ハイドランジアに祈れ(後)
錆びついた錠のナンバーをなんとか回し、ルミナは駅の非常階段に入り込んだ。ようやく鬱陶しい雨から開放されて息を落ち着かせ髪を書き上げると雫が床に大量に落ちた。すっかり濡れた髪を拭こうとタオルを出そうとして、リュックごとユキオに預けてしまった事を思い出す。
「大丈夫かしら……玖州君……」
再び息が詰まりそうになるが、力を込めて足を踏み出し上を見た。
(信じよう……きっと、玖州君なら……!)
ユキオを迎えに行く為にも、なんとしても自分が無事に街に辿り着かなければならない。照明もなく暗い階段の上で周りを見回すと壁に懐中電灯が備え付けてあるのが目に付いた。祈りながらスイッチを入れると、思ったより強力な明かりが闇を裂いて辺りを照らし始める。あまりの眩しさにルミナは手を翳した。
「これなら……」
電灯を握り、反対の手で錆と埃だらけの手すりを握りながら急な階段を下りてゆく。南雲の話ではこの階段で悠南市の地下に張り巡らされた、ライフラインを管理する共同トンネルに辿り着くはずだが……。
(山の上からだから、結構降りる事になりそうね……)
体力配分に気をつけなければならないと思った。一旦外に出て飲み物を買おうかとも思ったが黒づくめの連中がここにきているかもしれないし、なによりこの廃駅の自動販売機が動いている気がしない。諦めて狭い階段を下り続ける。
何回か折り返しになっている階段を下りると僅かにスロープになっている通路に出た。意外と簡単にトンネルに出られるかなと期待したが、それはただ階段の位置を変えるだけの通路のようで、また長い階段を下り続ける羽目になる。
(何故、<メネラオス>が私のメモリーキーを狙ったのかしら……)
とりあえず安全が確保され、単純な運動に入ったことでルミナに事態を考える余裕が生まれた。
(それなりに機密はあると思うけど、悠南支部に入り込んでいる彼らが必要とする情報を、私が持っていると……?)
心当たりが無い。支部に無く、自分のメモリーキーの中にのみあるデータなど……。
しかし、<何か>があるはずなのだ。
「ユキオ君……」
微かな恋心を抱く男の名前を呟いた。それだけで、少し勇気が沸いてくる。暗く長い迷宮のような道も一人で歩いていける勇気が。
やがて、長い階段が終わり広い半円状のトンネルに辿り着いた。間違いなく市の地下共有トンネルだ。壁に沿って電線、ガス管に太い水道管、電話線などが街の方へ続いている。
灯りを巡らせてみると、簡単な地図があった。悠南市街まで23km。
「さすがに、遠いな……けど!」
自分はただ歩くだけだ。彼らを撒かなければならないユキオに比べればこの程度の距離など大したことは無い。オレンジ色の小さな誘導灯を睨みつけ、ルミナは埃を巻き上げて大きく一歩を踏み出した。
「逃げられただと?」
管制室の隅でアレックスが不機嫌そうにそう言うのを聞いて、部下がメガネの端をクイっと上げながら、やっぱりなと呟いた。
「追っている?二人には傷をつけてないんだな?じゃあいい、撤収しろ。顔を見られた?構わん、どうせもう帰国する頃合だ。お前だけ先に送り返してやる」
イライラと通話を切り大きな溜息をつく。部下はハッキングを続けながらボヤくように言った。
「ま、痛い目には遭わないですみましたな」
「アイツには少し痛い目を見せた方がいいんだが、今回ばかりは救われたな」
「撤収するんで?」
ぬるくなったスポーツドリンクをヤケ酒代わりに一気飲みする。アレックスはその見た目とは少し印象が違い仕事に関しては真摯である。他の隊員達のように職務中にビールを呷ったりはしない。
「土産はしっかり頂いていくがな、あのバカのせいで少し難しくなったかも知れん」
「何かと言うとすぐスパイ映画の真似事をしたがりますからね……」
「とにかく、帰国の準備は済ませておけ。他の連中にも通達しろ」
「アイ、サー」
