたユキオの脳を目覚めさせる。
(いや……パンツは履いている……履いているが……)
記憶を必死に探る。アリシアの柔らかい唇の感触は思い出せた。そして豊かな、美しい彼女の白い裸身も。しかし、それから先の事は……。
ボッ!と爆発しそうなほど顔が真っ赤に染まった。あんな風にファーストキスを済ませてしまうとは。いや、そもそもアリシアとはそんな関係でもないのに……。
一体自分は何をしてしまったのか……、とそこで一緒にいたはずのアリシアの事を思い出し立ち上がる。
「メモ……?」
机の上に小さな紙片があった。ひっくり返すと、確かにアリシアの筆跡でメッセージが残されている。
『仕事があるので先に帰ります。今日からはちゃんと学校へ行きなさいね』
(……)
紅潮した体からゆっくりと熱と緊張が抜ける。そして、気がつくと心にずっしりと覆いかぶさっていた重圧が軽くなっていた。
罪悪感が無くなった訳ではない。しかし、それ以上に胸を締め付けていた焦りが消え去っている。自分が真に何をなすべきなのか、それがはっきりとシンプルに、クリアに見据える事ができた。
(アリシアさん……)
メモを握り締める。ユキオはゆっくりと顔を上げた。
嫌味なほど雲ひとつ無い青空の下、曇天としか言いようの無い心持ちのルミナがトボトボと学校へ向かっている時ポケットでケータイが震えた。歩きながら器用に片手で取り出しメールの差出人を確認する。
(玖州君!?)
ここ数日で向こうからメールが来たのは初めてだった。慌ててカバーをスライドしホロ・プロジェクターを点ける。
“奈々瀬さん、今までゴメン。俺はずっと勝手に自分だけ辛い思いをしなきゃいけないと思い込んでいた。でも、思い出したんだ。一人では仇どころか満足に戦う事も出来ない事を。俺が本当にやらなきゃいけない事を。
ずっと、酷い態度を取っていてゴメン。今更こんな事を言うのは図々しいと思うけど、また同じチームメイトとして、俺と一緒に戦って欲しいです。よろしくお願いします”
(……)
黙ってケータイを胸にぎゅっと抱きしめる。自然と涙がこぼれそうになり、バックからお気に入りの薄いピンクのハンカチを出した。
風は、夏とは思えないくらい酷く爽やかに吹いている。人通りの少ない公園の見える歩道で、ルミナはしばし立ち止まって喜びを噛みしめていた。
「おい、ユキオからメールが来たぞ」
歳に似合わない程浮かれた軽いステップで飛羽が司令所に入ってくる。珍しい事だ。だがマヤにもその理由はわかっていた。
「何があったのか知らないけど、反省してくれたようね」
二人の所へも、ユキオは謝罪のメールを送っていた。今までの勝手な出撃を詫び、真剣に反省している事。そしてまたマイズアーミー撃滅のため<センチュリオン>のトレーサーとして戦わせて欲しいと言う内容だった。
「転んで頭でも打っておかしくなったんじゃないだろうな」
「酷い事言わないの……戦闘隊長としては、どうなの?」
「カズマにマサハルがいなくなってその上ユキオまで離脱されちゃたまらん。顔を見なきゃ本気なのかどうかわからんが、俺は復帰させたい。当然罰は受けてもらうけどな」
「泣いて逃げ出すような事はさせないでよね」
両手の平を上に肩をすくめて、お前はどうするんだよ?と飛羽が問う。少し考えるフリをするが、マヤも気持ちは固まっていた。
「どのツラ下げてのこのこと、って頭に来るけど可愛い妹の為にグッと我慢して迎えてやるわ」
「そんなおっかない事言ってたら、あの二人が結婚しても寄り付いてもらえないぜ」
「アラヤダ」
口に手を当てておどけて見せる。
「優しい義姉を演じなきゃいけないって事ね」
「どうせ素は知れてんだから、もう取り繕っても駄目かもしれんけどな」
「そんな事無いわよ」
機嫌よくデスクの方を向いたマヤが、その上に積み重なっている書類の束の中からピクチャーシートを一枚出して飛羽に渡す。
「なんだこりゃ」
「パンサーチームの今後の案よ」
そこには、パンサーチームの今後の方針と、一人の少年のプロフィールが表示されていた。
「広報活動は完全に中止、カズマとマサハルには適時マスコミ対応の仕事をしてもらう……のはいいとして、このガキは?」
「今のところ適性とやる気がある子がそれしかいなくって。何度か会った事あるでしょ?」
「いなくってって……大丈夫なのか?ユキオとソリが合うようにも思えんが」
「そこは彼にも負い目があるでしょうからね、やってもらうわよ。新リーダーとしてね……それに、アリシアの件もあるからソフトに強い人が来てくれるのはありがたいもの」
フンフンと鼻歌混じりに机の上の整頓を始めるマヤの後ろで飛羽はぼりぼりと頭を掻いた。
(妙な事にならなければいいけどな……)