飛羽から来たメールに従いユキオが辿り着いたのは、悠南市から二つ離れた町の小さな居酒屋だった。途中で追跡を諦めたのか黒塗りの外車はいなくなったものの、豪雨の中枝やガードレールにバイクを擦りながら逃走したせいで酷く疲労してフラフラだった。出来れば早く降りて休みたかったがそんな余裕は無かった。飛羽かマヤに事態を説明しないと。それにルミナの安否も確認しなければ……。
夜になって雨はようやく収まろうとしていた。小雨の中目的の居酒屋が見えてくる。その店先に、見覚えのある小柄な少女の姿が見えた。
「奈々瀬さん!」
「玖州君!」
店先に停めたバイクからヨロヨロと崩れ落ちるように降りたユキオをルミナが支える。息も絶え絶えのユキオもだが、どこでぶつけたのか、ウィンカーは割れカウルもボロボロになっている新車が痛々しい。右側のサイドミラーまで脱落しているということはだいぶハデにどこかにぶつけたのではなかろうか。
「大丈夫!?玖州君!」
「あ、ああ……みんなは……?」
「大体揃ってるわ……歩ける?」
「ああ……ごめん、このままいいかな?」
「あ、うん。いいよ」
膝が笑い上手く歩けない。恥ずかしいと思いながらもルミナに半身を預ける。ポン、とここまで自分を運んでくれた愛車を叩いてから店の中に向かう。
呑み屋は、飛羽の馴染みの店らしい。日曜の夜、しかも雨となっては客も少ないのか異様なほど人気が無い。
(いや、貸切にしているのか)
奥の座敷に通される。そこには見知った、そしてもうだいぶ会っていなかったような気がする悠南支部の面々がそれなりに広いはずの座敷にひしめくように並んでいた。卓すら全て畳まれて壁際に立てかけられている。全員から拍手と共に迎えられる中、二人は飛羽の前に来た。
「生きてたか、ユキオ」
「お陰さまで」
横を見るとカズマとマサハルもいた。よっ、と右手を上げるのに目で返事を返す。マヤやアリシアは支部に詰めているのか、ここにはいないようだったが。
「大体話は聞いた。とにかく無事で何よりだ……。そっちに座ってくれ。これから会議を始める」
(会議……?)
とりあえず従って少しだけ空いていたスペースに二人して肩を寄せ合って座る。疲れきったユキオの濡れた髪や肩をルミナがタオルで拭いた。
「諸君」
飛羽が立ち上がり静かに話し始めた。
「ユキオとルミナが連中に狙われた理由は、正確な所は判明していないそうだが……ヤツラが俺らの職場で好き勝手しているのには間違いが無い。本部の連中も頼りにはならんし、警察にも持ち込めない案件だろう。不本意ではあるが今日の事でこれ以上この街をあのクソ野郎どもに任せるわけにはいかなくなった。我々は独自の判断で本来の任務に戻る事にする」
「!」
どよめきは起きなかったが、全員の緊張感が一気に高まったのがわかった。ユキオ達は一瞬その内容が理解できず表情が固まる。
そこにさらにもう一人、最後の来客が訪れた。ガラッとふすまが開き一同の顔がそちらを向く。
「どうも、お待たせしまして」
現れたのは、黒縁のメガネと外人のような高い鼻、そして立派なヒゲをつけた初老風の人間だった。しかし、それは全部変装用の小道具だったが。
「それはわざわざ買って来たのか?国府田」
「いえ、これは私物です」
「時々おめーがわからなくなるわ」
事もなげに国府田は変装グッズを外しはじめた。
「北海道から脱出する時に、尾行を撒くために必要だったんですよ」
「それで逃げおおせられるなら、おれは<センチュリオン>の人間の質を疑うぞ……」
半ば幽閉同然に北海道に飛ばされていた国府田は、密かにマヤや飛羽と連絡を取っていた。<メネラオス>の悠南支部
への参画は<センチュリオン>本部以上の力を持つ組織による決定らしいという所まで事情を探ったところで、国府田の自由が制限され文字通り窓際閑職に追い込まれたものの、監視の目をかいくぐりマヤ達との連絡を数回重ねていたと言う。
その国府田の後ろからもう一人、小柄な少女が顔を出した。
「ええと、こんばんわ……」
「白藤さん!」
ルミナが声を掛ける。そこにいたのは御蔵島で共に戦った静岡支部の学生チームの白藤ホノカだった。一礼してからずれたメガネをくいと戻して恥ずかしそうにはにかんでいる。