朗報の後に舞い込んだ想定外の話に、飛羽も少し気を引き締めた。このトラブルは自分にも降りかかってくる気がする。
ニュースは、レイミとヒロムの二人の耳にも届いていた。
当然、<組織>からの情報ではなくテレビのニュースからだ。
「こういう情報を民間のニュースから知るって、おかしいと思わないか?」
トーストした食パンにジャムを塗り終えて、食べようとしたそのパンを同居人に掠め取られる。ヒロムはしばしパンくず以外は何も残っていない自分の左手を見ていたがやがて諦めて二枚目のパンにジャムを塗り始めた。
「ヒロムが『J』をお星様にしちゃったからじゃないの?アタシ達、結局正規部隊扱いされてる気がしないし」
「人を殺人犯みたいに言うなよ」
「だってー、ケーブル抜いたのヒロムだし」
「若さゆえの過ち、ってヤツだな」
手早くマーマレードジャムを塗り終える。レイミは微妙な顔をしながら食べているが、ヒロムにはこの少し苦味のあるジャムが丁度いい。嫌いなら人のパン盗らなきゃいいのにと思いながら皿に残ったパンくずをベランダに撒く。ベランダの手すりに並んで待っていたスズメ達がヒロムには目もくれず下りて来てパンくずをついばみ始めた。
悠南市でも高い(物理的に)マンションの一室だ。最初はこんな所までスズメがやってきたことに少し驚いたが、元より自然や動物と親しく育ってきたヒロムには彼らを邪険に扱う事はできなかった。毎日こうして米粒だのパンくずだのを食べさせている。
「あの世で元気にしてるかしらねー」
「知らねぇよ……それよかパンサーチームだ。最近見ないと思ったら二人もリタイアとはなぁ」
「ユキオ君の『5Fr』もさっぱりだしねぇ、やっぱ学生は勉強に集中すべしって事かしら」
「それじゃ俺達の目的も達成できないんだけどなぁ」
ムシャムシャとパンを一枚平らげて、続けてヒロムの皿から食パンを失敬しようとしたところを、ペシンと平手を叩かれる。レイミはバツが悪いような、それでいて文句を言いたげな視線を返してきた。
「いいんじゃないの?確かに『5Fr』にセンサーは反応したけど、AI一つ確保できたからって何が出来るってのよ」
「資料は読んだだろ。<メネラオス>の連中があそこまでするような代物だ。利用価値は充分にある……」
「そういう事じゃないのよ、アタシの言いたいのは」
ヒロムの言葉を遮って、ぶっきらぼうに言いたい事だけを言うとレイミは立ち上がって皿のパンくずを乱暴にスズメ達に振り掛けるように撒いた。スズメは一瞬四方に飛びのくが、慣れているのかすぐに戻り新しい餌に食いつく。
「なんなんだよ」
「『As』を再起不能にしたから、それで気が済むの?」
「当然、ケジメはつけさせてもらう」
「相手が彼女のお兄ちゃんでも?」
「そうだ」
挑発的に見下していたレイミが笑みを浮かべ満足そうに頷いた。
「心配したのよ、このまま何もしないのかって」
「別ルートからこないだのマシンの改善版を回してもらう予定だ。それで一回でケリをつける」
「別ルート?」
「俺達の<組織>も一枚岩じゃないってことさ」
昼休み、笑顔で渾身の手作り弁当を持ってやってきたルミナを、ユキオは今までのように見ることが出来ずメールの内容を繰り返すように謝り、早口で適当な用件を口走って逃げてきてしまった。
それが、アリシアとの一件が原因である事を無意識に自覚していた。
(だめだ……とても奈々瀬さんの傍にいられない……)
大人の関係であれば『決定的』な一線は越えていないと言えるかもしれないが、女性経験が圧倒的に不足しているユキオには刺激的過ぎる一夜であった。おまけにメンタル的な支えになって貰った事が、アリシアを特別視する事に繋がるのも無理は無い。
彼がまだ未熟なのは、それを思い人であるルミナに隠すのが精一杯で(勝手に、と言ってもいい)負い目を感じている部分である。
それは、童貞なら責められるような事でも無いと擁護できなくも無いが。
校舎のほぼ端から端まで全速力で逃げてきたため、息が切れて辛い。ヒィヒィと漏れる呼吸音が非常階段に満ちていた。昼飯も食っていないのが余計に体にキツイ。
(今までどおり、チームメイトとしてやっていけば、大丈夫、大丈夫……)
眼を瞑り、胸に手を当ててそう言い聞かせる。しかし、今までとはいつまでの今までなのか。
少なくとも、あの日、バイクで二人で出かけたような関係では無いだろう。
あの時には、二人とも素直に寄り添っていられたのに今はとてもそうできないような気がする。
(アリシアさんとの事を黙って……俺は奈々瀬さんとデートなんか出来る資格があるのか?)
カズマやマサハルが聞けば非モテの勝手な自意識過剰だと一蹴に付すような疑問に、ユキオは悩んでいた。そして悩めば悩むほど答えが出なくなり、ユキオはまたルミナとの距離感を失ってゆくのだった。