「おう、悪いな。『アレ』は持って来てくれたか?」
「は、はい。ここに」
胸元に手を突っ込んで無造作にD-USBメモリを出す。男達は「なんでそこから出すんだよ」と胸中でツッコミをいれたがとりあえず黙っておいた。ユキオだけは途中で強力な力により首を90度曲げられたので最後まで見ることが出来なかった。
「つ、使えるのか?」
若干平静さを失いながら受け取る飛羽にホノカが不安そうな顔を見せた。
「メーカーの方からは……とりあえず実働状態までは持っていったそうですが、製品として万全を保証できるレベルではないと……」
「しかし、今我々に使えるのはこのマシンしか無いのです」
国府田も普段使いのメガネをかけかえながら懐からプリンターで出力した紙のスペック表を渡す。ピクチャーシートが一般化した最近では珍しくなったものだ。そのスペックに目を通しながら飛羽が唸る。
「大した性能だが……大丈夫なのか?」
「残念ながら乗り心地は、オススメできるようなものでは無いらしいですね。反応が過敏の上に推進剤の量もそれほどでは……」
「ま、なんとかするさ。アイツラへの手回しもサンキューな。後詰も頼むぜ」
「任されましょう……ワザワザ北の国から帰ってきて見ているだけなのもアレですから」
「隊長!」
部屋の端の方で端末を見ていた隊員が飛羽に声を掛けた。
「マイズアーミーの接近を感知。43分後後には電力施設に攻撃が始まります!数も多く……<メネラオス>では対処し切れない可能性が」
「……ちょうど役者も揃ったな」
ポケットにメモリとスペック表を捻じ込みながら飛羽は全員を見渡した。
「全員移動開始、行動開始は50分後だ。サツなんかに捕まるなよ!解散!」
隊員たちが無言で座敷を出てゆく。カズマやマサハルも、後でな、と言って後に続く。取り残されたユキオとルミナが所在無げに飛羽を見上げた。
「何を始めるんです?」
「俺の車で話す。乗れ」
ケータイを手に取り、アドレスを開く飛羽の顔にはいつものような余裕は微塵も無かった。
「ナニぃ!?こっちはまだ県内に入ってないんだぞ!……おいこらちょっと待てねぇのか!」
クソッ!とリック大尉が車載電話を叩きつけるように戻す。暗い夜道を大型の軍用車のシートに不機嫌そうにドッカと座り直した。左で運転している軍曹が苦笑いで相槌を打つ。
「ヒバは相変わらずのようですね」
「ああ、急に呼び出したと思えばコレだからな……全く、こっちの都合も考えないで」
「しかし、こちらも他ならぬ大統領の直々の密命ですから……」
「アイツと付き合ってると、ホント退屈しないな……。おい、全員準備はできてるか?ニホンシュ飲む時間もないが、頼むぞ」
シートから振り返り、座席に座っている部下達を見やる。十数人ほどの歴戦の部下が各々の銃を片手にニヤリと白い歯を見せた。そのむさ苦しい男達の間に混じって美しいシルバーブロンドの小さい頭が揺れている。
「お前さんも、やっかいな縁が出来たもんだな」
「気にはしていない。いい実戦経験になる」
「……まさかとは思うが実弾じゃねぇだろうな」
「同じ硬質ゴム弾頭を拝借している。心配ない」
そう言いながらロシア陸軍制式仕様の拳銃を見せるのはロシア軍人のヴィレジーナだった。
彼らは飛羽の要請で緊急来日した応援部隊だった。正確には彼らの上層部から指令が下ったので、何かしらのルートを使ったのだろうが。レジーナに関しては、ロシア側に要請を出したところ、間に合いそうなのがニュージーランドでの技術交換から帰国中の彼女だけだったと言うだけである。
(いつかは日本に来て見たいとは思っていたが、こうも早く来ることになるとはな……)
所詮は民間の非武装組織。特に難しい任務だとは思っていない彼女は行って見たい観光名所を頭の片隅で考えていた。
ついでに、また会うであろうあの『As』乗りの少年の顔も。
「ま、無事に仕事が終わった暁にはスシでも奢ってもらうさ」
無事に終われば、のハナシだがな……と呟きながらリックは前を向いてナビを見た。悠南市まではまだしばらく時間がかかりそうだった。